rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

慈悲をめぐる心象スケッチ / 玄侑宗久

慈悲をめぐる心象スケッチ

慈悲をめぐる心象スケッチ

 大学に入ってから、本格的に読書を始めたころに、よく宮沢賢治の小説を読んでいた。でもその後すぐにほとんど読まなくなった。他の本を読むようになってから、なんだか童話っぽいな、とか、宗教じみてるな、とか、そういうところが目につくようになったから。

 この本は、小説家で禅宗の僧侶でもある玄侑宗久が、宮沢賢治の足跡を追い、主に宗教家としての彼の側面にスポットライトを当てながら、彼の生涯を描こうという、エッセイであり、ドキュメンタリーでもあるような本である。

 慈悲という言葉は、元々仏教用語だ。慈・悲・喜・捨という四つの心のありようを「四無量心」といい、この四つの方向に心を拡大していくべきだと、仏陀は説いたのだという。

 実際の仏教における「慈悲」という言葉の厳密な意味は僕にはわからないが、日常の中でも慈悲という言葉は結構使われる。慈悲深い人、だとか。無慈悲な鉄槌、とか。

 意味としては、「優しさを持って他者を受け入れること」といったところだろうか。


 法華経の教えを深く信仰していた賢治だったが、彼の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という、いわば積極的・能動的慈悲のような思想は、仏教の教えの範疇を超えるほどの理想主義だった、と著者は言う。

 そのような高邁な理想が、彼自身の身を滅ぼし、また同時に彼の作品に多くの人を惹きつける魅力を与えているのだろう。

 自己犠牲とはけっして目指してはいけないことなのである。慈悲とはどんな外的な活動にも属さず、超感性的活動すなわち瞑想に属するのだと、『増支部経典』五にも書いてある。

 それでもたぶん、自己犠牲を愛の極地、慈悲の究極と見る人々は今でもいるだろう。しかし仏教における慈悲は、そういうものではないのである。少なくともお釈迦さま自身は、そんなことを勧めはしなかった。「慈・悲・喜・捨」という四つの方向に自分の心を拡大させていく瞑想を、とにかく進めていたのだ。

 このように筆者は語る。常に自己犠牲の精神を持ち続けていた賢治は、仏教徒としては正統では無かったのかもしれないが、彼が後の人々に愛されるようになったのは、間違いなく彼の自己犠牲性のゆえだろう。なんとなく、イエス・キリストが崇拝されるに至った経緯を連想させなくもない。

 賢治が送った手紙や、親族の方々の話から、生前の賢治に迫ろうとする筆者の眼差しは、常に冷静で、時に誤解を恐れず冒険的だ。そこから浮かび上がる賢治の姿は、理想家であり、夢想家でもある、近くにいたらちょっと迷惑かもしれないが、稀有な人であるように見える。

岡崎に捧ぐ / 山本さほ

岡崎に捧ぐ(1) (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ(1) (コミックス単行本)

 自伝的ギャグマンガ。作者が女性ということで「ちびまる子ちゃん」が引き合いに出されることが多いらしいが、ゲーム描写が多いので、個人的には押切蓮介の「ハイスコアガール」や「ピコピコ少年」を連想した。

 紙面に漂う雰囲気は底抜けに明るく、躁的と言っていいほど痛快なギャグが連発する。「明日はどんな楽しいことがあるだろう」という子ども特有のワクワク感がみなぎっている。月並みな言い方だが、センス、と呼ぶしかないようなものが溢れている。

 しかもただ明るいだけでなく、人生の暗い部分にも目を配る観察眼を、作者は持っている。思い返してみれば、自分が小学生だった頃にも、家庭に問題があったり、性格に少々難がある子どもが周りにいた。高校生になって、生徒がある程度学力で選別されるようになったとき、はじめて彼らが「ちょっと変」だということに気づいたものである。

 そんな「ちょっと変」だったり「だいぶ変」だったりする人たちを、同じ躁的なテンポでギャグにしている。出来ている、と言った方がいいだろうか。

 いったいどうしてそんなことが可能なのだろうか?

