- 作者: 加藤典洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/08/26
- メディア: 単行本
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村上春樹の作風について、「デタッチメントとコミットメント」という言葉がよく用いられるが、村上作品には、物語へのコミットメントと世界(社会)へのコミットメントという、二つの異なるコミットメントが存在し、その二つが混同されている、というような話からこの本は始まる。
そして、村上春樹の短編作品を発表時期によって四区分に分類し、順に追うことで、彼の作品の、ひいては彼自身の、物語や世界に対する態度がどのように変化していったかを、丁寧に、かつ、時には想像力の翼を大きく広げることを恐れずに、分析していく。
面白いのは、いきなり冒頭のほうで、著者の以前の村上作品批評(『ねじまき鳥クロニクル』の井戸に水がわき出す場面)を引き、そこに間違いが含まれていたことを認め、自分の解釈がなぜ・どのように間違っていたのかという話を、著者が語るところ。自分の間違いを素直に認めるのは難しい。まして文芸評論という学問的な仕事を生業としている著者がそれをするのは並大抵のことではないと思う。
読み進めていくと、ちょっとそこはこじつけなんじゃないか、とか、偶然なんじゃないの?と思うこともある。そもそも「小説の変化から、村上春樹という個人の変化を読み解く」といったおもむきが強く、そういうのって、なんだか理に落ちすぎているようにも感じられる。
そんなこの本を、村上春樹批評という文脈の中で、あるいは文学史的に、どのように位置づければいいのだろうか、ということをほんの少し考えた。
でも、そんなことが一介の本読みであるワタクシにわかるハズがない、ということにすぐ気づいた。二秒で気づいた。
なので、そういった小難しい話については他を当たってください。よろしくお願いします。開き直り。
で、その上で各論を読んでいくと、今まで気づかなかった発見がザクザク出てくる。ほんとにすごい。
一応自分は、二シリーズある「村上春樹全作品」全巻と、それ以降に発表された小説全てを読んでいるのだが、さすが文芸批評家は目のつけどころが違う。当たり前だ。
例えば、『沈黙』と『七番目の男』という作品に類似点があり、その違いによって村上春樹自身の変化がわかることだとか、さらにその『沈黙』の主人公の名字と『品川猿』の主人公の旧姓がどちらも「大沢」で、やはり二つの作品の間に関連性が見られることだとか。
この本を読むと、最初は手探りで小説を書き始めた村上春樹が、いかにして出会い、いかにしてつまづき、いかにして別れ、そして現在の位置にたどり着いたのか、という軌跡を、まざまざと見せつけられたような気持ちになる。いわば一種の成長潭である。上で書いた通り、「そういうのって批評としてどうなん?」という向きもあるだろうが。
でも少なくとも、僕はものすごく感動した。本当に感動した。それを文章で伝えきれない自分の拙劣さを恨めしく思うくらいに。自分自身の生きかたを改めようと思うくらいに。
それから、著者の加藤典洋が長編小説について論じた本は『村上春樹 イエローページ』として既刊である。次はこちらを読んでみる。
- 作者: 加藤典洋
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2006/08
- メディア: 文庫
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