rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

おたく神経サナトリウム / 斎藤環

おたく神経サナトリウム

おたく神経サナトリウム

 "日本一「萌え」に詳しい精神科医(帯文より)"こと斎藤環による連載時評の書籍化。主に「おたく」にまつわるトピックが扱われている。

 もともと斎藤環の本をよく読んでいたので、連載中から気になってはいたのだが、「ゲームラボ」という雑誌が少々アウトローな感じだったのであまりフォローはしていなかった。書籍化によってまとめて読めるようになったのはうれしい。

 あくまでも自身はおたくではなく「おたく愛好家」であることを自認している著者の分析は、しかしあくまでも鋭い。二次元ポルノの規制に反対し、ゲーム脳を批判する姿勢は、まさしく「おたくの味方」といったところか。

 著者自身による定義によれば、「おたく」とは「二次元で抜ける人」であるが、個人的には「アニメ・マンガの『キャラ』で抜ける人」と言った方が正確な気がする。前者の定義だと、葛飾北斎の春画で抜ける人もおたく、ということになってしまう。まぁ、それはそれで正しい定義なのかもしれないが。

 そんなおたくにまつわる歴史を振りかえりながら、「こんな面白い作品があるんだ」とか「あんな事件があったね」ということを知ることができる本書は、「おたく教養本」として大変優れていると言わざるを得ない。

 なにしろ文体がライトなので読みやすい。ときどき文法が間違っているように見えるところがあるが、全てネットスラング(主にブロント語)であることは確定的に明らか。

 どのような教養が得られるかというと、例えば本書冒頭、2001年の時評では、「エイリアン9」というアニメが取り上げられる。エイリアンを防具として体に規制させて戦う美少女アニメである。もちろん僕はそんな作品は知らなかったが、今聞いても斬新な設定だ。

 で、エイリアン9でググると、今でも考察が行われていたりして、かなりの人気があったことがうかがえる。よし、覚えておこう、エイリアン9。

 みたいな感じで「ページをめくる→グーグル検索」を繰り返しているとなかなか読み進められないわけだが、やっぱり知らないことを知るのは楽しいなぁ、なんていう小学生並みの感想を抱いたりもする。

 他にも、エルシャダイの話題が出たときはMAD動画を見返したり、佐村河内事件のポエム化問題についての文章を読んではMAD動画を見直し、号泣議員こと野々村竜太郎の件に触れたところでMAD動画を見る。こいつMAD動画ばっか見てんな?

 もちろん真面目な話もちゃんとある。ゲーム脳問題。秋葉原通り魔事件。児童ポルノ規制問題。おたくの歴史は明るい話題ばかりではなかった。

 果たしておたくに未来はあるのか? っていうかイマドキおたくなんてどこにいるの? いや、コミケがあれだけ盛り上がってるんだから、いっぱいいるでしょ。でも二次元で抜くなんてもうわりと普通じゃない? そうでもないか。とりあえず二次創作の非親告罪化は避けられたみたいだから当面は大丈夫なのかな。

 なんてことを思う私は萌えを解さない、どちらかというとゲームオタクに分類される人間なのだが、狭義のおたくの活動が規制されるようなことがあれば、日本のオタクカルチャー全般が委縮することにもなりかねないので、なるべくそういうのは避けてもらいたいと願っている。

 あと個人的な話だが、小田嶋隆先生がゲームラボに連載を持っていた、ということを本書を読んで初めて知った。

 はてな的には、となりの801ちゃんの名前が出てきてちょっと驚き。はてな村奇譚の人というイメージの方が強い自分は紛れもないニワカ。というかそもそも著者ははてなダイアリーユーザーだったりする。

d.hatena.ne.jp

ほんのり!どんぱっち / 澤井啓夫

 『ボボボーボ・ボーボボ』の澤井啓夫が描く、『ボーボボ』のパラレルワールドを舞台とした、日常系ギャグ漫画。

 ボボボーボ・ボーボボは大好きなギャグ漫画のひとつだった。僕がギャグ漫画好きになったのは、主にボーボボと『魔法陣グルグル』と『魁!クロマティ高校』と『泣くようぐいす』の影響である。結構多い。