 それはおそらく、作者がTwitterで連載している「ひまつぶしまんがvol.21」の言葉を借りるならば、彼女が良い意味で「ずーずーしい」からではないかと思う。他人のフトコロに飛び込んでケロッと笑える明るさを、根幹的なパーソナリティとして有しているからではないかと思う。多分。あくまでも、マンガを読んで受けた印象だけれども。

 スーパーファミコンやたまごっちなど、当時流行っていたものがぞくぞく登場するのも、同世代としてはたまらない。読んでいるだけで、忘れていたあのころの思い出が蘇ってくる。トイレにこもってポケモン緑をやっていたら、母親にゲームボーイポケットを隠されたこと。金色のビーダマンでカーブショットを打ったこと。うっかり水着のポケットにデジモンを入れたままプールに飛び込んでダメにしまったこと。などなど。

 昔の人にとっては、ベーゴマや、めんこや、スーパーカーや、ウルトラマンなどが、「記憶を呼び起こしてくれるタイムカプセル」だったのだろうが、ぼくらにとってはそれがファイナルファンタジーだったり、バトルエンピツだったりする、ということを、改めてわからせてくれる。それだけ年をとった、ということでもあるけれど。

 少し気になるのは、そのような「同世代あるある」に、「インターネット感」が出てしまっているという点だろうか。どういうことか。

 我々の世代は、10台の頃からインターネットというものに触れている。そしてインターネットの掲示板などでは、「あの頃あんなおもちゃがあったよね」というような懐かしネタが、幾度と無く語られ尽くしている。その結果、ネタとして洗練され定番化して共通認識と化し、個人の記憶としてあったはずの微妙なニュアンスが失われてしまうのである。

 これはなにも作者ひとりの問題というわけではなく、インターネット以降の世代に共通した話なのではないかと思う。実際、作者の観察眼そのものは(聖剣伝説2のコンピュータのダッシュに着眼するあたり)かなり優れているのであって。


 まぁいずれにせよ、本作がギャグとノスタルジーのハイレベルなミクスチャー(カタカナ使いすぎ)であることは論を俟たない。「note」で三話まで無料で読めるので、まずはぜひ読んでいただきたい。悪魔的に面白いですから。

note.mu

動物記 / 高橋源一郎

動物記

動物記

 動物記、というと、大抵の人は「シートン動物記」のことが思い浮かぶのだろうか。正直に言うとぼくは、読み終わってからGoogleで「動物記」と調べるまで、そのことに気付かなかった。無教養な男である。

シートン動物記 (子どものための世界文学の森 19)

シートン動物記 (子どものための世界文学の森 19)

 高橋源一郎が書いたものをずっと読んでいるので、本書に収められた短編小説の「元ネタ」っぽいものはある程度わかる。

 例えば「家庭の事情」に登場する「ふつう」の人々(人が動物に置き換えられているわけだが)の「ふつう」の思考と暮らしは、「あの戦争からこの戦争へ」の評論などで取り上げていた、橋本治の小説を思い起こさせる。

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

www.mammo.tv

 「そして、いつの日か」の主人公である、柴犬のタツノスケは、明らかに二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)をモデルとして書かれている。高橋源一郎は「日本文学盛衰史」や「官能小説家」の中で、二葉亭四迷ら文学者が活躍した明治期を、虚実ないまぜに書いている。

 「文章教室1」の中で登場する短歌は、ほぼ全てが、穂村弘が「短歌の友人(高橋源一郎が文庫版の解説を書いている)」の中で取り上げたものを、動物に置き換えたものだ。例えば、

たくさんのメスのペンギンがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう

は、

たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう   今橋愛

 のもじりであろう。

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 「文章教室2」の中で、アフリカゾウが書いた文章を、真木蔵人のようだと評しているが、「国民のコトバ」という本の中で高橋源一郎は、真木蔵人が書いた文章を激賞している。同じ短編で出てくるベニクラゲの絵手紙は、武者小路実篤が晩年に書いたものだ。

国民のコトバ

国民のコトバ

 このような「元ネタ探し」にどれほどの意味があるかは分からないが、事実の指摘として、ここに書き留めておくことにする。


 本書に収められた短篇集には、そのいずれにも、なんらかの形で動物が登場する。なぜ、動物なのだろう?

