rhの読書録

読んだ本の感想など

「書くこと」の哲学 ことばの再履修 / 佐々木敦

 どんなことを書いてもいい。どんなやりかたで書いてもいい。そんなメッセージが本書全体からうかがえる。

 「そんなこと言われても、どんな風に書いたらいいかわからないよ」という人のために、著者の経験や、様々な書き手の事例を挙げて、書くというプロセスにおいて生じる諸問題への向き合い方をレクチャーしてくれる。一緒に考えてくれる。本書はそういう本だ。

 「一般的なそれとは少々異なった考え方に基づくレクチャーです[p. 3]」と書く通り、いわゆる実用書やハウツー本とはかなり方向性が違っている。

 まず第一部の前半から、「書くこと」の「倫理」というテーマが展開される。

 「書くこと」と「倫理」にどのような関わりがあるのか。そこのところを上手く説明するのは難しい。

 その理由①は、それがたとえば「言葉にするととたんに嘘になってしまうようなこと」のような、大変に微妙な議論だから。

 ここで重要なのは、「倫理」が言い表しえぬもの、語り得ぬものであるのだという主張のうちにチャンドス卿[引用者註:小説『チャンドス卿の手紙』の登場人物]が述べていたように――実際には書くことがなされていないわけではないのだが、しかし書いた途端にウソになってしまう、書けたと思ったとしても、ほんとうは書いたことになっていない、もっと強い言い方をすると、要するにそれは書いてはならないものなのだ、という一種の禁止の命令(のごときもの)が潜在しているのではないか、と思えてくることです。[「書くこと」の哲学 ことばの再履修、p. 39-40]

 そして理由②は、そんな複雑玄妙な議論について、自分のような者がわかったような口を利いていいのか、という葛藤があるから。

 たとえば本書で引用される高橋源一郎が書くものを、ずっと読んできた者としては、その倫理の感覚に対しては大いに共感するところがある。でもそういう問題は、書くことの最前線で命を削ってきた人たちだけが口にすべきことなのではないか。そんな風に思われてしまう。

 あるいはその「書くべきでない」という感覚こそが倫理なのかもしれない。だとしたら倫理は自分にも関係のある問題なのかもしれない。

 自分が感じる「書けなさ」が本書の「倫理」と重なるのかはわからないけれど、「書けなさ」を乗り越えること――「書けない」としても書くことの意味を、著者は説く。

「語る/描く/書くことなどできない、それゆえに語っては/描いては/書いてはならない」なのか「語っては/描いては/書いてはならない、それゆえに語る/描く/書くことはできない」なのかはともかく、そんな「沈黙」への強力な牽引に何とかして抗って、それを語らなくては/描かなくては/書かなくてはならない、語れ/描け/書けなくてはならない。たとえ結果として、やはりそれを出来たことにはならないのだとしても、それでもやってみなくてはならない。[同前、p42]

 そして、書けなさに抗う態度のひとつの例として、村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭を引用する。孫引きになってしまうのでここで引用するのは控えておこう。読もう。すごく良いから。


 その先の第四講からは、より具体的にどう書くのか、という議論に移っていく。

  • 一般的には「下手」とされるような、でも独特の味のある文章が存在しうる。
  • 多くの文章指南が一文を短くすることを推奨しているが、あえて一文を長くすることでカメラの長回しのような効果を生むこともできる。
  • 文章が持つ(広い意味での)ロジックは文章全体の中で機能するものなので、あえてロジックを入れ替えたり崩したりしても全体のロジックは伝わるし、それが別の効果を生むこともある。
  • レトリック=「文章における(上手い)言い回し」は上手い下手よりもそれがもたらすエフェクトにこそ意味がある。

 といった文章表現における技法が、吉田健一、金井美恵子、保坂和志、岡田利規などなど、様々な書き手による実例を挙げて紹介される。

 第八講からは、著者自身の経験を中心に、早く書くこととゆっくり書くことのそれぞれの効用、そして考えることと書くことの関係についての、著者の考えが語られる。

 「ことばの反射神経の訓練場として、Xはかなり適しているのではないかと思っています[p. 150]」と、「早く書く」ための練習場としてTwitter(現X)を使うことを推奨しているが、コレに関しては自分にも実体験がある。

 著者は当ブログがこれまでに書いた、著者の著作に対する感想文に、Twitter上で何度もリアクションしてくださっているのである。しかもしっかりと内容にまで言及したうえで。このような、もっぱら自分の読解を深めるためだけの感想文を。恐れ多いどころの話ではないけれど、著者が体現する「早さ」を自分も肌で体感していたわけだ。


 またそのツイート(ポスト)の「考えたくなる」というワードにリンクする話も本書には出てくる。

 自分が『成熟の喪失』に対する感想で「実にいろいろなことを「考えたくなる」本だった。「考えさせられる」ではなく。」と書いたのは、実のところ、本の内容とはあまり関係のない(ように思える)、自分の頭に浮かんだことをいっぱい書いてしまったことへのエクスキューズ的な側面もあった。でもどうやらそれは著者の批評的企みどおりだったらしい(もちろんいい意味で)。