 当時連載されていた週刊少年ジャンプの中でも、ボーボボの画風はお世辞にも上手いとは言えないものだった。特に連載初期は、ありていに言って子どもの落書きレベルに近かったと言っていいだろう。もっともこれは当時作者が若かったこともあるし、裏を返せば、その画力でも連載開始にこぎつけられるほどの卓越したギャグセンスを有していたことの証拠でもある。

 『ボーボボ』の連載終了後しばらくは、短期連載や読み切りしか発表していなかったようだが、2011年に最強ジャンプで新作『ふわり!どんぱっち』の連載を開始。その画力は『ボーボボ』と比べると大幅に上達しており、そのあまりの進化がネット上でもちょっとした話題になった。

http://plus.shonenjump.com/rensai_detail.html?item_cd=SHSA_JP01PLUS00000029_57plus.shonenjump.com

 『ふわり!』連載初期は『ケロロ軍曹』風の居候ドタバタコメディだったのが、だんだん可愛い女の子が出てくる日常萌え系ギャグへとシフトしていき、終盤には『よつばと!』風のまったり日常漫画に。画風のみならず、作風もどんどん変化して行ったのである。

 そして単行本が3巻出たところで、タイトルを『ほんのり!どんぱっち』に変え、連載場所も「ジャンプ+」に移行。

 http://plus.shonenjump.com/item/SHSA_ST01C88052600101_57.html

 初期の『ほんのり!』は『よつばと!』色が強かったが、徐々にセリフの多い、ストーリー系のギャグ漫画へと変遷していった。そして今回読んだのがその単行本。一巻のみの短期連載の形となっている。

 実を言うと自分は、『ふわり!』はリアルタイムで読んでいなかった。というよりも、ボボボーボ・ボーボボが『真説ボボボーボ・ボーボボ』になったあたりから、どうもギャグが失速しているように感じて読むのをやめていた。もちろん、単に自分が年をとって対象年齢から外れただけだった可能性もある。しかし少なくとも『ボーボボ』の頃のギャグは、今読んでも間違いなく面白い。

 そんな自分が『ほんのり!』を読もうと思ったのは、つい先日、なんとなく思い立ってボーボボについて調べたところ、結末が衝撃的な感じになっているということを知ったから。上述の『ふわり!』での作風の変化などについて知ったのもそのときが初めてだったりする。


 というのが僕と『ボーボボ』との今日までのあらまし。やっと本題である『ほんのり!』の話に入れる。

 『ふわり!どんぱっち』の舞台は現代日本風のふわり町で、『ボーボボ』の世界のパラレルワールドという設定だった。それがタイトルを『ほんのり!』に変えるにあたり、さらに世界観をリセット。ふわり町によく似た、また別のパラレルワールドにあるふわり町という設定になった(コミックス話間ページの作者解説より)。

 なのでヒロインのビュティは、『ボーボボ』のビュティとは見た目が似ているが別のキャラクター。性格的にもツッコミ役ではなく、マイペースだが包容力のある、ふんわり感のあるキャラとなっている。

 一方、主役である首領パッチは、ビュティの家にペットとして居候している。なぜ彼がビュティの家に来たのかは、作中で語られる。

 前半の数話はビュティと首領パッチの二人を中心に、へっぽこ丸(こちらも『ほんのり!』世界の住人)やビュティの友人であるパンコやリンとの、なにげない日常ギャグが淡々と描かれる。

 『ふわり!』の頃はまだデフォルメが効いていた作者の画風は、本書でより写実的にシフト。古本屋の値札シールやカラオケマシンの採点画面までがフォトリアル。トレースを多用していることは間違いないが、そのリアルな世界に違和感なく首領パッチを溶けこませることができている。

