rhの読書録

読んだ本の感想など

成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊 / 佐々木敦

 『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン』シリーズなどの庵野秀明作品と、江藤淳『成熟と喪失 “母”の崩壊』を通して、「成熟」を論じる本。

 そもそも自分は庵野秀明作品があまり肌に合わない体質である。必ずしもキライではないし、エヴァ本編はほぼ全て1回観ている(というかがんばって観た)のだけれど、どうしても観ていると悪酔いしたみたいな気分になってしまう。今回はイケるんじゃないかと『シン・ゴジラ』公開時に劇場に観に行ったが、懇々と小言を押し付けられているみたいな感覚に陥って大変苦しい思いをした。

 自分がエヴァを苦手な理由は「説教臭いから」だと思っていたが、本書の浅田彰を引用した「エヴァはパラノ(偏執)的だ」という説明で腑に落ちた。「逃げちゃダメだ」的観念、戦わなければ生き残れないという強迫性が自分には苦しく感じられるのかもしれない。同じように『ガンダム』とか『進撃の巨人』とか『鬼滅の刃』が苦手なのもそのせいだろうか。

 読み終わってから気づいたが、江藤淳も自分にとってはあまり印象の良くない書き手だった。自分が自発的に本を読み始めた頃にはすでに亡くなっていたが、自分が読んできた本(本書で引用される加藤典洋や大塚英志も含む)の中で江藤淳が好意的に取り上げられていたのを読んだことがない。直接江藤淳を読んだことは無いので食わず嫌いなのは自覚しているけれども。

 そんな自分の「二大苦手」を扱った本であるが、大変興味深く読め、実にいろいろことを「考えたくなる」本だった。「考えさせられる」ではなく。

 以下、本書を読んで自分の中に生じた、現時点での本書の成熟論に対する理解。




 エヴァンゲリオンは長らく「上手く終われない」物語だった。「エヴァの呪縛」に表象されるように、物語構造的に成長が排除されていた。それゆえにか、キレイな「オチ」をつけることができなかった。

 『エヴァQ』の後、庵野秀明は『シン』シリーズを手がける。そこにはエヴァには無かった要素が盛り込まれていた。『シン・ゴジラ』の「公共」。『シン・ウルトラマン』の「他者」。

 そしてシリーズ最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で、シンジはゲンドウと和解し、成長した姿でマリと結ばれ、物語はある種の「ハッピーエンド」を迎えた。

 唐突な終わり方ではあった。シンジとマリが結ばれるプロセスは描かれなかった。しかしシンジを成長させたうえでエヴァンゲリオンを「終わらせる」のであれば、この結末しか無かったようにも思える。そしてその唐突さは「すでに庵野秀明が大人になってしまったこと」に由来していると見るべきだろう。

 江藤淳の『成熟と喪失』は、そのある種の前時代的な内容から様々な評論的批判を受けつつも、現代まで影響力のある一冊となっている。

 敗戦によって「父性」が崩壊し、近代化によって「母性」が喪失した日本社会で、人間として成熟するためには「治者」として振る舞うしかない、というのが江藤淳の成熟論だった。

 喪失を通して成熟が可能になるという、江藤淳による「日本的成熟論」が、普遍性や妥当性を欠いているように見えるにも関わらずしぶとく生き残っているのは、そこに人の心を慰撫するようなところがあるからかもしれない。

 かつてエヴァが描いた「成長できなさ」「未熟」には、江藤淳の成熟論に通じるものがあった。『成熟と喪失』の中にはエヴァンゲリオンの解説として読むことすら可能な文が見受けられる。

 庵野秀明は『シン・エヴァ』でエヴァを終わらせ、そのような「成熟」の問題にひとつの区切りをつけたのだろうか。だとすればそれは成熟の終わりではなく、むしろ成熟の始まりだったのかもしれない。大人になったシンジはその後も生きていく。

 シン・エヴァの後に公開された現時点での最新作『シン・仮面ライダー』には成熟への志向は描かれない。キャラクターの命は失われてゆくが、エヴァのように失われたものを中心にぐるぐる回り続けるような物語ではない。

 代わりに登場するテーマが「継承」だ。一文字隼人は本郷猛の遺志を継いで戦い続けることを決意する。

 成熟を追い求めないこと。成熟なき成熟、いわば「成熟の喪失」こそが、日本的成熟の「先」を描くためのカギなのかもしれない。



 そもそも成熟とはなんだろう。喪失を通じて成熟するとはどういう事態だろうか。

 「母」の喪失により成熟する。それを細かい議論をかなり強引に切り捨てて一般的な感覚に言い換えるとすれば、「子供の世界を捨てて大人の世界に入る」と言い換えられるのではないかと思う。

 詳しい人からすると「いや、そういう単純な話じゃないよ」と言われるのかもしれない。し、実際にそんな単純な話じゃないのかもしれない。

 だとしても、そのように単純で普遍的な「成熟神話」の一種として受け入れられたからこそ、『成熟と喪失』は強い影響力を持ったんじゃないか。

 どこの文化にもある、子供から大人への成熟段階。それが失われていったようにみえた戦後日本において、「日本固有の物語」を立ち上げようとしたからこそ『成熟と喪失』は広く受け入れられた、と見ることもできるだろう。

