rhの読書録

読んだ本の感想など

読んでいない本について堂々と語る方法 / ピエール・バイヤール

 千葉雅也『現代思想入門』で紹介されていたので手に取った本。
rhbiyori.hatenablog.jp

 読んでいるうちに思い出したが読書コメディマンガ『バーナード嬢曰く。』第3巻でも本書がネタになっていた。


 フランスの精神分析家ピエール・バイヤールによる著作。いかにもハウツー本や自己啓発本めいた新書みたいなタイトルだが、内容は挑戦的な文芸評論といった趣。

 しかし果たして自分はこの本に対してどんなことを「語る」べきなのか、大いに迷っている。今の心境を言うなら五里霧中。全てを投げ出し、この本のことを忘れてガリガリ君パイン味でも食べてのんびりエアコンの風に当たっていたい気分ではある。

 でもせっかく読んだ本の感想を書かないのはやはりもったいない。というか最近の自分はもう「感想を書く」という楽しみを味わうために本を読んでいるに近い状況になりつつある。楽しみを比率にすれば読書3・感想7くらい。

 なのでなんとか今のこの当惑を書き記してみたいと思う。


 まず、本書の読者はみな等しく「本を『読んでいない』ことを推奨する本を真面目に読んでいる自分はいったいなんなのだろう?」というパラドキシカルな状況に置かれることになる。訳者あとがきでこのパラドックスに言及されていて、なんだかちょっとホッとした。

 しかし本書のヘンなトコロはそのパラドックスだけにとどまらない。

 もし本書がハウツー本の類だったとしたら「本はなるべく全部読んだほうがいいし、なるべく内容は覚えていたほうがいいに決まっている。しかしそれは人間の能力を超えているので、なんとか誤魔化す方法を考えよう。」みたいな方向になるのではないかと思う。

 しかし本書はそんな中間的な結論には至らない。場合によっては本は読まないほうがいいし、時に読むことが語ることの妨げにすらなりうるし、本を読まずに語る行為はむしろ創造的だ、とまで言い切ってしまうのである。そう言われても自分としても「そうなの…?」と思ってしまう。

 はたして著者はどこまでマジでそんなこと言っているのか。本書の持つ「メッセージ」をどこまでマジに受け取るべきなのか。それがわからない。

 そのメッセージを額面通りマジに受け取るのではなく、なんらかのメタメッセージを内包していると取るべきなのだろうか。

 おそらくメタメッセージの内容は「読まずに本を語る人に対する皮肉・あてこすり」みたいな、誰でも思いつくような陳腐なメッセージではないと思う。多分。なぜならそんなことを言うために本を一冊書くのはワリに合わないから。

 じゃあ本当は何を言おうとしているのか? と考えてみると、やはりよくわからない。おそらく著者は読者を「煙に巻こう」としているのだろう、ということがかろうじてわかるのみで。

 もしかすると、その結論自体には現実的にはあまり意味は無く、その結論に至る過程において「読書」および「本について語ること」にまつわる状況を詳らかにすることが本書の目的なのかもしれない。


 以上が、自分が本書について語る上で感じている当惑の大筋である。ご理解いただけただろうか。自分でもあまり理解できていない。

 本書の大胆すぎる結論はひとまず置いておくとして、その結論に至るまでの、「読書」および「本について語ること」にまつわる状況とはどんなものかを、自分なりに解説してみたい。

 著者は本書の中で、本を読む人や読んだ本の感想を語ろう(書こう)とする人が直面する状況を、様々な実例を挙げながら評していく。映画『恋はデジャ・ブ』、バルザック『幻滅』、漱石の『猫』など。

 そこで浮かび上がるのは、本を読むことは常に不完全な行為であり、ゆえに読んだ本について語ることはさらに不完全な行為にならざるを得ない、という身も蓋もない事実だ。

 人は全然読んだことがない本を、本以外の情報から判断して当たり前のように評価している。

 あるいは人は本を流し読みする。というか本の内容を一字一句余さず覚えたり解釈したりすることが不可能である以上、あらゆる読書は程度の差こそあれ流し読みに等しいのかもしれない。

 人は読んだ本のことを読んだ瞬間から忘れていく。あまつさえ著者ですら自分の書いた本の内容を忘れ、同じことを書いてやしないか、と不安を抱いたりする。

 かように不完全な読書という行為だが、では読んだ本について「語る」ことがはたして可能なのか? しかも本を読まずに?

 というと、実はそれは全く問題なく可能である。むしろ不完全だからこそ可能だ、と言ったほうが正しい(と、本書は説く)。

 人は本を読んだ後、その本の断片的な内容を集めて「自分にとっての本」を作る。

 本を読む人は、「自分にとっての本」が断片的であることをわかっているので、たとえ自分の「自分にとっての本」と他人の「自分にとっての本」の内容が食い違っていても、「その人はこの本をそういう風に読んだんだな」とか「別の本と勘違いしているのかもしれない」と好意的に解釈するだけで、重大な矛盾が露呈することは無い。

 むしろある人に対して「本当にその本を読んだの?」と聞くことは重大なタブーとされている。なぜなら本を読む人は読書が不完全な行為だとわかりきっているし、たとえそんな意図が無くてもその質問は「全然本の内容理解してなんじゃないの?」と問うているのにほとんど等しいからだ。

 だから読まずに語る行為によって問題が引き起こされることはない。むしろ堂々と語るべきである。と、著者は力説する。

 もちろん本について語ったコメントによって、その人が本を読んでいないことがバレてしまう場合もある。著者も「序」の中で「学者の同僚がプルーストを本当に読んでいるかどうかは判断できる」と書いている。

