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還暦からの電脳事始 / 高橋源一郎

 iPad欲しい。

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 と、このような無意味な羅列を簡単にできるのも、それをやっても「紙の無駄だ!」と怒られたりしないのも、全ては電脳(デジタル)のおかげである。いい時代だなぁ。

 この本は、小説家の高橋源一郎が、還暦を超えてからiPadを買ったという事件から始まる、インターネットやデジタルデバイスについてのエッセイをまとめたものだ。

還暦からの電脳事始(デジタルことはじめ)

還暦からの電脳事始(デジタルことはじめ)

 昔はそこそこデジタルに詳しかったものの近年はすっかりご無沙汰になっていた高橋源一郎がiPadを使い始めたのキッカケは、小学生の息子が誰に教わることもなくiPadを使いこなしていることに衝撃を受けたことだという。要するにスティーブ・ジョブズのおかげ、である。全然「要」せていない。

 小説は難解でエッセイは平易、というのが僕の高橋源一郎に対する印象なのだが、この本は他のエッセイよりもさらに読みやすい。なんでも、全てのエッセイがiPadを使って書かれたものらしい。書くツールによって文体が変わった、というよりも、iPadというツールの雰囲気を伝えるためにこのような文体を採用したのではないか、と感じた。あとiPad欲しい。



 黎明期にバッシングを受ける、というのは新しいメディアの宿命であり、古くは小説、さらにはテレビ、マンガ、ゲームなどが槍玉に挙げられてきた。インターネットも2000年ごろまではバスジャック事件なんかの影響もあって暗いイメージがあったが、『電車男』のあたりからすっかり表沙汰になり*1、今ではインターネットのない生活は考えられない、というくらい社会に浸透してしまっている。

 インターネットが人々にもたらした影響について改めて考えてみると、文字通り計り知れないくらいの、計測不可能な変化があったんじゃないか、という気がしてくる。人類にとってのコミュニケーションというものを根底から変えてしまうような変化が。

 ただよくよく考えてみると、インターネット上で日々やりとりされている情報そのものは、それほど新奇なものではないのかもしれない。文字のやりとりでは手紙があったし、音声、映像は電話やテレビと同じだ。そもそも数万年前から人類は壁画を描いて非対面のコミュニケーションをしてきたことを考えれば、人間のやることなんて、それほど変わりゃしないのかもしれない。

 ではインターネットの特異な点がどこにあるかと言えば、情報を、ただ送るだけでなく、ある個人や団体が、大量に、多数の対象に、瞬時に情報を送ったり受け取ったりできるようになった、というところだろう。情報のパイプが太く、速く、網目状になったわけだ。

 各個が大量の情報を送受信できるということは、新聞やテレビやそれ以上のことを各個ができるようになり、ひいては新たな自由がもたらされるだろう、というような希望的観測がなされていたのは「IT革命」とか「Web2.0」なんて言葉がまことしやかに喧伝されていた頃のことだろうか。現実はといえば、SNSでくだらないやりとりばかりしていたり、デジタル機器のせいでむしろ仕事が過密になったりと、ろくなことが無いようにみえる。高橋源一郎の息子さんはiPadで「妖怪ウォッチ」や「ひろしの日記*2」ばかり見ているそうである。

 正論を言えば、あらゆる道具がそうであるように、インターネットだってちゃんとした人が使えば世の中をよくすることができることは間違いない。

 それは例えば「スーパーマリオ」に出てくるクリボーの生涯を描いた海外の二次創作アニメや、人々がメチャクチャにに踊りまくるだけの動画「ハーレムシェイク」のような、一見無意味なエンターテイメントという形のものかもしれない。でも、自由な世の中というのは、そのような多様な表現を許せるような世の中のことなのだろう。ってちょっと一般論過ぎるか。まぁいいか。



 パロディ、ナンセンス、○○○○(自主規制)と、インターネットがなんでもありだった時代はとうに過ぎて、いまやちょっと反社会的なことやっただけでそれが拡散されて「バカッター」などと言われて、社会的信用を失ったりする。いや、反社会的なことをするのはいけないことだし、実名でそれをネットに上げるのが愚行であることも間違いない。ただ僕は単純に「そういう時代になっていしまったんだなぁ」と時勢の移り変わりに思いを馳せてしまうのである。古参アピールか?そうかもしれない。

 ネットに実名を出してバカなことをする。それは端的に愚かなことである。でも、当事者同士でバカなことに対してなんらかの対応を取れば済む話で、その行為を第三者がネットでむやみに拡散するという行為には、なんの必然性も無い。拡散している人たちのほとんどは、「面白おかしく」やっているのであって、それではイジメと同じだ。

 一方で、子どもにiPadを渡せば、誰に教えられることもなく、ひとりでに使用方法をマスターしてしまう。そのありさまは、同調圧力によるイジメや、権力による体罰とは対局にあるものなのではないか、と高橋源一郎は書いている。

 ぶ厚い取扱説明書のないこのマシンは、子どもだって一人で、直感的に動かし方を学ぶことができる。竹刀を持った教師が、子どもたちを恫喝しながら、iPadの操作方法を教えてる……なんて想像できない。

 デジタルそのものが自由、というわけではないとしても、デジタルが自由の契機になることがある、という可能性を見ているのだろう。僕も、そのようであって欲しいと思う。人がデジタルによって支配されるのではなく、デジタルが人に自由をもたらすような世の中であって欲しいと思う。あとiPad欲しい。

*1:あんまり関係ないけど高橋源一郎が電車男の書評を書いていたのを見つけた。asahi.com: 電車男 [著]中野独人 - 書評 - BOOK

*2:「うごくメモ帳」の人気作品らしい。詳細は僕もよく知らない。