そういえばこんな小説があったな、と思って、手に取った。2010年の発表当時、表題作の『工場』はちょっとした話題になったと記憶している。不思議な動物が出てくる工場の話として。
読み始めてすぐは、正直言ってちょっとだけ不安だった。ただ単に現代の、つまり2010年当時の労働環境を風刺しただけの小説なんじゃないかと。
実際に読むと、確かに風刺と読むこともできるけれど、全然それだけの小説ではなかった。
3人の人物の視点で物語が進む。シュレッダー係の牛山。コケ研究者の古笛。校正係で牛山の兄。
3人は、それ自体が街を成しているほど巨大な工場で働いている。
工場はあまりに巨大で、業務内容すら判然としないまま3人は働く。牛山は毎日ひたすら紙を機械に入れ、出てきたゴミを運輸係にわたす。古笛は屋上緑化のために雇われたハズが、コケ観察会という小学生向けのレクレーションを開かされる日々。牛山が校正する文章は支離滅裂な内容で、いちど校閲した文章がまた手元に戻ってきたりする。はじめは業務に戸惑っていた3人も、やがて工場での生活になじんでいく。
ある日古笛は、コケ観察会に参加した小学生が書いた、研究資料を渡される。そこには工場内だけの生息する動物の生態が詳しく記されていた。灰色ヌートリア。洗濯機トカゲ。工場ウ。工場の環境に適応した、新種の動物たち。
3人が最終的にどうなるか、といういわゆる「オチ」については、正直言って中盤あたりからだいたい予想がついた。そもそも小説の最初からしっかり伏線が張られているので、ちゃんと読めば誰でも予想ができる建付になっている。この小説の読みどころは「意外なオチ」でもないと思う。
人物描写の緻密さがとにかくスゴイのである。
その緻密さは、「人間の内奥を鋭く剔抉(※えぐり出すこと)する」みたいな、ともすれば前時代的で前のめりな感じではなく、人間のあられもない日常的感情をまるごと文章化してしまうような、後ろ暗くもどこか空恐ろしい緻密さだ。
「こういう人、いそうだな」というツボを的確についてくる。カラッとしているというよりも、じっとりと、梅雨時の蒸し暑さのような、まとわりつくような「人間」が、読むほどに迫ってくる。
そのまとわりつき感は、快か不快かで言えば、基本的には不快なのだけれど、不快と不快が重なることで、快に転じるという文学的マジックが起こったりもする。
牛山と古笛が出会う場面が、それぞれの視点で交互に描かれるのだが、まるですれ違いコントのような味わいがある。沖縄料理店店主の「じゃーんけーん、シーサッ」という掛け声には、頭を抱えたくなるような気恥ずかしさがあるが、でも似たようなことは世界中のどこでも繰り広げられていそうでもある。
読むにつけ、もしかして著者は人類全体をうっすらバカにしてるんじゃあないかと思えてくる。人間は愚かだ、と。実際、愚かではあるのだけれど。
でもその愚かさを告発するのではなく、見下すのでもなく、ただしっかり見つめると、このような優れた小説ができあがる、のかもしれない。
本作に登場する巨大な「工場」は、人間を使役し簒奪する上位者ではない。人間を包括し同化させるような、自律的なシステムそのものだ。
なぜ牛山と古笛が、最後にあのようになったのか? それは工場というシステムに完全に同化し、システムの論理で思考するようになったからだろう。
工場ウが印刷機のトナーとして利用されているかのような描写がある。だとすると工場は人間から言葉やナラティブを奪い、牛山が校閲するような無内容なメッセージに変換してしまう巨大な装置である、という解釈もできる。
ついでに謎解き的なことを書いておくと、森の妖精ズリパンと、森の入口で死んでいたヌートリアには明らかに関連性がある。
本書の表題作が『工場』なのは、「不思議な動物が出てくる話」のほうがキャッチーだからかもしれないけれど、著者の緻密な人物描写がより闊達に発揮されているのは「いこぼれの虫」のほうだろう。同じ職場で働く10人ほどの人物の視点を切り替えながら、職場に馴染めない奈良が「居溢れて(という言葉を本作で初めて知った)」いく様が描かれるのだが、これほどスムーズに人物の書き分けがなされる作品はなかなかない。
ある人物は「私はこんなに繊細なのに、みんなこんなに鈍感」みたいなことを思っているのだが、視点が切り替わると、その人も実はだいたい同じようなことを考えている。みたいなことが繰り返され、コミュニケーションは不調のまま、表面的には平穏に日々の業務が続いていく。奈良をのぞいて。
「工場」は人が職場に適応していく話だったが、本作は人が職場に適応できない話であって、両者は対照をなしている。
普通、人間関係に馴染めない人は、周りを見渡す余裕はあまり無いハズで、だからこそ客観的な視点で全ての登場人物を等しく描く本作を読むと、よりいたたまれなさが心に降り積もってくる。
本書に収録されている、表題作と「ディスカス忌」「いこぼれの虫」の3作に共通するのは動物が登場すること、そして人間が動物に接近していくことだ。頻出する妊娠や出産といったモチーフも、人間が動物に近づくできごとだと言える。『ディスカス忌』の褥婦の肉感たるや。
それは動物的なものへの憧れか。あるいは人間の、言葉の世界から離れたいという願望か。でも動物そのものになってしまったら、言葉の世界から離れてしまうわけで、もはやそこに小説の居場所は無い。だからこの3作は、人間が動物に最接近したところで終わるのかもしれない。
読者としての傲慢な欲から言うと、人間が動物になった後の話や、動物と人間が行き来するようなものを読んでみたくなる。自分が読んでないだけで、そのあと著者はそのようなものを書いているのかもしれないけれども。読まなきゃなぁ。