 一般的に動物は、「自意識」と呼ぶべきものを持っていないとされている。自意識が無いというのは、もっと平たく言えば、自他の区別が曖昧だ、ということだ。実際のところは、動物とは言葉が通じないので、わからないわけだが、少なくとも我々人間には、そのように見える。

 一方、ほとんどの人間は自意識を持っている(らしい)ので、自分は他人とは違う、固有の名前を持った固有の人間であり、生まれて死ぬまで同一存在であると考えている。

 しかし、動物は、そんなことを考えずに生きている(ように見える)。そんなんで生きていけるのだろうか?と、人間であるぼくなんかは思ってしまうが、もちろん生きていける。自意識などというものは、ただ生きるだけならば、ぜんぜん不要なものだからだ。

 自意識を獲得した人間は、肉体的には弱いが、道具を使うことで、自然を、動物を、支配してきた。その観点から言えば、人間は強く、動物は弱い。つまり、人間は「ことばを持った強者」であり、動物は「ことばを持たない弱者」である、と言える。

 しかし、あえて考えなくてもわかることだが、人間の中にも、「ことばを持った強者」と「ことばを持たない弱者」がいる。というよりも、人は弱者になることで、ことばを奪われてしまうものだ。

 「ことばを持たない動物」を「ことばを持たない人」になぞらえるために、高橋源一郎はこれらの小説を書いたのかもしれない。そう考えると、文学者や主婦を「動物化」させた理由がわかる。少々安直な読み方かもしれないが。


 動物はことばを持たない、と書いたが、これは正確ではなかったかもしれない。

 動物もまた、ことばを持っている。しかし我々人間には、動物たちのことばを聞き取ることができない。なぜなら、聞き取ろうという努力をしないから。 ことばを聞き取ろうという努力をしなければ、たとえ相手が動物であっても人間であっても、ことばを聞き取ることはできない。

 というよりも、「ことば」ということばの定義に、動物たちが使っている「ことば」を、含めていない。それでは聞き取れるはずがない。

 「ことば」ということばの定義に含まれないことばは、ことばではないのではないか? と思うかもしれないが、それこそが人間の驕りなのではないか、とぼくなんかは思うのである。


 「動物=弱者」説が正しいと仮定した上で、表題作である「動物記」を読むと、あたかも著者自身の懺悔であるかのように見えてくる。

 わたしが動物の世話をできないのは、彼らがなにを考えているのかわからないからなのかもしれない。動物の世話ができる人間は、彼らの考えや、なにを感じているのかがわかるのだろうか。わかったような気がするのだろうか。わからなくとも気にならないのだろうか。

 そもそも、強いものが弱いもののことばに耳を傾けることが、本当に可能なのか? 意味があるのか? その答えは誰にもわからない。誰も保証してくれない。

 ひとりの人間にできることは、ただ、あらゆる声に耳を傾けようと努めることだけなのかもしれない。それさえも、無意味で不可能なことなのかもしれない。

 それでも、「聞こえない声が存在すること」を指し示すという行為は、可能であるし、何かしらの意味があるのではないかと思いたい。

 ほらね! ほらね! ほらね! 私の言った通りだろ! 人間の中でも、子どもたちはわかってるんだ! あらゆる生き物がことばを持っていることを! 

紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす / 武田砂鉄

紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす

紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす

 どうにも、読むのがしんどかった。でも、結局全部読んでしまった。

 そして今、この本について書くのもしんどい。それでも書きたい。なぜこの本が、しんどくて、面白いのかを。


 紋切型の言葉にはどんなものがあるだろうか?

 と、あらためて考えるまでもなく、世の中には紋切り型の言葉があふれている。「遺憾の意」とか。「今後のご活躍をお祈りしております」とか。

 紋切り型の言葉を使うことには、コミュニケーションをスムーズにする、というような、正の面もある。

 しかし、今の日本には、紋切り型の言葉を、思考を放棄するため、あるいは思考を放棄させるために使っているような場面が、あまりに多すぎるのではないだろうか?

