rhの読書録

読んだ本の感想など

世界を物語として生きるために / さやわか

 ライターで批評家のさやわか氏による批評集。

 読み始めるまで気づかなかったが、表題の「世界を物語として生きるために」は、初出であるユリイカ2009年4月号を所有していたので、再読となった。

 思えば、自分が著者の存在を知ったのが、その批評だったかもしれない。

 それから今まで著者の著作をいくつか読んできた。

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 最近では、よく聴いている「THE SIGN PODCAST」というポッドキャストで著者の声をよく耳にする。自分が関心のあるテーマの回(漫画やアニメ、映画など)には著者がほぼ必ず登場しており、その批評的見地を語ってくれている。ファイナルファンタジー回やインディーゲーム回は特に良かった。

 自分は難しいガイネンとかを駆使して考えるのは得意ではなく、いわゆる批評のような文章はおおむね雰囲気で読んでいるのだけれど、それはそれとして、自分の関心のある領域を論じてくれる批評家がいるのは稀有なことだと常々感じている。この「批評・冬の時代」においては特に。現代思想も「ハイスコアガール」もどちらも等しく語ってくれる人がいる幸せ。



 本書を読んで最も心に残ったのは、前書きのように置かれた冒頭の橋本治論「終わり/始まり 八匹目の終わりと始まり」だった。

 多くの人にとって「なんだかよくわからない書き手」だった橋本治。

 その裏側には橋本治の優しさがあった、と著者は言う。

 こんな文章があったらいいのにな。でもまだ世の中には存在しない。だったら自分が書こう。そのようなスタンスが橋本治の根底にあったのではないか、と。

 橋本治は「正当性は論理によって獲得される」と書いた。長い論理を用いて対象を記述することで、その正当性を確認していく。そのようにしてあらゆるものを論じる書き手だった。

 しかし、結果的に人を煙に巻くような書き方をしがちなこともあり、日本の批評史の中に位置づけられているとは言い難い。



 人生相談に定評のあった橋本治だが、週刊ヤングサンデーに連載していた「101匹あんちゃん大行進」という連載を、8人目の相談者で打ち切ってしまい、連載はそのまま終了になる。

 連載は単行本化されていないようなのだが、インターネット検索すると、この連載打ち切り事件について言及している人がそれなりにいるため、著者以外の当時の読者にも少なくない印象を与えたようだ。

 最終回の1つ前の相談で、暴力を用いようとする相談者に対し、橋本治は暴力というものの性質そのものを説いた。

 そして、暴力の性質を知らずに暴力を用いようとする相談者は、もしかすると「いじめ」=「暴力」の被害者であり、その復讐をしようとしているのではないか、と橋本治は推測した。

 この回答に対して、別の人物から、橋本治を中傷するような内容の手紙が来た。

 これを受けて、橋本治は二度と若者雑誌に書かないことを宣言し、連載を終了した。



 中傷的な手紙の送り主の主張は、端的に言えば「いじめの加害者は糾弾すべきだ」というもの。その発想は「暴力には暴力でやりかえせ」という思想に裏打ちされたものと言える。

 さやわか氏はそこに、当時(1995年ごろ)から台頭し始めた「今日の僕たちが直面しているあらゆる危険な闘争状態」の先駆を見る。

 橋本治は中傷という暴力に暴力で対抗するようなことはせず、連載をやめることでこれを拒絶して去っていったのだった。



 まず橋本治の書き手としての徹底した真摯さに心打たれる。

 自らの仕事ひとつを無くしてでも、モラルの方を「取った」。彼にとって、若者と距離を取ること自体、あらかじめいつか来ることだと覚悟していたようなのが、だとしても自ら身を以て範を示すことは、ザラにできることではない。

 いや、範を示すなどという啓蒙的な発想はおそらく彼には無かっただろう。ただ己自身の倫理に従った。そんな印象を受ける。

 また、自分にとって橋本治は未知の作家だった。まさに「なんだかよくわからない書き手」だった。

 ほとんど読んだことは無いのに、周辺的な情報から、「桃尻娘」みたいな悪く言えば飛び道具的な物書きだと勝手に思い込んでいた。

 自分の読んできた書き手の中に、橋本治を読む意義を教えてくれる人があまりいなかったことも、一因かもしれない。

 連載打ち切り事件以降、若者向けの媒体から全面的に手を引いたのだとしたら、それも自分に届かなかった原因だろう。

 この批評全体が、それほど長大では無いにせよ、さやわか氏による、橋本治の「論理による正当性の確認」になっている。いずれ橋本治の著作を手に取りたいと思えた。



 表題の『世界を物語として生きるために』は、ドラクエ、FFなどの「和製RPG」の物語主導性が、世界的に見て特異であることなどを論じている。

 末尾には昨今の「異世界系」の小説やアニメが和製RPG由来であることへの指摘が加筆されている模樣。



 古屋兎丸「Marie の奏でる音楽」について論じた『「かわいいの世界」は可能なのか』。

 つい先日のSIGN PODCAST『ちいかわ』回に通底しているものを感じた。聖なるものと不気味なものの近さ。
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 『ボタンの原理とゲームの倫理』。(コンシューマー、PC、スマホなどのデジタルの)ゲームとはボタンを押すと反応するものである。プレイヤーに「ボタンを押していること」を意識させるようなゲームが、プレイヤーへの倫理的な問いかけになりうる、という議論。

 以前、佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』を読んだ時、「ゲームって結構パラフィクションだよな」と強く感じた。

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 佐々木敦の定義によると、パラフィクションとは「鑑賞者が鑑賞者であること」に言及するフィクション(たとえば「読者が読んでいること」に言及する小説)だ。

 本書で取り上げられている『Far Cry4』の隠しエンディングは、プレイヤーが「ついボタンを押したくなってしまうこと」を利用したギミックだ。物語の本質とは関係ないため、厳密にはパラフィクションとは言えないかもしれないが、パラフィクション的表現とは言えるだろうか。

 ボタンの原理が倫理を問いかけるという構図は、パラフィクションにおいても成立するのかもしれない。

 ならばそれは、読むことに言及する小説が「読むことの倫理」を問いかける、という形になるだろう。それはSNS時代において意味のあるものになるかもしれない。というのはただの安直な思いつき。