 あのビュティの指先一本一本や、耳のヒダや、ジーンズに包まれたお尻が、まるでそこにあるかのように写実的に描かれているというだけでも、あの頃の『ボーボボ』ファンにとっては感慨深いものがあるはずだ。なんだか着眼点がフェチっぽくなってしまった。


 そんな日常の中に、『ボーボボ』の世界である300X年から首領パッチを追って破天荒がやってきたことで、少しずつストーリーが展開・転回しだす。

 なぜ首領パッチは、世界線を超えてこの世界にやってきたのか? 破天荒の回想シーン。

首領パッチ「でも悪いな 今日でお別れだ」「もう行くわ」
破天荒「え?」「ちょっと待ってください…」「行くってどこへ? 」「な…なぜです? この戦いの謎も この先の未来も まだ何も答えは出てないんですよ」
首領パッチ「オーバーペースで走りすぎたからな ちょい休憩だ」

 『ボーボボ』の世界での戦いに疲れ、ふわり町へやってきた首領パッチの姿は、どこか作者の姿とダブって見える。

首領パッチ「破天荒 なんで俺がここまで全戦全勝なんでも無敵にやってこられたかわかるか?」

首領パッチ「ノリと勢いよ! ドンと構えて 世の常識とやらの逆か上を3段ジャンプで飛び越える」「単純なようで真理 何事も為せば成ると思う強い気持ち ぶれない心が重要ってわけだ」

 『ボーボボ』は、ノリと勢いのハイテンションナンセンスギャグで一世を風靡した漫画だった。


 その後、同じく300X年から黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明(知らない人のために説明しておくが、いずれもキャラクター名である)の三人もふわり町にやってきていたことがわかり、さらに話が動き始めるのか……というところで、300X年のボーボボが現れ、ストーリーは唐突に終わりを迎える。ボーボボと首領パッチが河原で語り合うシーンで。

ボーボボ「で 首領パッチ お前の方こそもう答えは出たのか? バカなりに考えて悩んでハジケきれなくなってたんだろ」「こっちの世界に居場所なり新たな可能性なり発見できたのかよ」
首領パッチ「いやいや そーゆーのはよぉ とっくに解決してんのよ オレん中でも」「そこじゃねぇのよ 今オレが思うところは」

 首領パッチ=作者だとすると、「こっちの世界」=「日常系ギャグ漫画」であるという風に読める。果たして作者は「こっちの世界」に居場所を見出すことができたのだろうか。直後のコマに描かれた首領パッチの瞳は、どこまでもメランコリックである。

首領パッチ「…」「ここ ビュティがいんだよ」
ボーボボ「…そうか」
首領パッチ「へっぽこ丸のヤツも…」

 ビュティとへっぽこ丸は、いずれも「子ども=守り育むべきもの」だ。新しい世界で、首領パッチは彼らを見つけた。

ボーボボ「楽しいならよかったじゃねぇか」「ここがお前の第2の故郷になったってことだろ」
首領パッチ「そうだな」

 ラスト手前のコマの首領パッチの顔は、うってかわって爽やかだ。


 このラストの解釈として、ネット上では「300X年のビュティとへっぽこ丸は死亡した」という説が流れているが、僕にとっては、新たな境地を見出した作者の決意表明にも見える。

 画力の向上については言うまでもないが、『ふわり!』から『ほんのり!』に至るまでの作風の変遷を見ているだけでも、作者がいかに努力家であるかが感じられる。先行する作品に似通っていることは確かだが、逆に言えば、それらの表現を自己流の表現へと昇華できるほど、先行する作品を徹底的に研究したとも言えるのではないだろうか。『ボーボボ』の頃はただのハイテンションギャグだと思っていたネタも、今考えれば、全て同じような努力によって産み出されたものだったのかもしれない。

