わたしは今、この文章を書いている。
この文章を書いている今の自分の状況を、言葉で表すなら、そうなる。
でも、書き終わった瞬間にその文章は過去になり、「今」ではなくなる。何度か推敲したりもしているし。
そもそも「自分が文章を書いている」という記述自体が完全な事実ではなく、ひとつの見方でしかない。現代の、日本語による、一般的な表現でしかない。
脳がわたしに文章を書かせている。
と、受動態で表現したほうが、別の見方に依るならば、より正確なのかもしれない。
もしくは「書け、と何かが囁いている」とか。
あるいは数百年後数千年後の日本語では、そのように受動態で表現するのが正しいとされるようになるかもしれない。
『あなたは今、この文章を読んでいる。』を読んだ感想を書こうとしたら、なぜかそのようなことに思いが至った。
同じ著者の佐々木敦による『筒井康隆入門』の中で言及されていたため手に取った本書。
前半は、筒井康隆などのメタフィクション作品や、渡部直己などのメタフィクション論に対する批評。
後半は、円城塔、伊藤計劃、神林長平らの作品を論じながら、著者が新たに提唱する「パラフィクション」という概念を考察していく。
という構成になっている。
メタフィクションとはなにか。
フィクションそのものが、自身がフィクションであることに言及するようなフィクション。
あるいは、フィクションをフィクションたらしめている様々なルールやや約束ごとをあえて破るようなフィクション。
そのようなフィクション自体は、古くからフィクションの歴史とともに存在している。
フィクションあるところにメタフィクションあり、と言ってもいいのかもしれない。
基本的に、フィクションを見る人は、それをフィクションとして楽しむためには、それがフィクションであることを「一旦、見て見ぬふり」している。
「ただの作り話だよね」というツッコミを一旦脇に置かなければ、フィクションに没入することは難しいから。
もちろんそれは、フィクションを本当の話だと思いこんでいる、という意味ではない。むしろフィクションがフィクションであるとわかり切っているからこそ、安心してフィクションに没入できる。
そのような「見て見ぬふり」という「お約束」に対して、ごく小規模な、物語の本筋と関わらないようなメタフィクション描写は、「これは作り話だよ」といったメッセージによって、みんなが見ないようにしている「お約束」に対して言及する。例えば、突然作者が作中に顔を出す、というような。
読者はそこに意表を突かれたおかしみを感じるわけだが、やっていることは、そこにある「お約束」に言及しているだけの、いわば「あるあるネタ」であって、さして斬新でも先進的でもない。
しかし文学用語としてメタフィクションが発明・発見され定着したのはわりと最近のこと。1970年の評論が初出であるらしい。
そこからメタフィクションの手法をより押し進めた様々なフィクションが作られてきた。
本書の著者は、そのようなメタフィクションの進歩と発展に対して、ある懐疑的な見方を示す。
決してメタフィクションそのものがダメだと言っているわけではない。
そうではなくて、メタフィクションを高度に深化・複雑化することよってある「問題」が生じてきており、その問題によって新しいものが生まれにくくなっているのではないか。
というような意味合いの「懐疑」だと思われる。
メタフィクションの問題とは何か。
それは、メタフィクションの手法を徹底するほど、むしろそのフィクションの「作者」の存在が読者に強く意識されてしまうという点。
実験的なメタフィクション作品は、ものすごく乱暴な言い方をすれば、「新しいフィクションのかたち」を作ることを目指している。
例えば、メタフィクションの手法により、フィクションのフィクション性を揺さぶることでリアル(現実)のフィクション性すらも揺さぶろうとする、というような。
しかし、ある作品が高度で完成度の高いメタフィクションであればあるほど、結局は「全部作者のてのひらの上じゃん」感が出てしまう。
メタフィクションが、新しいフィクションになるのではなく、むしろフィクションのフィクション性を高めてしまっているのではないか。
そこで著者が提唱するのが「パラフィクション」という概念。
メタフィクションは、フィクションがフィクションであることに自己言及する。
それに対しパラフィクションは「読者が読むこと」に言及する。
パラフィクションは全くの新しい概念というわけではなく、既存のメタフィクションの中から枝分かれして派生してきたジャンルであるという。その代表的な作家として著者は円城塔の名を挙げている。
「あなたは今この文章を読んでいる」という文章は、パラフィクションの最小の形のひとつだ。
読み手がこの文章を読むことによって、初めてこの文章は真となる。考え方によってはとても不可思議な性質を持った文章だ。
あるいは「README」という文章。
ソフトウェアの説明書となるテキストファイルのタイトルとして使われる英文だが、あえてこの一文だけを取り出して「この文(READMEという文そのもの)を読みなさい」と解釈することもできる。
しかしREADMEという文を認識した時点で、読み手はすでにこの文章を読み終わっている。ある意味では、絶対に遂行されることのない命令文である、とも言える。
で、正直に言うと自分はまだパラフィクションが持つ意味や可能性についてハッキリと理解できてはいない。
まず「パラフィクションは読者に言及するタイプのフィクション」という自分の認識がどの程度正しいのか。
本書後半の『屍者の帝国』の批評を踏まえると、「読み手が書き手であり書き手が読み手であるような小説」「書き手が書き手なのかどうかがわからなくなるような小説」がパラフィクションなのだろうか、とも思える。
例えば自分がプレイしたゲームの中には、ハッキリとプレイヤーを物語に巻き込もうとするタイプのゲームがあるが(ネタバレ防止のためにSteamのリンクだけ貼るとこれとかこれとかこれとか。すべていわゆるインディーゲーム、かつ「圧倒的に好評」なのが印象的)、それらはパラフィクションに含まれるのか。
それらがパラフィクションだとして、具体的に既存のメタフィクションとどのような違いがあるのか。
ゲームはパラフィクションに適した媒体であるようにも思える(受け手が能動的に干渉するインタラクティブなメディアだから)が、一方で上記のような作品は、本書の8章で例示された二人称小説のような「よくできたメタフィクション」でしかないようにも思える。
といった部分がまだよくわかっていない。
本書でパラフィクションの書き手とされる円城塔の小説が苦手で読んでこなかったこともあるだろうか。
伊藤計劃は読んできたけど、正直それも「メタルギアファンだから」っていうのが大きいし。
そんな自分が感じるのは、パラフィクションは、冒頭で書いたような、そもそも書くとは能動的な行為なのかどうか、というような問題にも通じている気がする、ということ。
その発想も多分『中動態の世界 / 國分功一郎』が元ネタだとは思う。オレってニワカ本読みだなぁ、と思わざるを得ないが事実なんだからしょうがない。
本書を読んでいるときも「こういう専門的な本を沢山読んで勉強しておけばよかったなぁ」としみじみと思った。いつも思っている。
テーマの性質上、議論の中心が抽象的であり、ポンコツな自分の読解力ではただ抽象的だというだけでも読むのに苦しんだが、議論そのものはそれほど難解ではない、ということはおぼろげながらわかった。
ともあれ、佐々木敦の本を読みたいという気持ちは継続しているので、今後も読んでいきたい。
著者はこの本の後もパラフィクションに関連のありそうな本を数冊書いているのでそちらも読んで理解を深めたい。
また本書が提唱したパラフィクションの概念に触発されて筒井康隆が書いた小説が『モナドの領域』であるとのこと。読まねば。