 というのが本書の問題提起である。


 批評、というより、単なる悪口や皮肉ではないか、と思いたくなるような話も出てくる。だから読むとぐったりしてくる。

 しかしその悪口や皮肉は、誰かを攻撃するためのものではなく、世の中の間違ったことを、「それは間違っている」と指摘するための、必要悪であるように思えて、だからこそ最後まで読む必要があるな、と感じて、最後まで読んだのだった。

 間違っていることを間違っていると指摘すると、白い目で見られる、ということは、時代を問わずに常にあることだ。戦争反対と口に出しただけで社会的に抹殺されてしまうような時代があり、その後で、戦争反対と言わなければ社会的に認めてもらえないような時代があったりした。

 誰だって本当は、間違ったことなんかしたくない。でも一歩世間に出れば、みんなが「正しい」と言うことが正しいことだ、というような、根拠も理屈も議論も無い「正しさ」が、様々な場面に現れる。

 そんな根拠無き「正しさ」に向き合い、裸の王様に「裸だ」と言い、しかも己が無事でいるためには、高度な知性と勇気が必要となる。本書の著者には、その両方が備わっているように見える。

夏目漱石、読んじゃえば? / 奥泉光

夏目漱石、読んじゃえば? (14歳の世渡り術)

夏目漱石、読んじゃえば? (14歳の世渡り術)

 小説は、自由に読んでいい。自由といっても、裸で読むとか、富士山頂を逆立ち歩きしながら読むとか、そういう意味での自由では無い。それではただの変人である。まぁ、変人でもいいんだけど。のっけからぼくはなにを言っているのだろう。

 小説は、途中から読んでもいいし、最後のページから読んでもいい。1ページだけをずっと眺めていてもいいし、物語を無視して文章だけを楽しんでもいい。誰も怒らないし誰も咎めない。本人が楽しければそれでいいのである。

 しかし自由に読むためには、「小説とはこう読むものである」という固定観念が存在する、ということを知らなければならない。己を縛る鎖を引き千切るためには、鎖の硬さや形状を知らなければならないのと同じように。

 本書「夏目漱石、読んじゃえば?」は、夏目漱石の小説を通して、多くの人が小説というものに対して抱いている固定観念について、そしてその固定観念から自由になる方法について書いている。

 「吾輩は猫である」は全部読まなくてもいい、とか、「坊っちゃん」は暗いヤツだ、とか、「こころ」は傑作だと思わなくていい、というように、普通の人が「夏目漱石」あるいは「文学」というときに想像するのとは、ちょっと違うことが書かれている。しかしそれらは、小説そのものを虚心坦懐に読めば、誰にでもわかることだったりもする。

 普通の人は、夏目漱石を、あるいは文学を、難しくて高尚なものだと思っている。本当は、文学にだって色々ある。笑えるものもあれば、泣けるものだってある。面白がって興味を持って読めばいいのだ。勉強などと難しいことは考えずに。

 そういうことを、14歳でもわかるように易しく書いてあるこの本は、子どもだけでなく、大人が読んでも面白く興味深い。漱石、読んじゃえば?

 そして小説は、人生を通じて読み続けることで、人生に深みや彩りをもたらしてくれる、こともある。お気に入りの音楽や、履き慣れた革靴のように。

 奥泉光は小学生の頃から現在まで、ずーっと夏目漱石を読み続けているそうだが、ぼくにも、折に触れて読み返したくなる小説がある。例えば「こころ」や「ノルウェイの森」とか。ベタ過ぎるけども、好きなんだからしょうがない。

rhbiyori.hatenablog.jp

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 「小説は人生の役に立つか。それはわかりません。けれども、人生は小説を面白く読むのに役に立つ。」と、著者は言う。