 『ほんのり!』後半において作者は、ようやく自分にしっくりくる作風を見つけたのではないか。少なくとも自分にとっては、かなり「こなれて」いると感じた。「ボーボボ」ファンでない人が読んでも面白いくらいに。

 もちろん『ボーボボ』ファンが楽しめる要素も満載。ところ天の助が2ページ丸々喋るシーンがある他、田楽マンが2コマほど登場。さらにサービスマンやカンチョー君といったキャラまでカメオ出演。現在Amazonレビューが0件だが、もっと話題になっていいマンガだと思う。

 試行錯誤を経て新境地に辿り着いた作者は、次にどんな作品を描くのだろうか。今から楽しみで仕方ない。ボーボボを軽く上回るような名作を描いてくれそうな予感が、割と本気でしている。

 ちなみに現在、最初の3話はジャンプ+で読めるが、個人的には破天荒が出てくる7話あたりから面白くなってくると思うので、ぜひ買って読んでいただきたい。

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民主主義ってなんだ? / 高橋源一郎 SEALDs

民主主義ってなんだ?

民主主義ってなんだ?

 高橋源一郎と、SEALDsのメンバー三人の対談を収めた本。

 SEALDsの主要メンバーである奥田愛基氏は、高橋源一郎のゼミの受講者だったそうである。知らないところで意外なつながりが。


 「SEALDsって、ニュースとかで名前を聞くけど、どんなことしてるの?」と思う人は多いだろう。そういう人がまず初めに手に取る本として、この本は適していると思う。なんせ当事者たちの対談だし。

 「チャラついた若者が遊び半分でやってるんだろ?」と思っている人も、本書を読み、そして彼らが実際に活動している動画を見れば、彼らがどの程度本気で活動に取り組んでいるかがわかるだろう。

 「どこかの政治団体がバックに付いてるんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。それについては当事者たちのみが知るところであり、「特定の政治団体には組みしない」という彼らの主張を信じるしかない。本書の内容を信じるならば、彼らが全く異なるバックボーンを持った若者たちの集まりであるようだ。


 彼らの活動をどう評価すべきなのだろう?「若者が政治参加するのは素晴らしい」と持て囃すべきなのか。「衆愚政治の始まりだ」と嘆くべきなのか。

 と、どうも相手が学生だというだけで、僕のような傍観者が「評価する」という上から目線になってしまいがちなのは困ったことである。


 僕の知人の一人は、あるSEALDsメンバーのことを指して「○○(彼の所属する学校)の恥さらしだ」と言った。彼らの活動をそのように受け止めている人々も、一定数いるのだろう。

 民主制とは、国民一人ひとりが国家の主権を持っている、と考える制度のことである。でも、本当に日本人の一人ひとりが、自分は民主主義国家の成員の一人だと日々意識して暮らしているだろうか、というと、かなり怪しい。

 もちろんそんなことを言い始めたら、本当の民主主義国家なんてどこにも存在しない事になる。民主制というのは、あくまでも高邁な理想であって、その理想を追いかけ続けるという運動そのものが、民主主義なのかもしれない。みたいな言い方は、なんだかお茶を濁しているようでもあるが。


 SEALDsの活動が、民主主義のあるべき姿なのか?未来への希望なのか?僕にはよくわからない。そしてそれは、この世界中の誰にもわからないことなのだと思う。

 未確定なものを、肯定する気にも否定する気にもなれない。でも注意深く見守っていくべきだとは思う。新しい物が生まれるのは、未確定な場所からであると、大抵の場合そう決まっているから。みたいな言い方もお茶濁しがちだろうか。

日本のロック名盤ベスト100 / 川崎大助

日本のロック名盤ベスト100 (講談社現代新書)

日本のロック名盤ベスト100 (講談社現代新書)

 日本のロックアルバムに順位をつけて、ベスト100から並べた本。各アルバムについての数百字のコメントあり。

 二部構成となっており、一部がベスト100の紹介、二部が「米英のロックと比較し検証した日本のロック全歴史」というタイトルで、著者が日本のロック史を俯瞰し分析した文章が載っている。