 敗戦と近代化によって齎された「父」の崩壊と「母」の喪失、という部分までの江藤淳の議論には妥当性を感じる。それが日本固有の事態だったかどうかには疑問が残るけれども。

 しかし「どうすれば成熟が可能か」という段になって突然、江藤淳は「治者」という概念を持ち出す。治める者、つまり人の上に立って誰かを守るものとしてふるまえ、という。自分にはそれは単に「大人になれ」と言っているのと同じ見える。

 福田和也によれば戦後日本は「誰もが「治者」への尊敬と服従を欠いたまま「被治者」の自由と安楽を享受する」事態になり、やがて「被治者」を守るものがない「新事態」に直面することとなったという。


 「子供の世界」を失えば自動的に「大人」になれるという「成熟神話」は、考えてみれば「家から追い出せばひきこもりは治る」という議論にも似ている。しかしそれは間違いであるばかりでなく時に有害だ。精神科医の斎藤環は「引きこもりを治すために必要なのは欲望を持つことだ」とさまざまな著作で書いており、ひきこもりを無理矢理家から出そうとするいわゆる「引き出し屋」を一貫して批判している。

 現代における成熟の困難は、どこに「大人の世界」があるのか、そもそも「大人」とは何なのかが誰にもわからなくなったことにあるのではないか。欲望を持つことの困難さも根は同じかもしれない。

 人々が成熟を拒否するようになった、という見方は疑わしい。そもそもかつて人々が「ようし、これから大人になるゾ!」と高い意識を持って大人になっていた時代があったとは考えられない。むしろいつの世も人は「大人にならざるを得なかった」と考える方が自然だ。

 なんだったら自分のような平成育ちの人間よりも、先行き不安な現代の若者のほうが「成長」には飢えている印象はある。「大人」になろうとしているかどうかはちょっとわからないが。

 かつての成熟の本質は、「子供の世界」から「大人の世界」への移行そのものではなく、喪失した「子供の世界」を追い求めないこと、にあったのかもしれない。重要なのは「追い求めない」ことの方にある。

 だとしたら、「大人の世界」と「子供の世界」の区別が失効してしまった現代においては、失効した区別を「追い求めない」ことこそが成熟なのではないか。

 「子供の世界(とされたもの)」を諦めないこと、「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」のような、かつては子供のものとされた、実は豊かな物語を持ったものを未来に継承すること。それが喪失なき成熟、すなわち「成熟の喪失」を目指すためのひとつのやり方なのではないか。

 というのが本書を読んで自分が思い浮かべた「成熟論」だった。




 以下、成熟などに関連して思い浮かんだ、いろいろな作品についての雑多なことを書き並べる。


 著者はあとがきにて、「エヴァ」を「さまざまな意味での、あらゆる意味での「生きづらさ」の象徴のごときもの」と捉えたうえで、

いわば私は「EVAに乗ったまま」の幸せの追求を、相変わらず「エヴァがいる世界」で生きていくことを肯定する術を書いてみたかったのかもしれない。

 と書く。

 エヴァファンにとってのエヴァに近いものは、おそらく自分にとっては漫画『さよなら絶望先生』だった。

 自分の身近にある「生きづらさ」を表象してくれた漫画だった。

 だからその後、同じ作者が「子を育てる話」である『かくしごと』を描いたとき、もう「自分のための漫画」じゃなくなったんだな、と感じた。ずっと先まで行ってしまったんだなと。

 もちろん表現者は受け手を引っ張るために表現してるわけじゃない。いかなるときも受け手は勝手に「ついてきている」だけだ。置いて行かれたことにとやかく言っても仕方がない。それはそういうものとして受け入れるのが筋だろう。

 エヴァも終わった。それは庵野秀明にとって「生きづらさ」が目の前にあるテーマでは無くなったからかもしれない。

 もちろんエヴァが完結したからといってこの世から生きづらさが消えるわけではない。その時代にはその時代の生きづらさを描いた作品が生まれるだろう。


 失ったものを(困難を乗り越えて)取り戻す、というのはよくある物語の類型だ。それがただ単に奪われたりどこかへ行ってしまっただけであれば、取り戻すことができる。

 それに対してエヴァは「完全にこの世から消失してしまったものを取り戻す」という本来不可能なことを描いた物語だった。ゲンドウは亡き妻ユイを取り戻そうとした。

 失ったものを取り戻そうとする者が罰を受ける、というのもまたそれなりに見られる物語形式だ。黄泉の国からイザナミを連れ戻そうとしたイザナギのように。

 そのような物語として最初に思い浮かぶのがフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』。かつて愛したものを取り戻そうとする男ジェイ・ギャツビーが美しく滅び去る話。

