rhの読書録

読んだ本の感想など

増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門 / 永山薫

 本書『エロマンガスタディーズ』には、「ミーム」という単語が頻出する。文化の中で人から人へ伝達される情報の最小単位、というような意味で、生き物にとっての遺伝子(ジーン)に相当するものとして考えられた概念である。とりあえず本書の内容に即して、エロに関する個人的な経験から例を挙げてみる。

 中学生くらいの頃に「ゲル状の生物に変身して異性にあんなことやこんなことを致したい…」という妄想をしたのを、なぜか鮮明に覚えている。変態である。まごう方なき変態である。いや、年頃の健全な男子なら、これくらいの妄想は普通であろう。あってほしい。あってくれ。

 その妄想のイメージはおそらく当時見ていたマンガかゲームが土台となっていると思われるが、先日『怪奇大作戦』という、ウルトラマンの前に円谷プロが作っていた特撮番組の再放送を見ていたら「火山の火口に飛び込んで自殺しようとしたら(なぜか)アメーバ状の身体に変身してしまった男が想い人を襲う」という話がやっていて、ちょっと驚いた。

 僕が昔妄想したようなことを、もっと昔に思いついて特撮にした人がいたのである。ちなみにさらに調べてみたところ、円谷英二が特撮部分を監督していた『美女と液体人間』という映画が怪奇大作戦の前にあったらしく、こっちのほうが僕の妄想に近そう。知らんがな。

 いずれにせよこの場合、「液体人間」というミームが、怪奇大作戦を経由し、さらに様々なマンガやゲームを経由し、中学生だった僕の元へと届いた、ということになる。

 マンガという表現形式をとっている以上、エロマンガもまた、ミームの伝搬機能を担っている。そしてそのミームのやりとりはエロ・非エロの区別なく、ジャンル横断的に起こっている。他ジャンルの流行がエロマンガに取り入れられる事もあれば、エロマンガで起こっている流行が他ジャンルに波及することもある。

 にも関わらず、とかくエロマンガ(に限らずアダルト作品全般は)「二流の表現」であるとみなされがちである。そんなエロマンガの世界に光を当てようというのが本書のコンセプトとなっている。

 全編から著者のエロマンガに対する愛が伝わってくる。世間が言うところの「眉をひそめたくなるような」表現が頻発するので、人並みにエロ好きである僕でも最初は胃もたれを起こしながら読んでいたのだが、読み終わる頃には「○○○○(Google八分が怖いので内容はご想像ください)サイコー!!」と、思わず叫びたくなったような、ならなかったような。

 その一方、多くのマンガ家の名前が一般・エロ問わず登場するものの、そこまでマンガに精通しているわけではない自分にはとっては知らない名前が多数であった。もっと勉強しよう。

 あらゆるエロマンガが多かれ少なかれご都合主義を含んでいるのは、端的にそちらのほうがキモチイイからであり、快楽に対して誠実であるためにはご都合主義は避けて通れないのであって、そのような表現に対して「稚拙だ」というのは筋違いに他ならない。

 快楽、というものは、考えようによっては人間のすべてであるとも言え、小難しい顔をしたオッサン、オバサンも、見ようによっては全員快楽に基づいて行動しているに過ぎない、と言えなくもない。言えなくもなくもない。

 本当に快楽を真摯に追求しているエロマンガを読むことは、人間の快楽について研究することに他ならず、それは人間そのものを研究することにもつながるのではないか、というような考えが己の中に湧いた。この本を読んで。

 もちろん、全人類が今すぐエロマンガの真似をするべきだというわけではない。十中八九ポリス沙汰になってしまう。フィクションはフィクションであると見抜ける人でないと(ポルノを利用するのは)難しい、のである。

 マンガが好きな人、エロマンガが好きな人、快楽について知りたい人はぜひ読んでほしい一冊。家族と同居している方は、うっかり表紙を見られて気まずい感じにならないよう注意していただきたい。また、中身もエロマンガのエロいコマが多数引用されているので、もし小学生が自宅の本棚に入っているこの本を見つけてしまったら、(少々偏った)性に目覚めてしまうことうけあいである。ま、そういうのも面白いっちゃあ面白いかもしれないが。他人事。