 日本の戦後史と日本ロックの歴史を重ねて見ようという著者の試みはなかなかに面白い。

 歌謡曲→ニューミュージック→Jポップと、何故か日本の音楽業界では妙な造語が作られ続けていった、という話も興味深かった。

 しかし「心理学的手法でを社会を分析する」的な、大づかみすぎるような印象が多少無いではなかった。


 日本のロック雑誌は、アーティストを褒めることはあるが、けなすことはあまりないらしい。

 だから今まで、日本のロックアルバムに順位をつける、というような、各方面に角が立つようなことをする人がいなかった。

 だったらオレがやってやろう、というのがこの本を作った動機だという。

 ロック、な感じがする。


 ロックって、なんかかっこいいな、と漠然と思って生きてきた。

 ロックって一体なんなんだろう?という疑問も、ずっと抱き続けてきた。

 本書を読めば、ロックの歴史について知ることはできる。

 黒人音楽。ロカビリー。エルヴィス・プレスリー。チャック・ベリー。そのようなルーツ。

 しかしそれでもなお、あの頃感じた「ロックってなんなんだろう」という漠然とした疑問は残り続けている。

 
 ロックはカッコイイ。でもJポップはカッコワルイ。そういう風潮の中で育ってきたのが僕らの世代だ。

 なぜJポップはカッコワルイのかと言えば、ロックじゃないから。

 思うにあの頃は、「カッコイイ」と「ロック」は同じような概念だったのかもしれない。

 欧米のものはカッコイイ、とされており、ロック音楽もまた、その中に含まれていた。そしてその「欧米のもの=カッコイイ」という図式は、今もある程度続いている。

 見ようによっては、日本は欧米の、というか英語圏文化の文化的属国であるとも言える。今も僕はローマ字入力でブログを書いている。

 ロックを聴くことは、欧米に隷属することになるだろうか?

 おそらく戦前の日本人が見たら、隷属していることになるだろう。

 しかし日本人は、ロックを「和訳」することで、あるいは最近の言葉で言えばガラパゴス化することで、文化的な侵略に対して抗ってきたのではないか、という印象を、この本を読んで受けた。

 文化的侵略の目的は、支配することではなく、搾取することである。端的に言えば、お金を儲けていい思いをすることである。

 敵と味方に別れて一対一、というような単純な構造ではない。あらゆる戦いは局所戦である。

 どこかに悪玉がいて、そいつの指示で全部動いているんだとしたら、その悪玉を倒せば済むだけの話だ。でもそうではない。

 だからこそ、アルバム100枚という「物量」が必要なのかもしれない。いや、自分で言ってても理屈がよくわからんけど。


 と、いうようなことを著者が言いたいのかどうかは知らないが、本書が日本のロック史について知りたい人にとって参考になる本であることは間違いない。

職業としての小説家 / 村上春樹

 村上春樹が人の心を惹きつけるのは、ステキだからである。

 そのステキさをキープするために、村上春樹は日々努力している。

 いや、ディスっているわけじゃあない。

 正直に言えば、僕もまた、村上春樹的なステキさに心惹かれている人間のひとりである。

 強く生きるための方法が、そこにあるような、そんな気がして、村上春樹の本を読み続けている。

 読者である我々は、彼の本や振る舞いを通して、「村上春樹」というひとつの物語を読んでいる。

 というような言い方は少々ロマンに欠けているだろうか。

 っていうか「物語」っていう言葉、バズワード化してるよね。

 善き物語、悪しき物語、というような言葉を村上春樹はよく使うが、「村上春樹」という物語は善き物語なのだろうか。

 それはおそらく、時間の流れが、時という名の試練が、決めることなのだろう。


 というようなことを考えながら僕がいつも読んでいる村上春樹の、最新エッセイがこの本「職業としての小説家」である。

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 内容としては、今まで彼が語ってきたことと重複する部分が多い。あとがきにもその旨が書かれている。

