- 作者: 内田樹,赤坂真理,小田嶋隆,白井聡,想田和弘,高橋源一郎,仲野徹,名越康文,平川克美,鷲田清一
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2015/03/20
- メディア: 単行本
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この本は、世に蔓延る「反知性主義」を、知の巨人たちがぶった切る!!……というような本ではない。
いずれの書き手も「反知性主義」をキーワードにしていることは共通しているのだが、「反知性主義ってよくわからない」とか、「自分が反知性主義でないという自信がない」というようなことを言っている人もけっこういる。そのような多様性は、編者の内田樹が望んでいることでもあるが。
「知性ってなんだろうか」とか「知性的な人と非知性的な人の違いはなんだろうか」というような難しいことを考えると、頭が難しくなってきて困る。
なぜ難しいかといえば、「知性とはなにか」というようなことを考える行為そのものが知性による活動である、という自己言及的な構造があるからではないかと思う。と、言っていることがもうすでに難しい。
「知性とは学問のことであり、反知性主義者とは要するに学者をバカにしている人々のことだ」というようなわかりやすい定義があれば、話はわかりやすくなるが、もちろんそんな単純な話ではない。そのような定義は、反知性主義の一つの側面を過ぎないのではないかと思う。
うーん、なんだか書いていて面白く無くなってきた。ちょっと話を変えてみる。
例えば(いきなり卑近すぎる例で申し訳ないが)僕は対戦型のTVゲームを好んで遊ぶのだが、そのようなゲームを好む人が集まるネット上の掲示板を見ると、「こんなゲーム、ジャンケンみたいなもんだよ。運ゲー(運だけで勝敗が決るゲーム)だよ」というようなことを書きこむ人がいる。
実際には、その対戦型ゲームは、プレイヤーの強弱の差が如実に反映されるようになっており、むしろそのような高い競技性こそが、そのゲームの人気の大きな要因になっている。
では、「こんなゲームは運ゲーだ」と言う人は、なぜそんなことを言うのだろうか。
おそらくその人は、「自分が勝てないのは、自分が下手なせいだ」という事実を認めたくないのだろう。だから「自分が勝てないのは運が悪いからだ」と言うことで、己の弱さを無いものにしようとしているのだ。
もっと穿った見方をすれば、その人は、そのゲームが上手いプレイヤーのことが妬ましくてしかたがないので、上手いプレイヤーの能力や努力を否定するために、「このゲームで勝っている人は、たまたま運がいいだけなんだ」ということにして、自分を納得させようとしている、とも言える。
つまりその人は、自分の実力の無さを隠し、同時に、実力がある人を貶めるために、ゲームの実力というものの存在自体を否定するような発言をしたのではないかと思う。
上の文章の「実力」を「知性」に読み替えてみれば、反知性主義者の心理そのものになる、のかもしれない。つまり、
「反知性主義者は、自分の知性の無さを隠し、同時に知性を持っている人を貶めるために、知性というものの存在を否定しようとする」
というように。
で、もっと恐ろしいのは、反知性主義の台頭を牽引している人たちの中には、己の権威を高めるためだけに、あえて反知性主義者っぽく振舞っている人がいる、ということなのではないかと思う。
知性的なものをバカにしておけば一般ピープルにウケがいいし、一般ピープルが知性的になってオレが言うことを批判するようになったら困るし。的なノリで。
ところでさっき「知性」を「ゲームの実力」に例えたが、もしこの例えが成立するというとしたら、「ゲームの実力」と同じように、「知性」もまた、その高低による階級化・序列化がなされている、ということになる。
知性による階級化・序列化と言えば、もちろん学歴主義のことだろう。
もしかすると反知性主義は、行き過ぎた学歴主義がもたらした反動であり、時代の徒花のようなものなのかもしれない。というような話は本書で小田嶋隆が書いていたことなんだけども。