安部公房の小説。第一印象だけで言うならば、やや読むのが苦痛な小説ではあった。あまり必要性の無い冗長なシーンが多かったように感じた。
しかし最後まで読み通すことで、相応の深みや重みを感じた。人間の実に嫌な面。そして結末に向けて集約されていく因縁。そういったものを描いて印象深い小説だった。
「もぐら」を自称する男は、採石場の跡地である洞窟を核戦争から生き延びるための「方舟」と称し、シェルター化している。
方舟の乗組員としてデパートの見本市で出会った「昆虫屋」、その「サクラ」と連れの「女」を(半ば偶然的な形で)勧誘するところから物語は始まる。
小説発表当時の昭和59年(1984年)は東西冷戦下。核戦争の脅威が今よりもずっと庶民的なものだったらしい。
しかしだからもぐらが本心から核戦争の危機に備えていたかというと、それは限りなく怪しく見える。彼は違法な化学物質や動物の死体などを、採掘場にある便器に流す仕事を秘密裏に行って生計を立てている。要するに不法投棄である。ならず者の昆虫屋やサクラの目的も、方舟を隠れ家として利用することにあると見える。
そのことを仲間の誰もが半ば公然に認めつつ、同時にあくまで「核シェルター」という体裁を保ち続ける。傍から(読者から)見れば自己欺瞞であり、端的に言ってちょっとイカれた人たち、少なくともはみ出し者であることは間違いない。時に滑稽ですらある。
じゃあ今現実に生きている我々がそのような二重の見解、見当識を持っていないか、というとそんなことはない。明日死ぬかもしれないのにそのことを忘れて生きている。なのに賞味期限が切れた納豆をおっかなびっくり食べたりしている。だから本作の登場人物の滑稽さは読者自身にも返ってくるものだ。
もぐらの数々の「童貞ムーブ」も同様で、口では大層なことを言うくせにその妄想はエロ漫画(当時の言葉で言えば「ポルノ」だろうか)じみていて、そのギャップが良い意味での小説的「嫌さ」を産んでいる。
女は女で、おそらくならず者としての処世術としてもぐらの童貞心を刺激する。現代エンタメ作品では有り得ないキャラ造形だが、おそらく「昭和だから許された」というようなものでもないと思われる。嫌だなぁ、この人たち。
ユープケッチャという昆虫(昆虫屋が商売のためにでっちあげたと思しき)の称揚には、もぐら自身の自足的な生への憧れ、シェルターというものへの憧れがにじみ出ている。
それらのことが明らかになるのが終盤での「副官」との対面。もぐらが持つ固執をより肥大化させ(生存者の選別、女子中学生狩り)、実際的にし(「ほうき隊」という実働的組織)、前時代的にした(軍人的なふるまい)ような存在。それが副官だ。
方舟という閉鎖空間の中で、副官という己の鏡像と出会ったもぐらは、そこから脱出しようとする。なんだか神話的だ。自分は村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を想起した。
あるいは『箱男』や『砂の女』など「閉じこもっていく物語」を描いてきた著者からすれば、今までにない新たな方向性だったのかもしれない。安部公房はあまり追っていないからわからないけれども。
「方舟さくら丸」という、日本を象徴する花のさくらを冠したタイトルには「日本版ノアの箱舟」といった響きがある。
しかし実際は「もしサクラ(登場人物)がリーダーになったらこの船は『方舟さくら丸』になるだろう」という話題としてチラッと出るだけで、読者は肩透かしを食らった気分になるかもしれない。その肩透かしも読後は登場人物たちの自己欺瞞にふさわしいものに見えてくる。
さくら(花)とサクラ(客のふりをして買い物し、他の客を誘導する)をダブルミーニングにしたあたりに、作者の日本的なものへの当てこすりのも感じられる。「オリンピック阻止同盟」なるものも登場してくるし。あるいは当初はサクラをリーダーにするストーリー構想があったのだろうか。
もぐらを長年煩わせていた父「猪突(いのとつ)」は終盤で突然退場してしまう。その死の詳細も物語的な意味も明かされないまま終わってしまう。ここはさすがにちょっと消化不良感があった。
果たしてもぐらがいなくなった後の方舟はどうなるのだろう? 仲間割れをして自滅か。あるいは出口を見つけて悪の巣窟になるか。まぁきっとロクなことにはならない。
作中に立体視を出すなど(ちなみに自分は平行法が苦手なのであまり上手く視えなかった)、全体に著者の趣味が反映されており、そこにどこまで付き合えるかで本作の楽しさは変わるかもしれない。
しかしそういった要素を抜きにしても、本作が投げかけてくるものには普遍性がある。人間の嫌さを見せてくれる。今もどこかに現代の方舟さくら丸があるんじゃないか、と思わされるし、誰の心にもユープケッチャがいるんじゃないかと思わされる。