 江藤淳が60年代にプリンストンに渡米したのはフィッツジェラルドを研究するという目的もあったそうだが、フィッツジェラルドは『成熟と喪失』にどのような影響を与えたのだろうか。「喪失によって成熟する」という議論はギャツビー的なもの相反するように感じるのだけれど。


 90年代に同じプリンストンへ渡った村上春樹は、大学で日本文学の講義を行う上で『成熟と喪失』をサブテキストとして用いたという。その講義内容をまとめたのが『若い読者のための短編小説案内』。

 村上春樹が公に江藤淳について語ったり書いたりしたことは、自分の知る限りでは無い。批評や評論といったものを一貫して遠ざけ続けてきた彼のことなので不自然ではないけれど、江藤淳の成熟論に対して何かしら思うことがあったのは間違いないだろう。

 特に初期の村上春樹作品には強い喪失感が漂っている。父は不在であり、母(女)は去り、成熟は描かれない。そのような特徴を持つからこそエヴァを始めとするセカイ系の端緒とされたわけだが、そう考えると村上春樹作品と『成熟と喪失』を並べて論じた議論があってしかるべきに思えてくる。なお江藤淳は村上龍を強く批判したが、村上春樹については「そもそも読んでいない」という態度だったらしい(https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/17498/files/38986)。

 村上春樹の小説にはどこか男性を主体、女性を客体として扱っているようなところがあり、その点で『成熟と喪失』と同じ問題を有しているように思われる。最新短編『夏帆』(「新潮」2024年6月号)においてルッキズムに傷つく女性を描いたのは、かつて対談の中で川上未映子から女性の扱いについて問いを投げかけられたことに対するアンサーだと感じられるのは自分だけだろうか。

 よく考えれば以前、『アメリカ 村上春樹と江藤淳の帰還』という坪内祐三が書いた本を読んだことがあった。あれは両名とアメリカとの関係性を書いたもので、成熟論や作品論ではなかったと記憶している。手元にないけどもう一回読んでおきたい。

rhbiyori.hatenablog.jp

 少し調べたら『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』という本に、村上春樹と江藤淳の関係を考えるうえでのヒントがありそうなので、次はそれを読んでみたいと思う。



 エヴァがパラノ的だとして、じゃあ逆にパラノ的でない作品はなんだろう、と考えて最初に思い浮かんだのがなぜか『グラップラー刃牙』だった。

 男たちが強さを求めて(主に)格闘によって戦う漫画であり、強さを偏執的に追い求めているという解釈も可能だろうが、彼らが強さを求めるのは決して「生き残るため」ではないし、「金を儲けるため」ですらない。
言ってみれば「己が一番強い」と証明するため、自己実現のためである。ゆえに彼らの戦いはどこまで行っても享楽的だ。生きるか死ぬかの戦場をくぐり抜けたハズの(SF技術とオカルトで現代に蘇った)宮本武蔵でさえ、強敵を前に「地平線まで続く馳走」をイメージする。

 主人公の範馬刃牙に至っては「父親に勝てるのであれば自分が世界で二番目に弱い人間であっても構わない」という旨のセリフまで言う。

 だから刃牙シリーズは何の苦も無く自分の中に入ってくるのかもしれない。

 試しに「逃げちゃダメだ」というセリフが出てこない貞本義行による漫画版のエヴァ1巻を読んでみたら、比較的苦痛を感じずに読むことができた。


 「喪失」を回避した物語として思い浮かぶのが『ドラゴンクエスト11』で、あれはエヴァでたとえるなら「ユイが復活してシンジとゲンドウと協力して使徒をぶっ飛ばし、シンジは(エヴァにはいない)幼馴染と結婚、アスカやレイともいい関係をキープする」みたいな結末で、ゲームとしては最高の出来だったがあの結末だけは納得がいっていない。

 そんなに簡単に喪失を回復できてしまっては喪失のストーリーテリング的な重さが無くなってしまう。マルチバースで「なんでもあり」になってしまったマーベル映画のように。映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が、完成された原作を「ゲームなんてやってないで大人になれ」というメッセージおよびその打倒の物語に書き換えるという「原作改変」をして炎上した安直さとも、問題の根は近いところにあると感じる。というのはほとんど愚痴。


 『シン・仮面ライダー』のような「継承」を描いた物語というと、『ジョジョの奇妙な冒険』や『メタルギアソリッド』が思い浮かぶ。特に後者の2作目『サンズ・オブ・リバティ』は「GENE(遺伝子)だけでなくMEME(ミーム)を受け継ぐ」というテーマを2000年代初頭にTVゲームで描いた画期的な作品だ。その後「ミーム」という言葉は「ネットミーム」みたいな使われ方がされるうちに、「受け継ぐもの」というより「拡散するもの」へと意味が変わってしまった感がある。

 「継承」はもちろん庵野秀明の専売特許ではない。しかし「日本的成熟」にとことん向き合ったかに見える庵野秀明が「継承」を描くに至ったことに重要な意味がある、のだろうか。