 インタビュー集や、先日発売した「村上さんのところ」を読んでいる人にとっては、けっこう既視感があるかもしれない。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)

村上さんのところ

村上さんのところ

 しかしこれほどまとまった形で、しかも深く、「自分自身のこと」について村上春樹が語った本は初めてだろう。


 なんだかいつもと文章のスタイルが違うな、と思って読んでいたら、そのことについてもあとがきに書かれていた。

 本書は、目の前にいる聴衆に語りかけるような、講演原稿に近いスタイルで書かれている。そのほうが書きやすかったから、と。

 その結果、やや冗長に感じる部分もあったが、全体としては、村上春樹を知らない人でもかなり読みやすくなっていると思う。


 「完璧な文章は存在しない」と書いていたのは村上春樹だったが、同じように、「自分自身について完璧に語ること」もまた、不可能であると思う。何事によらず、完璧とはそもそも達成困難なものではあるが。

 だから、この本に書かれていることが村上春樹という人間の全てだとは思わない方がいい。あれ? 今僕ものすごい当たり前のこと言ってる? 

 ひとりの人間をより深く知るためには、客観的な視点が不可欠である。具体的には、その人の周りにいる人の視点が。

 しかし我々が本当に知りたいのは、小説を書いている村上春樹についてであるが、小説とはひとりで書くものであり、もっぱら書く人の内部で起こっている運動であるから、我々がそれについて知ることは永遠に無いのだろう。あ、また当たり前のこと言ってる。


 そんなようなことを考えながら読んだ本だった。

弱いつながり 検索ワードを探す旅 / 東浩紀

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

 インターネットというものが発達して以降、人類の知識は全てネット上にアーカイブされ、知りたいことはいつでも知ることができるようになった……というような感覚が、僕らには多かれ少なかれあると思う。

 そしてその感覚は、「もう真新しいことなんて無いんじゃないの?」的な閉塞感に繋がっているように思う。

 しかし実際のところ、ネット上に存在するものは全て「誰かがアップロードしたもの」だ。

 「誰もアップロードしないもの」を知るためには、とにかく旅に出よ、と筆者の東浩紀は言う。


 ネットというものはその性質上、自分の興味がある分野についてはいくらでも詳しくなることができるが、そもそも自分が全く知らないものを知る「きっかけ」としての機能は、実に弱い。

 例えばオリンピックのロゴが何に似ているだとかいうことは、「画像で画像を検索する」というGoogleの機能を使えば誰でも簡単に調べることが出来てしまうのかもしれない。しかし「そもそもオリンピックにロゴが登場したのはいつからなのか」とか「きっかけはなんだったのか」とか、そういうことについて詳しく知ることは難しい。

 なぜ難しいかといえばそういう情報がネット上に無いからで、ではなぜネット上に存在しないかというと、そういうことに興味を持っている人がいないからだろう。

 旅に出れば、求めるものが変わる。求めるものが変われば、検索ワードが変わる。検索ワードが変われば、見える世界が変わってくる。Googleストリートビューを見るだけでは、そのような変化は訪れない。


 今僕がプレイしているテレビゲーム「メタルギアソリッドV(ファイブ)」に「キャンプオメガ」という架空の軍事基地が登場する。

 「キャンプオメガ」は、見る人が見れば「グアンタナモ収容所」をモデルにしていることが一目でわかるのだが、自分はこのゲームをプレイするまでは、グアンタナモのことも、そこがキューバにある米軍の土地であることも、各国から集めた要人を拷問するための施設であることも、全く知らなかった。

 このように、知識というものには、あらかじめ「こういうことを勉強しよう」と思って得るものと、「欲望に従って行動することで、副次的に得られるもの」の二種類がある。そして、人生を豊かにしてくれるのは、後者のような、思いがけない、予想外の知識のほうなのではないかと思う。多分。

