rhの読書録

読んだ本の感想など

散華 / 太宰治


 万年筆で字を書く、という趣味を久々にやりたくなり、インクとノートを買った。

 さてどんなことを書こう。日記を書くのはブログでやってるし。

 そこで何かの小説を書き写してみることにした。

 昔、「小説家になりたい人は名文を書き写せ」みたいなことを書いている人がいて、なんだか嫌だなぁ、と思った。小説ってそんなに不自由なのか。せっせと誰かのマネをしないと書けないものなのか。みたいな反発心を抱いた。

 でも今の自分にはもうそんな反発心も特に残っていない。どうせ書くなら、自分の好きな文章を書いたほうが良いじゃん。と、素直に思える。それが進化なのか退化なのかは分からないが。

 最近読んだ高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』という本で引用されていた、太宰治の『散華』を書き写すことにした。

www.aozora.gr.jp


 しばらく使わないと万年筆はインクが固まってしまうので、それを溶かす必要がある。水を張ったアクリルケースにペン先を沈めて一日置いてインクを全て溶かし、しばらく乾かした。

 筆写を始めた直後は、長らくペンを握っていなかったので、手が馴染むのに時間がかかった。慣れてからは、毎日1ページのペースで書き進めた。

 iPadで青空文庫の散華を表示させながら、それをノートに書き写していった。途中で横書きから縦書きに変えた。やっぱり日本語は縦書きのほうが書きやすい。最初から縦書きのノートを買っておけばよかった。

 万年筆が趣味と言っても、自分は結構な悪筆。はっきり言ってとても他人にお見せできるような文字ではない。なんて言いながら画像載せてるけど。

 そのせいで苦労した、というほどでもないが、他人が読むための文字を書くときは意識してかなり丁寧に書かなければならず労力がかかったのは、辛かったと言えば辛かった。

 未だに字を書くことはそのものは特に好きでも嫌いでもないが、自分の書いた文字で紙が黒くなっていくのはなんだか楽しい。塗り絵を塗っているような感覚に近いのかもしれない。

 万年筆は筆圧をかけずにどんどん書ける。それもまた楽しい。

 使っている万年筆はその辺の文房具で変えるような安物だ。良い万年筆を使ってみたい気持ちもある。でも金持ちのステータスのための嗜好品にお金を出す余裕は、今の自分にはない。


 初めて小説を書き写してみてわかったこと。

 小説をただ読むのと、書き写すのとでは、それぞれにメリットとデメリットがある。

 書き写すことで、同じ言葉が繰り返し出てくるところが、より詳しく感じられたりした。文章に「呼吸」というものがあるとすれば、それを感じられたと言えるかもしれない。

 一方で、書き写している間は、文字、特に漢字を正確に書くことに夢中になるので、文章の意味や物語の筋まで追いかける余裕はなかなか出てこない。文の意味への理解度はあまり高まらない。


 散華は、太宰治の二人の友人の死について綴った、事実に基づく小説だ。

 ひとりの友人の「三井君」は、病を得て亡くなる。その逝く様に対する感慨を綴った太宰の文章が、あまりに美しかったことが、この作品を書き写そうとした一番のきっかけだ。

私は三井君を、神のよほどの寵児だったのではなかろうかと思った。私のような者には、とても理解できぬくらいに貴い品性を有っていた人ではなかったろうかと思った。人間の最高の栄冠は、美しい臨終以外のものではないと思った。小説の上手下手など、まるで問題にも何もなるものではないと思った。

 もうひとりの友人である詩人志望の「三田君」は、アッツ島の戦いで戦死した。このとき初めて新聞などで「玉砕」という言葉が、戦死を美化する言葉として用いられたという。

 冒頭で太宰は、「玉砕」という美しすぎる言葉を避けて題を「散華」とした、と書いている。作中で自らを「私だって真実の文章を捜して朝夕を送っている男である」と書く太宰には、玉砕という美しい言葉で死を隠蔽する欺瞞に対する、なんらかの思いがあったのだろうか。

 一方で、三田君の「玉砕」を賛美するような言葉もある。これが、当時作品を出版する上で検閲を避けるために必要だったのか、それとも太宰の本心だったのかはわからない。

 Wikipediaによると、アッツ島での敗北は当時の日本に大きな衝撃を与えたという。そう考えると本作は、そのショックに即座に応じるために、時代の空気を敏感に感じ取った太宰によって書かれた、というような印象もある。戦いによる大敗を、一人の青年の死として捉え直すことで、別の意味を持たせようとした、というか。


 なによりも本作で太宰は「美しい死」というものへの強いこだわりを見せている。上の引用部分にもあるように。

 そんな、カート・コバーンじゃあないんだから。という例えももうそんなに通じないだろうか。今だったら何らかの精神的な病名がついて終わってしまう案件なのかもしれない。

 なにがあっても、死んじゃあダメでしょう、と、少なくとも今の自分には素朴に思えるわけだが、それはそれとして、美しい詩を求めながら戦争の犠牲となった三田君、その死と彼の言葉に至上の美しさを見出した太宰治が書く小説の美しさに、思わず心を打たれずにはいられない自分がいるのもまた確かだ。