フィッツジェラルドの短編、エッセイをまとめた本。村上春樹の初めての翻訳本として1981年に出版され、2006年に村上春樹ライブラリー版として改訂と『F・スコット・フィッツジェラルド』というインタビューの翻訳が加えられた。
昭和の時代がどうだったかはわからないが、少なくとも近年の日本国内においてフィッツジェラルドの名前を一般に広く普及させたのは、間違いなく村上春樹の紹介によってだろう。
かく言う自分も村上春樹の影響でフィッツジェラルドを読んだクチだけれど、代表作の『グレート・ギャツビー』と、短編でサクッと読めた『ベンジャミン・バトン』くらいしか読んだことがなかった。
本書に収められた文章は、読むと心が「がっくりと」下を向くような内容ばかりである。誰かが何かを喪失してしまう。
誤解のないように言うと、読んで「がっかり」という意味ではもちろんない。ただ疲れている時に読むのはちょっとしんどいかもしれない。
たとえば没落する父娘を描いた『哀しみの孔雀』は雑誌に売り込むために書き足されたハッピーエンドの結末が同時収録されている。逆に言えばそれだけ暗い話ということ。
最もページ数が少ない『失われた三時間』に至っては、いかに少ない文字数で人を「がっくり」させられるかに挑戦してるのか? とツッコみたくなる。そういう企図で書かれた小説でないことは読めばわかるのだけれど。
愛するものとの死別を描いた『残り火』の読後感がもっとも明るいのは不思議だ。ちなみに作中で数ヶ月前に焼いた手作りのクッキーを食べるシーンがあるが、日本人の感覚だと「カビ生えてない?」と不安になるが、空気が乾燥しているアメリカなら大丈夫なのだろう。多分。
自分の感じた「がっくり感」のことを指しているのかはわからないが、訳者は前書きで”フィッツジェラルドの作品を一九二九年を境に前期と後期に区切るなら、前期の作品は崩壊を前に見据えた恐れと逆説的な憧憬であり、後期の作品は崩壊を後に見据えた苦渋であると言ってもいいだろう"と書いている。
表題作のエッセイ『マイ・ロスト・シティー』は、1920年代、好景気に浮かれていた狂騒的なニューヨークでの暮らしを回顧している。
様々な人名や店舗名が述べられていく。ただでさえニューヨークに詳しくない上に、ほぼ100年前の事物なので、今の自分が読んでもまったくピンとこないわけだが、なればこそ「失われた街」の、その失われ様が胸に迫ってきてとても切ない。
そして『F・スコット・フィッツジェラルド インタビュー』には、まるでフィッツジェラルド自身が自らの作品の登場人物になってしまったような「崩壊」のムードが充満している。
本書で描かれる崩壊、がっくり感には、ある種の美しさが確実にある。崩壊そのものが美しいのか、それとも崩壊を美しく描くことがフィッツジェラルトの資質によるものなのか。
フィッツジェラルドには、崩壊を美しく描かなければならない動機があった。そしてそれに必要な資質を彼は有していた。そういうことだろう。なんだか全然内容の無いことを言っている気がする。
ともあれこの美しさは読む人を魅了する。そしてその美しさを一人のキャラクターに凝結させたのが『グレイト・ギャツビー』の主人公であるギャツビーなのだろう。きっと。
その美しさを作り出すためだろうか、フィッツジェラルドの作品にはどことなく「おとぎ話」めいたところがある。枕の下にそっと手紙を忍ばせるように、虚構感が差し挟まれている。
その繊細すぎる手つきは「明日もバリバリがんばろう」という人にはあまり向いていない。でももちろんみんながそんな感じなわけはないし、常にバリバリでいられる人生ばかりではない。
そのような繊細で美しい物語が、長い夜を乗り越える力になることもある。あるかもしれない。あるんじゃないかなぁ。
ともあれ100年近い時を経てもなお、本書に収められた物語の美しさは色褪せていない。それはスゴイことだと思う。