 ぼくがそこになにか付け加えるとするなら、「小説のある人生は、小説の無い人生よりもずっと深く豊かなものだ」といったところだろうか。ちょっと青臭いだろうか。

人のセックスを笑うな / 山崎ナオコーラ

 高橋源一郎の『デビュー作を書くための超「小説」教室 』という本を読んだ。彼が考える「小説の書き方」と、小説新人賞の選考委員として書いた選評をまとめた本だ。

デビュー作を書くための超「小説」教室

デビュー作を書くための超「小説」教室

 その中の文藝賞の選評で「人のセックスを笑うな」を絶賛しており、文庫版の解説も書いている。

 あの高橋源一郎が絶賛するほど面白いなら読んでみよう、と思って、読んだ。読んだら、面白かった。それも、この上なく。

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

 19歳の美術専門学校生の男「みるめ」と、その学校の講師である39歳の女「ユリ」。その二人の恋愛。そういう話である。

 恋が生まれて、育って、終わる。その過程を、みるめの目線で書いている。

 若い男ならではの、純粋さ、背伸び感、わがままさ、思いやり、そんなようなものが、ごくシンプルに、しかしありえないほどのリアリティで書かれている。こんな本は、読んだことがない。

 こういうことを言うのは恥ずかしいのだが、っていう前置きそのものが更に恥ずかしさを増長させてしまっているのだがそれはいいとして、自分が恋をしていたときの気持ちの一部が、この本によって世間にさらけ出さてしまっているような、そんな怖さにも似た心地よさがある。

 あのころのぼくの気持ちが書かれている、というより、この本を読むことによって、あのころ自分はこんなことを考えていたんだ、ということを初めて認識できた、という感じがする。



 ユリには「猪熊さん」という夫がいる。だからみるめとの関係はいわゆる不倫なのだが、不倫ということばが持つような不健全な雰囲気は、二人には無い。

 当たり前のことだが、たとえ結婚した人でも、恋に落ちることはある。恋をする権利がある。

 しかしだからと言って全てが許されるわけではない。配偶者が他の人と逢瀬をしているのを黙って見過ごせる人は少ないし、なによりやっている本人が辛くなる。なぜかはわからないけれど、そういうことになっている。



 みるめとユリが求めていたのは、肉体的な触れ合いであり、精神的な触れ合いでもあった。そして二人は一時的にであれ、それを手に入れた。

 ではなぜ二人は別れねばならなかったのか?まぁそれはこの小説を読めばわかることだし、それをあえてことばにして言うのは野暮なことなのだが、今のぼくはそれをことばにしておきたいような気分なのである。

 人には、「人として社会の中で生きるモード」と、「触れ合いたいモード」の二つがあり、その二つのモードの狭間を行ったり戻ったりしながら暮らしている。

 二人の関係は、後者のモードに近いものであり、だからこそ、美術専門学校の講師と生徒の関係であるにもかかわらず、二人は前者のモードに属するような、美術についての話をほとんどしなかったのではないだろうか。

 二つのモードのどちらが本能的であるかとか、どちらがより重要だとか、そういう問題ではなく、生きる上では二つのモードのバランスをとることが必要なことなのだろう。

 ユリは、後者のモードでみるめに惹かれたものの、このままではバランスがとれなくなる、と思ったので別れることを選んだのだ。彼女の決断は、ぼくにはとても自然なものであるように思えた。彼女には、そのような決断を下す権利があると思った。

 しかし、読む人によっては彼女が自分勝手に見えるかもしれない。ストーリーだけを追えば、「若い男をたぶらかして捨てた」と言ってしまえなくもない。

 それでもぼくが二人の関係を肯定したいと思うのは、二人の間に確かな心の通じ合いがあり、二人それぞれを優しく見守る周りの人がいることで、そこに、祝福、とでも呼ぶべき奇跡的な空間が生まれているからだ。



 恋が終わっても、人生は続く。「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」とみるめが言うように。

 出会いは甘く、別れは辛いが、いい出会いといい別れは、人生にある種の暖かみのようなものを残してくれるだろう。そんな風に思わせてくれる小説だった。

ぼくらの民主主義なんだぜ / 高橋源一郎

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

 この本の帯には「日本人に民主主義はムリなのか?絶望しないための48か条」と書かれている。

 でも、正直に言うとぼくは、この本を読んで、結構、絶望的な気分になった。

 強いものが、弱いものを押しつぶす。持つものが、持たざるものから、奪い続ける。そのような傾向が、日本中で、あるいは世界中で、どんどん広がっているのではないか。前々から感じていたことだが、この本を読んで、さらにその思いを強くしたからである。