 同じ場所で同じ生活をしていると、知りたいと思うこと、欲望することは固定化されてしまう。それを流動化するために人は本を読んだりゲームをやったりするわけだが、もっとずっと大幅に、かつ意外と手軽に欲望を変えてしまう方法が、旅に出ることなのだろう。


 他にも、現代のネットにおける著名人の活動は、ひたすら露出を増やすことが求められる体力勝負の消耗戦になっており、どぶ板選挙にも似た古臭いものに堕してしまっている、という指摘などは、かなり頷ける。

 内容はエッセイ調で読みやすく、難しい哲学用語などはほとんど出てこない。ただ本書には、筆者が推進している「福島第一原発観光地化計画」を理論的に(あるいは情緒的に?)補強するための本、という側面もあるので、そのへんの冗長さがちょっと気になる点ではある。

 それでも、現代のインターネットに閉塞感を感じている人には、一度は読んでみて欲しい本ではある。使う人のリアルが変われば、インターネットが見せる姿もまた変わる、という、当たり前だが忘れがちなことをもう一度確認できるだろう。

車谷長吉の人生相談 人生の救い / 車谷長吉

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

 すごい本である。人生相談でありながら、質問者の質問に対して、ほとんど「俺だって苦しい」とか「生きることは苦しい」というような、絶望的な回答しかしていない。

 しかも“いままでのところ、あなたはなまくらな人です”とか“あなたには一切の救いがないのです”とか、とにかく辛辣で毒舌。

 一見、毒のように見えるそれらの言葉には、露悪的なところがなく、むしろ日々の生活に立脚した実感がこめられている。「俺も苦しい。みんな苦しい。だから我慢しろ」というような上から目線ではなく、「わたしも苦しい。あなたも苦しい。救いはありません」というような、突っけんどんでありながら、どこか悟りの境地めいた遠大さを感じさせる。

 苦しみだけの人生、なぜ生きなければならないのか?などと僕のような凡夫はつい考えてしまうわけだが、「生き物を殺して食べなければ生きていけない人間は、生まれてきた事自体が罪」「死ぬ勇気がないのでおめおめと生きてきた」というような筆者の持論を聞かされると、そんな悩みは吹っ飛んでしまう。

 覚悟、という言葉は、自分の運命を悟り、それを受け入れることを意味するが、筆者の回答は一見後ろ向きでありながら、実は強い覚悟に裏打ちされている、と感じさせられる。

 じゃあこの本を読めば、その覚悟が得られるか? ってそんなわけはない。本というのはそういうものじゃない。なにを当たり前のことを言ってるんだ僕は。

 苦しみを乗り越えることで人は強くなる、という言い回しがあって、それが本当かどうなのかはわからないが、少なくとも、苦しみを乗り越えることで覚悟ができる、のは確かだと思う。そのことを筆者は「この世の苦しみを知ったところから真の人生は始まるのです」と書いている。

 真の人生とは一体どんなものだろう、という疑問は一旦置いておくとして、筆者は人生の指針として“阿呆になることが一番よいのです。”“この世に人間として生まれて来たことの不幸から、少しでも救われたいと思う人は、文学・芸術・哲学の道に進む以外に途はない”“人生は毎日迷いの連続です。その迷いの段階で、必ずより困難な道のほうを選んでいけば、そこから新しい道が開けてきます。”と書いている。

 また、小説を書きたいという老人に対しての回答で、この世には、頭のいい人、頭の悪い人、頭の強い人、頭の弱い人の四種類がいて、絶対に小説を書くことができないのは「頭のいい人」で、一番向いているのは「頭の強い人」だと答えている。つまり、善人には小説は書けない、と。面白い。

 本当に苦しみを乗り越えるためには、苦しみを肯定し切る必要があり、そのための道は必ずしも平坦ではなく、もしかすると道ならぬ道だったり、道を外れた道だったりするのかもしれない。むき出しの人生とは、そういうものなのかもしれない。そんなことを考えさせられる本だった。