安部公房による小説。昭和48年に刊行。
本作の登場人物(?)である「箱男」は、ゲーム『メタルギアソリッド』に装備品として登場する「ダンボール」の元ネタとされている。
そんなメタルギア経由で手に取った読者を絶望のどん底に叩き落とすような、かなーり難解な内容となっている。
かくいう僕自身もそのクチで、初めて読んだのは2007年のことらしい(こういうときブクログに記録しておくと助かる)が、若かりし時分には全く内容を理解できず。せいぜい「ダンボールの内側に物を吊るしたりするんだったよな」程度の細かい情報しか記憶に残っていなかった。
このたび14年ぶりに再読してみて、十全に内容を理解できたとまでは言えないものの、「なぜ難解なのか」くらいはある程度把握することができたと思う。
一本の筋が通ったストーリーが存在せず、箱男がノートに書きつけた、偏執的かつ倒錯的な一人語りを主として構成されている。
その間に、本編との繋がりが不明瞭な断章や、モノクロのスナップショット、新聞記事風の文章などが挟み込まれている。
そしてラストは一種の「妄想オチ」的な展開で幕を閉じる。
まるで不条理な夢そのもののような物語。だから頭に留めておくのが難しい。
ダンボールを被って街を徘徊する匿名の存在である箱男の生体記録、そして「覗き」という行為をテーマとして展開される序盤の数章は比較的読みやすい。
なぜだかわからないが、人はなにかを「覗く」という行為を好む。
安全な場所から、なにかを一方的に見る。そのような娯楽は見世物小屋に始まり映画やテレビへと進化してきた。
そして現代ではではインターネット上のSNSや動画サイトを通じて、有名人の生活や、あるいは一般人の私生活までもが「覗き」の対象として供給され続けている。
現代の読者であればそんなことを想起させられるだろう。
都市の人工物である無機的な(紙だから有機物だけど)ダンボールを被り、社会の軛から外れ、ただ一方的に社会を覗くだけの存在。
そんな箱男の生き方に、ほんの少しだけ憧れさせられたりもする。
しかし覗くという行為は、常に対象から「覗き返される」可能性と表裏一体だ。常に安全地帯にいられるとは限らない。
そんな「見る側」と「見られる側」の混乱を暗示するかのように、終盤に向けて物語は混迷を極めていく。
率直な感想を言うと、読みすすめるにつれて、これって結局箱男の妄想なんじゃないか、冷めてしまった部分はある。
しかしだからといって読む価値が無いかっていうと全然そんなことはない。鬼気迫る描写。時代を超えるテーマ性。名作であり怪作だ。
ところでこの小説をミステリー的に(いくぶん味気なく)謎解きするならば、最初から箱男は一人しかおらず、その正体は自らを元カメラマンだと思い込んだ軍医で、会話部分および供述書のみがになるんじゃないかと自分は読んだんだけど、みなさんはいかがでしたか?