 やっかいなのは、そのような傾向を、我々の多くが自覚しており、にも関わらず、誰もそれを止められずにいる、ということなのではないだろうか。

 原発が東京ではなく地方に置かれているのも、あれほど狭い沖縄にあれほど大きな基地があるのも、ブラック企業が存在するのも、大学生さえブラックバイトに酷使されているのも、いずれも弱者に負担を押し付けているという共通構造を持っている。なのにその構造は、今この瞬間にも新しく生まれ続けている。

 なぜ弱者が搾取され続けるのか。それは、我々一人ひとりが、産まれた瞬間から、「搾取すること」に慣らされてしまっているからではないか?電車に乗ったり、車に乗ったり、ピカピカのランドセルを背負って学校に通ったり、発展途上国で生産された安い服を着たり、発展途上国で生産されたパソコンと原発で発電された電気を使ってブログを書いたりすることによって。

 このまま世界は弱者切り捨て型の、殺伐とした社会へと突き進んでいってしまうのだろうか。我々にできることはもはや何も残されていないのだろうか。神は死んだのか。愛は死にますか?ホワイ・ジャパニーズ・ピーポー!?


 と、ひとしきり絶望したらスッキリしたので、本書の紹介に移ろうかと思う。

 本書は、作家の高橋源一郎が朝日新聞紙上に連載していた「論壇時評」を一冊にまとめたものである。

 内容はいずれもいわゆる「政治的」なテーマを扱っている。しかしその語り口は(この国で政治を語るときにありがちな)対立相手を貶めるためのむやみに攻撃的なものではなく、平易で、穏やかで、自分が見たものをそのまま指し示すような、ごく自然なものである。

 その語り口はぼくに、「非暴力主義」ということばを連想させた。

rhbiyori.hatenablog.jp

 以前も書いたとおり、「非暴力主義」とは、暴力に対してなすがままの無抵抗を決め込むことではない。

 むしろ非暴力主義とは、暴力以外の、なんらかの具体的な行動によって、人々の心を動かし世の中を変えていこうという、アクティブでアクチュアルな(って使い方あってる?)考え方のことなのだ。

 本書の中には、「こうしないと世の中はダメになるよ」というような脅しのことばや「こうすれば絶対にうまくいく」というようなことばは出てこない。そのようなことばは、言葉で直接的に他人を動かそうとしている、という点で、暴力性をはらんでいると言えると思う。

 暴力的なことばは、一時的には有効かもしれないが、ずっと続けていく内に暴力性だけが増していき、暴力性によって他人を動かすことだけが目的化していき、やがて本来の目的を忘れた単なる暴力の応酬になってしまうのではないか、という気がする。社会の仕組みや歴史なんかを見ていると。

 では、真っ当なやり方で人を動かすためにはどうすればいいか。

 それはやはり、真実を、ありのままの形で、押し付けることなしに、伝える、ということなのではないかと思う。

 100パーセントの真実を知ることは難しいとしても、少しでも真実に近いと思うことを伝えて、知ってもらって、その上で人の心が動くのを待つ。それがことばによる「非暴力主義」であり、高橋源一郎が目指しているものではないか。本書を読んで、ぼくはそう感じた。

 そのようなやり方は、とても時間がかかるし、非効率的だ。

 それでも高橋源一郎が「ことばの非暴力主義」を貫くのは、暴力によって人を動かしたり人を歪めることはできても、人を育み、希望を育むことはできないから、ではないだろうか。

 希望は、人が自らの手で作り、育てていかなければならないものだ。希望は、他人から奪い取るものではないし、国家や政府が与えてくれるものでもない。

 この本も、希望を「与えてくれる」というようなものではない。もし希望が生まれる方途があるとしたら、この本から希望を「見出す」というやり方によってであろう。ぼくや、あなたが。