rhの読書録

読んだ本の感想など

娘と話す 非暴力ってなに? / ジャック・セムラン

 図書館でたまたまこの本を手に取ったら、解説を書いているのが僕の愛読する高橋源一郎だったので、ちょっと驚いた。

 この本は、フランスの学者であるジャック・セムランが、父として、自分の娘と、非暴力主義の歴史と実績について語り合う形式で書かれていて、とてもわかりやすい。それはもう、ムチャクチャにわかりやすい。

 日本人が「非暴力ってなに?」と誰かに聞かれたとき、最初に思い浮かべるのは、インドの運動家マハトマ・ガンディーだろう。

 ではガンディーが実際に何をしたのか、に関しては、実際はよく知らない人の方が多いのではないかと思う。

 マンガ『北斗の拳』に「無抵抗主義の村」という、ガンディーをモチーフにしたと思われるキャラクターが登場するエピソードがある。

 世紀末の世界に跋扈する無法者達の略奪に対して、無抵抗を貫くことで生き延びてきた村に、ラオウがやってくる。

 いつものように無抵抗で物資を差し出し見逃してもらおうとする村長(ガンディー風)。しかしラオウは「STOP!無抵抗(意訳)」みたいなことを言って村長をぶん殴ってしまう。

 まぁ北斗の拳というマンガ自体、なにかと極端すぎる作風なので、作者が本気でラオウのような考えを持ってこのエピソードを描いたのかはよくわからないのだが、日本人がイメージする「非暴力」を大幅にデフォルメ化すると、この無抵抗主義の村みたいな感じになるのではないだろうか。

 しかし実際は、「非暴力」は「無抵抗」とは全く違うものなのである。これはWikipediaの「非暴力」の項目の最初の方に書かれているくらい初歩的なことであるが、どうしても誤解されがちなのは、一般的に「抵抗=暴力」という認識があるからだろうか。

 ガンディーが唱えた「非暴力主義」とは、彼のモットー(という言い方でいいのかな?)である「非暴力・不服従」ということばからもわかるように、暴力を用いずに暴力に対して抵抗しよう、という思想であり、「無抵抗=暴力に対してなにもしない」という発想とは真逆にあるものなのだ。

 ではどうやって暴力無しで抵抗をするのか。武器となるのは、行動と言葉、という、暴力以外の手段だ。

 ガンディーが行ったこととして、有名な「塩の行進」がある。当時イギリスの植民地であったインドでは、国民が勝手に塩を作ったり売ったりすることが法律で禁じられていた。それに抵抗しようとしたガンディーは、仲間たちと海岸までテクテク歩いて行き、自らの手で泥を掬って煮て塩を作ったのである。

 塩を作ったガンディーは、当然逮捕されてしまったわけだが、ここでも彼は非暴力を貫き、そのまま連行されることを選んだ。モノスゴイ勇気である。

 ここで重要なのは、ガンディーが「行進やりまっせ、塩作りまっせ」と各国の報道機関に呼びかけて記者を集めることで、世界中の目をイギリスの圧政に向けさせ、「イギリスはなんてひどいことをするんだ」というような世論をつくり上げることに成功した、ということにこそある。ただこっそり塩を作るだけでは誰も注目してくれないし、それでは意味が無いのだ。



 このような非暴力による活動もあり、インドの独立は成し遂げられた。実際の所、彼の活動にどの程度の効果があったのかはわからないし、他にもイギリスの国情などのいろいろな要素が絡まって独立という結果に至ったのだろうが、ガンディーらの活動が人々の心を大きく動かしたこともまた紛れもない事実であろう。

 繰り返しになるが、非暴力とは、単に「暴力反対」を訴えるだけで何もしないわけではなく、闘争のためにあえて非暴力という手段を用いる、という思想のことである。ガンディーは決して善人を気取るために不服従を貫いたわけではないのだ(たぶん)。

 逆に言えば、必ずしも、非暴力だから善、非暴力だから正義、とは限らないということでもある。

 思うに、暴力によって世の中を変えることは、ある意味でスゴく簡単である。長々と時間をかけて話し合いをするよりも、ミサイルを一発ブチ込んでしまえば、すぐさま状況を自分有利に変えることができるだろう。

 しかし同時に、暴力を用いることでものごとがよい方向に進むことはあまりなく、むしろ悪化することのほうが多いのではないだろうか。ミサイルをブチ込めば、向こうから、あるいは別の何処かから別のミサイルが飛んできて、やがてミサイルの撃ち合いになり、お互いが大いに損をすることになる。

 そう考えれば、非暴力という思想は決して単なる夢想家の世迷い言ではなく、暴力よりも実現が困難であるかわりに、成功したときの効果が高いという、極めて実利的な方法なのかもしれない。