 しかし少なくとも学者たちは、自分たちが「読んでいない本について語る」という行為を常々行っていることを理解しているため、わざわざそのことにツッコんだりしない。むしろそのような行為は共同体の共通認識を破壊する行為であるため暗黙裡に厳に慎むべしとされている、らしい。


 本書では更に「内なる書物」や「ヴァーチャルな図書館」と言った用語も用いて、さらに詳説に、読書および本について語る行為についての解析が繰り広げられる。その内容自体は基本的にこの上なく正しい、と自分は思う。

 しかし本書を読んで「よし、明日から読んでいない本について堂々と語ろう!」と考える人はいるだろうか。あまりいないのではないかと思う。少なくとも自分はそうは考えなかった。

 いや、そう考える人は案外結構いるのかも? 読書家って結構お人好しの人も多そうだから。

 自分がそう考えなかった理由は、「いや、そうは言っても本は読んだほうがいいでしょ、楽しいし」と思ったからであり、かつ「で、本当に読んでいない本について語ることって可能なの?」という部分に疑問が残ったからで、だから上に書いたように、著者がどこまでマジでそれを言っているのかがわからなくなってしまったのである。

 出版後、本書は世界中で話題になったらしいが、本書をきっかけに「本を読まずに語るブーム」が到来したという気配はない。いや、もしかすると事態は水面下で進行していたのかもしれないけれども。

 それでも本書が広く受け入れられたのは、読書の不完全さと本について語ることの困難を、これでもかと明確に描き出してくれたからだろう。おそらく世界中の読書家が「よくぞ言ってくれた!」と快哉を叫んだんじゃなかろうか。


 本書において、読書は重大で高尚な行為であり、著名な本を読んでいないことは恥ずべきことされている。ただ自分はそういう環境に身を置いたことがないので、想像はできるが我がこととして考えるのはなかなか難しい。

 本書が刊行された2007年から現在にいたり、ますますインターネットが普及し情報流通が加速した結果、ある本を読んでいなことが恥ずかしいとみなされることはより少なくなっていると感じる。

 著者のような文学を扱う書き手が「ハムレット」を読んでいない、というわけにはいかないかもしれないが、大多数の人々にとっては、活字の古典を読むよりむしろ最新のポップスを聴いたりマンガを読む人のほうが「わかっている」とみなされやすいんじゃないか、と自分はニランでいる。

 もし日本の小説家がある古典名作を読んでいないとして、それが恥とみなされる可能性は低いし、例えばライトノベル作家が「夏目漱石は教科書以外読んだことがありません」と言っても誰も何も問題視しなくなっている。自分も何の問題ないと思う。心の底から。

 最近、ガルシア・マルケス『百年の孤独』(昔、数ページ読んだが同じ名前の人物が連続で出てくるのに混乱して挫折してしまった)が文庫化されて売れているらしく、それは「今から百年の孤独を読むこと=これまで百年の孤独を読んでいなかったことはなんら恥ずかしいことではない」と多くの人が考えている証拠になるかもしれない。

 良くも悪くも周りに流されやすい日本人ではあるが、「みんなで一緒に名著を読もう!」みたいな風潮が生まれうるのだとしたら、それはそれでいいことだろう。

 あるいはどこかの読書コミュニティでは既に「百年の孤独、読んだか読んでないか」でマウント合戦が行われているかもしれず、そこで本書の「読んでいない本について語る」ノウハウが役立つかも。

 そう考えると、本書における「読書」には、「そのコミュニティで鑑賞していて当然とされる何か」を代入可能なのかもしれない。音楽だとかアニメだとかYouTubeだとか。だとしたらたとえ読書の権威が全く無くなったとしても、本書の議論が有効性を失うことは無いのかもしれないが、はたしてどうだろう。


 本書の議論を踏まえると、世に多くいる「本を読むのが苦手」と公言する人の多くは、本を読む行為そのもの以上に、本書が描き出したような本を読むことの不完全さを苦手としているんじゃあないか、という気がしてくる。

 本を読んでもよくわからない。すぐに忘れてしまう。なのに「あの本を読んだ」と言ったら感想を求められるかもしれない。怖い。だから本は読まない。というようなメカニズムで。

 もしそのような機序で読書を避けている人がいるとしたら、その人は勘違いしている。

 別に本を読む人は、必ずしも読書の不完全さを乗り越えているわけではない。より完全な読書に必要な才能を持っていたり、努力によって不完全さを補ったりしているわけではない。そういう人もいるかも知れないが、だとしても結局のところ完全な読書というものはあり得ない。

 本を読む人は、ただ読書の不完全さを甘んじて受け入れているに過ぎない。次の本を読んだら、もう前の本の内容はだいたい忘れちゃってるけど、それでいいじゃん、と。

 自分が本の感想を書けているのも、本を読み終わった直後のホットな状態をなるべくそのまま書き写そうとしているからであって、一ヶ月、いや一週間前に読んだ本の感想でさえ、もし書こうとしたら、残った僅かな記憶を頼りに書くことになり、それはもう感想というより「印象」に近いものになるだろう。

 読書のコツは、読んでいるその瞬間を楽しみ、それ以外のことはなるべく深く考えないようにすること、なのかもしれない。


 本書は、読書の不完全さと本について語る困難さを明確に描き出した、いわば「読書あるある」として極めて優れた本であって、「読んでいない本について語る」という行為に興味が無い人であっても十分に読む価値がある。

 「読んでいない本について語ること」を推奨する、という本書の表面的な結論に関しては、正直言ってよくわからないので、自分で読んで判断していただきたい。

 やっぱり読んだことがない本は「読んだことがない」と言ったほうがいいし、わからないことは「わからない」と言ったほうがいいと思うけれど、そんな風に開き直れるのは今のところ自分になんの責任も無いからなのかもしれない。