- 作者: 高橋しん
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2013/07/15
- メディア: Kindle版
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いわゆる戦闘美少女もの(©斎藤環)ということで、昔に一度読もうとしたことがあったのだが、挫折した。
なぜ挫折したか。1ページ目からコテコテの恋愛マンガで、キッツイな、と思ったからである。
最近になって久しぶりに斎藤環の本を読み*1、さらに最終兵器彼女に関するブログ記事を読んだ*2のを機会に、もう一度挑戦してみようと思い、読んでみたら、なんとか読めた。
二つの意味で、読むのがしんどかった。でも、心に残るマンガだった。
しんどかった理由その1は、設定があまりにご都合主義に見えたから。
あらゆる設定が、シュウジとちせの二人の恋愛を盛り上げるために存在するような感じ。先輩であるテツの彼女ふゆみと二股関係になるシュウジ。その憧れの先輩といい感じになるちせ。なんだそりゃ。ベタか。ベタ・オブ・ベタか。
戦争ですら、二人を盛り上げるための小道具のように見える。ちせが兵器になっていくというのも、セカチューのような「恋人死んじゃう系」の亜種に見えなくもない。
だいたい戦争が起こってる理由を作中でキチンと説明しないのはなんでなんだ。作者にそういう戦争考証やSF考証をする能力が無いからなのか。あるいはあえて暗示的にすることで読者の深読みを誘おうという作戦か。エヴァンゲリオン的な。
しんどかった理由その2は、ストーリーが重たいから。
とにかく人が死ぬ。シュウジに密かに好意を抱いていたクラスメイトのアケミが、シュウジの腕の中で死んでいく。シュウジの先輩テツ(すげーいい人)が、ちせの腕の中で死んでいく。死、看取りすぎ。まるで北斗の拳のようだ。そりゃ人が死ねば読んでる人は心揺さぶられるだろうよ。
結局最後はみんな死んで、シュウジとちせの二人きりになる。ここもまぁご都合主義と言えばご都合主義だがまだ許容範囲。しかし重いよ。全員死亡って。
と、散々悪口じみたことを書いてきたが、しかしこれらの欠点・粗がありつつも、それでも心にずっしりと残る何かがこの作品にはあった。
そしてその「何か」の正体が一体なんなのがわからず、ずーっとモヤモヤしていた。
あまりにもモヤモヤが収まらないので、仕方なくインターネットの力を借りることにした。「最終兵器彼女」でキーワード検索した。そしてそこで見つけた、この作品の解説をしているとある動画を見たことで、ようやく自分の感じた「何か」の正体が分かった気がした。どんな動画だったのかは、まぁなんというか色々とアレなので、深く聞かないで欲しい。
まずこのマンガ、恋愛描写が極めて高度なのだ。吹き出しや書き文字、フォントの使い分け。キャラクターのデフォルメ。シリアスとコメディの切り替え。全てにおいて計算し尽くされており、恋愛を描く上で最強のツールである少女マンガの手法を用いた、高水準の表現を成しえている。
シュウジとちせの恋愛における心の機微の描写もとにかく細密で、その細密さとリアリティは、「描写の極北」とでも呼ぶべき域まで達している。
心象風景では空白を多用し、対照的に現実場面では細密な画風を用いるなど、単になんとなく描くのではなく、随所に的確なテクニックが用いられている。
また当時としては先進的だったコンピューターグラフィックを使った表現が上手く、レイヤーを重ねることでガラスの写り込みを表現するなど、単なるCGの乱用ではない、CGならではの描き方をキチンと使いこなしている。
戦争や地球の運命といった核心部分こそぼかされているが、実は暴力・残酷描写もかなり的確で、死に際のアケミをシュウジが抱え上げる時に固まった血が「べりっ」と剥がれるシーンを、ある評論家が絶賛していた。
要するに、このマンガ、マンガとしてものすごく「上手」なのだ。
ではなぜそんな上手なマンガが、最初に書いたような瑕疵を抱えることになったのだろう?
作者はあとがきで、「最終兵器」と「彼女」という単語をくっつけたらどうなるだろうというところから着想を得た、と書いている。また、思春期の狭かった世界を描こうとした、というようなことも言っている。
作者は、思春期ならではの、独善的な、二人だけが世界の全てであるような、ある種ご都合主義的な恋愛をこそ、描きたかったのではないか。
そのような恋愛を描くためにあえて、そのような恋愛が持つ強引さと同じような手つきで、最終兵器という設定や、戦争という背景を半ば強引に借りてきたのではないか。
その作者の意図は、ちせの体からミサイルがこぼれ落ちるシーンを見ると、よくわかるのではないかと思う。
一度目は、自転車の荷台に乗るちせの服の間から、二度目は、試着室のカーテン越しにシルエットで。いずれも具体的にどのような仕組みでちせの体からミサイルが生成あるいは排出されているのかは、意図的に明らかに隠蔽されている(「明らかに隠蔽」ってなんかおかしいな)。
作者の画力を持ってすれば、その部分を細密に描いて物語に重厚性を出すことは可能だったし、はっきり言ってその方がマンガとしては面白くなったと思う。でもそうしなかった。つまり隠すことそのものに意味があった。
その意味とは、青春の独善性と、作品との独善性を重ね合わせることで、作品そのものに青春性を持たせること、だったのではないか。
青春な作品は、青春な人ほど刺さる。実際、この作品の熱心な読者は10代が多かったらしい。あとがきでは「大学生や社会人に受けいられるようにあえて性描写を入れた」と書いているが、おそらくそれは建前だろう。この手の描写は初心な十代ほど記憶に残る。大人になったら「ふーん」という感じにしかならない。思えば僕も、小さい頃読んだ「お〜い!竜馬」の裸シーンで興奮したけど、高校生くらいになって読み返してみたら「こんなんで興奮してたのか」と驚いた、なんてことがあったなぁ。え? そんな話聞いてない?
あとがきには「この作品はある時期が来たら読めなくなると思うので、そうなったら人に譲ってください」というようなことも書いている。もしかしたら作者はこの漫画を、中高生向きの「裏課題図書」のような作品にしたかったのかもしれない。
赤裸々な恋愛描写と過激な残酷描写で、読んだ人の心を揺さぶる。でも一定以上の大人が読むと「それってあざとくね?」と感じる。そのように意図して描かれたのがこのマンガなのではないだろうか。その意図自体があざといんじゃないかと思う向きもあるだろうが。
かつてはある種の文学作品が、そのようなポジションを担っていたのだろうと思う。太宰治とか。太宰はちょっと違うかな? 島崎藤村とかかな。読んだことないけど。ノルウェイの森とかもそうかな。
ちなみにこのマンガを読んであまりの鬱展開にハートブレイクした人は、このマンガのアンサイクロペディアを読むことをオススメする。一周回ってギャグ漫画なんじゃないかという気がしてくるから。「シュウちゃんのこっこほしいよぉ」って、冷静に考えたらギャグだよなぁ。