rhの読書録

読んだ本の感想など

訂正する力 / 東浩紀

 「訂正する力」とはなにか。

 過去を解釈し直すこと。「じつは〇〇だった」という形で。と、著者は書く。

 それって、過去を捻じ曲げることや、いわゆる「歴史修正主義」につながるんじゃないか?

 そうじゃない。事実は事実として認める。でもそこに別の物語を作る。同じ出来事に、違う意味付けをする。それが訂正。


 なぜ著者は本書を書くに至ったのか? と、想像してみると、それはおそらく、世の中があまりにも「謝ったら負け」になったからだろう。エラい人ほど、謝ったら叩かれるので、頑として自分の過ちを認めない。訂正しない。むしろエラさを利用して、自分に不利な証拠を握りつぶす。それがまるで「賢い戦略」であるかのように、常識として登録されてしまった感がある。

 その遠因はインターネット、特にSNSによるバッシングが影響力を持ちすぎたことにもあるのかもしれない。ネットリンチと同じような構図は、インターネット以前のワイドショー的マスコミの頃から存在したわけだけれど、SNSを通して不特定多数の人々を先導して「敵」を攻撃する、という手法が現実に影響力を持ってしまうようになったのは、明らかに現代ならではの事態だろう。

 「謝ったら負け」は「誤ったら負け」をも呼び寄せる。一度失敗したら、揚げ足を取られ続け、二度とチャンスを与えられない。

 そんな社会は、人を、社会を幸せにしない。人はだれもが過ちを犯す。そのことを認め合い、訂正することを恐れないことが、社会をよくするのではないか。そんな著者の意図がうかがえる。


 訂正の力は、例えば「日本は〇〇な国だ」みたいな言説においても働いている。よく「日本でマンガやアニメが発展したのは、江戸時代から浮世絵などの伝統があって……」みたいなことが言われるが、現在の日本を説明するために、過去の日本に対する再解釈、すなわち訂正が行われている。実際そこに直接的な因果があるかどうかは誰にもわからない。

 もし今後日本から新たな文化が生まれたら、また別の伝統が引き合いに出されるだろう。なんだか節操のないご都合主義的な態度に見えるが、それで上手く回っているなら別にいいんだろう。そもそも国家自体がそのような物語で成り立っている共同体なんだし。

 それは歴史修正主義とどう違うのか。というとぜんぜん違う。

 歴史修正主義者は、物証から見て確からしい過去の出来事を、現在にとって都合が悪いからという理由だけで、存在ごと否定する。無かったことにしようとする。

 訂正はその反対で、過去に起こった事実は事実と認め、例えば「あれは間違っていたので今後二度と起こらないようにします」と対策を講じたりする。


 最近だと選択的夫婦別姓の問題があるが、これについて「訂正」を援用して考えてみたい。

 選択的夫婦別姓に対して、保守派は「夫婦同姓は日本の伝統」だと言い、リベラル派は「旧弊な家族観の押し付けだ」と反発する、みたいな構図が出来上がっている。

 しかしどちらの意見にもズレがある。まず夫婦同姓が法律で定められたのは明治時代で、せいぜい100年くらいの歴史しか無い。日本の伝統と言い切るには少々弱い。

 でもだからといって夫婦同姓が家族観の押しつけだとは言い切れない。100年以上昔の話はよくわからないが、ここ50年くらいの話をすれば、夫婦同姓、というか「夫の苗字になること」は、欧米由来の恋愛主義的なロマンチックなこととして捉える風潮があり、ポップソングの歌詞に「同じ苗字になること」がポジティブなこととして織り込まれていたりする。そこに保守対リベラルの構図は無かったハズ。

 現状の国民アンケートで選択的夫婦別姓への賛成が多いのは、「選べるんだったら選べるほうがよくね?」くらいの軽いノリであって、「ポイント貰えるならその店で買い物したほうがよくね?」というのと同じ程度の庶民感覚によるものと思われる。でもそんな軽い感覚は「伝統」だとみなされないので、保守派のエライ人たちは納得してくれない。

 だから選択的夫婦別姓を推進したいのであれば、ただ「自由な方が良いに決まってる」と「正しさ」を述べ立てるだけでなく、「夫婦同姓のロマン」という従来の物語を「訂正」し保守派を納得させるような、別の物語、別の伝統を打ち立てたほうが、戦略として良いのかもしれない。

 などと考えてみたが、じゃあ具体的にどんな物語がありうるかというとなかなか難しく、現実の問題って一筋縄ではいかないんだなぁ、ってことを思い知らされる。


 今の日本には「訂正する力」が必要、という著者の主張には、自分の中にやや物足りなさが残っていて、「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」という感想にとどまっている。おそらく著者の前著である『訂正可能性の哲学』で同じテーマをより詳しく語っていると思われるが、そちらを以前ちょっと開いたところ、かなり本格的な哲学書になっていたので、読むのに骨が折れそう。

 一方、訂正する力が人を生きやすくする、という点には共感できる。

 過去は変えられないが、過去の解釈は変えることができる。たとえ忘れたいような過去であっても、全く別のきっかけによって自分にとっての意味が180°変わるかもしれない。むしろ忘れたかった過去が自分にとってのプラスになるかもしれない。そう思って生きたほうが、生きやすい。

 というようなことを以前ある方が書いていた。その人は東浩紀氏とは「食い合わせ」が悪そうな書き手なのだけれど、訂正というアイデアにおいては共通している部分があるように思われる。