 自らの書く批評に対して読者から「結論がない」と揶揄されることに対して、著者はこうこたえている。

 私の考えでは「批評」と「論文」は違います。アカデミックな論文は導き出すべき結論が、説得的に提出すべき主張が、あらかじめ何かしらあるものだと思いますが、私の考える批評はそういうものではない。対象となっている事象にかんして、知識や認識や理解や洞察を得ることもむろん大事ですが、それ以上に私は、批評の役割とは「読者が自分で考え(始め)ること」のきっかけを作ることだと思っています。「僕はこう考える」だけではダメで、「僕はこう考える、では君は?」でありたいと常に思いながら批評を書いてきました。(同前、p. 238-239]

 自分は昔からどうしても「(本当は誰にもわからないようなことについて)わかったようなことを言う人」が生理的に苦手なのだけれど、著者の書くものはその対極にあると感じる。ある考え方を示し、それについてどう考えるかは読者に任されている。だから読むといろいろなことを考えたくなるのだと思う。

 なにかを断定的に言うことが「カリスマ性」などともてはやされ、あまつさえテクニックとして称揚されるのは、もしかするといつの世も変わらないのかもしれないけれど、少なくとも自分にとっては著者のような抑制的でオープンな態度のほうがずっと好ましく、なにより読んでいてエキサイトできる。


 第二部となる第十一講からは、メモをとることの有効性、書く前に「設計図」を作るかという問題、書き出しの重要性など、より実践的な内容に話が及ぶ。

 インプロヴィゼーションにまつわる話は、おそらく町田康『俺の文章修行』における「書きかた」の骨子と同じ方向を向いている(両者は本書発売に伴う対談をしている)。ただアドリブ的に自由に書くだけでなく、書き、書いたものを読み、読んだ上でそこに生まれるものをまた書いていく、というプロセス。それが文章をより「生きた」ものにする、という方向性。
rhbiyori.hatenablog.jp

「次の一文」を更新し続けるためにこそ、読み直しと書き換えを絶えず繰り返す必要があるのです。私は全部書き終わってから推敲するよりも、こうした細かい行きつ戻りつの方がはるかに有効だと思っています。自分の内なる「作者」と「読者」に対話をさせながら書いていくこと。そしてこの「対話」はなによりもまず楽しくなければならない。[同前、p. 223]

 あらかじめ用意された結論を書くだけではなく、今そこに生まれつつあるものを書いていくことが、自分の中にすらある決まり切った考え方(町田康はそれを『デフォルトの善悪』や『雑な感慨ホルダ』)と呼んでいた)から逃れるすべであり、シンプルに文章を面白くする方法なのだろう。そしてそれが簡単でないから「哲学」や「修行」が必要になるんだろう。


 本書の講義のラストとなる第十六講は、書き終えたあとのこと、「書き終えた後に、書き直すのはほどほどにして、そっと誰かに差し出して、そして書き始めましょう[p. 257]」というアドバイスで終わる。

 あとがきを兼ねた補講三では、第一部前半にて述べられた「書くこと」の倫理は「他者」すなわち「私たちに無関係な存在に対する理解と想像にかかわっているのだと私は思います[p. 285]」という見解が語られる。

 自分はいつ頃からか、ただ普通に生きているだけだと「『自分』に囲まれているな」と感じるようになった。それは、自分が選んだ食べ物を食べ、自分が選んだ服を着るようになった資本主義時代の感覚なんだろうか。いや、単に自分がそういう生き方を選んでいるせいかもしれない。

 かつてインターネットは、なにが出てくるかわからない雑多なびっくり箱みたいな空間だった。それ自体が「謎」であり「他者」だった。でも時間が経ってあらゆるものが整備されるにつれて、いつの間にか自分の見たいものを見る場所になってしまったように感じられる。

 その原因は、なにか大きな力が働いたからというよりも、「情報認識の労力を少なくしたい」という各人の欲望が生んだ状況であるように思われる。自分自身を省みてもそう感じる。だから「インターネットは見たいものだけを見ることが可能な場所になってしまった」と言ったほうが正しいのかもしれない。自分が一時期しなくなった読書を再開したのも、インターネットに「外側」を感じにくくなったことと無関係ではないと思う。

 書くことがすなわち「他者」と向き合うことになるとは限らない。でも書くことは他者と向き合う試みになりうる。

 書くことが他の表現方法と異なるのは、どこまでも個人的な行為であること。だからこそ自分の中にある他者、今までそれが自分だと思っていなかったような自分を知るきっかけになりうるし、それが自分以外の他者と向き合うきっかけにもなりうるのかもしれない。

 そのためにはどんなことを書けばいいのか? それは人によって違う。違うから良くて、違うから難しい。そんな道なき道をゆく者の道しるべとして、本書が示す哲学はきっと先を照らしてくれる光になるだろう。