rhの読書録

読んだ本の感想など

生者と死者―酩探偵ヨギガンジーの透視術 / 泡坂妻夫

生者と死者―酩探偵ヨギガンジーの透視術 (新潮文庫)

生者と死者―酩探偵ヨギガンジーの透視術 (新潮文庫)

 以前『アメトーーク!』の読書芸人で紹介されていた小説。帯分によると『嵐にしやがれ!』で又吉直樹もこの本の話をしたらしい。

 まずなにより本書が特徴的なのは、ほとんどのページが「袋とじ」になっている、ということ。

 袋とじの状態で読んでも短編小説として成立しているのだが、ミシン目を開くことで短編のページ間に新たな文章が出現し、長編小説になる。結果、元の短編小説は消失してしまう仕掛けになっている。実際に本屋で手に取ってみるのが一番わかりやすいだろう。

 言い換えれば、長編小説の中の数ページを取り出して繋げることで短編小説になるように、計算して書かれているのである。

 それだけでもスゴイことなのだが、

  • おそらく製本の都合で、きっかり16ページごとに袋とじになっている
  • 短編の状態で多くの文章がページとページの間をまたいでいる
  • 短編と長編がほぼ完全に別のストーリーになっている

 という趣向。どういう脳ミソを持っていればこんなシロモノが書けるのか、もはや想像もつかないレベルの離れ業だ。繋ぎ目部分の文章に多少の不自然さはあるが、もちろん短編・長編共に筋の通ったストーリーとして成立している。

 ちなみに「短編と長編をいつでも読めるようにするためには二冊買うべし」と帯に書かれているのだが、あらかじめ短編のページに印をつけておけばわざわざ2冊買う必要は無い。ちょっとズルいけど。

 また袋とじという性質上、新品で読まなければ楽しめず、電子書籍で読むのも難しい。紙の本が売れない現代に生き残っていくのは、こういう本なのかもしれない。


 短編と長編のストーリーを別のものにするために、様々な修辞的テクニックが駆使されている。

  • 姓のような名、名のような姓を登場人物につけることで、登場人物を変える
  • 中性的な喋り方をさせることで登場人物の性別を変える。敬語と女性言葉が似ていることも活用
  • 長編でその場にいる人物を短編でこっそり省略する
  • 言葉のダブルミーニングを利用する
  • ページまたぎを利用して、ある言葉を全く別の言葉にする

 などなど。さぞかし苦心したはずだ。

 著者が奇術師としても活動した人物だったからこそ、このようなトリックによって人を驚かせる作品が書き上げられたのだろう。作中にも手品や超能力が頻出する。

 またこの他にも奇術的な仕掛けの小説をいくつか書いているらしい。本作は探偵「ヨギ ガンジー」が主役の長編2作目で、第1作の『しあわせの書〜迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術』は「本自体が手品の道具になる」ようになっているという。


 ストーリーの方は、いわゆるオカルトブームの残り香がするミステリ。

 かつて超能力の存在が真面目に(どの程度真面目だったかはわからないが)議論されていた時代があり、テレビでスプーン曲げをしたり、「ノストラダムスの大予言」なんてものについての討論番組が放送されていたりした。

 大月という登場人物の名は、超能力否定派(という肩書きも今考えるとなんだかよくわからないが)の大槻教授がモデルかもしれない。

 その後オウム真理教事件などの影響もあり、すっかりオカルトは下火になった感がある。なによりインターネットの存在が大きい。スマホのカメラでだれもが情報発信可能な時代に、「未知のパワー」なんてものを信じる方が無理がある。そのかわりに出てきたのが「都市伝説」、といったところだろうか。


 自分は普段こういったミステリを読まないこともあってか、単純な小説としての感想は、そこまでピンとこなかった、というのが正直なところ。

 ただストーリーにおける「二重性」というテーマが、本書の特異な仕掛けと通底していることには少なからぬ感銘を覚えた。

 その意味で本書の仕掛けは、文学的なメタフィクション表現と言えるだろう。

 人間は、いとも簡単に先入観に騙される。そしてすべての言葉は、文脈に依存している。そのような不確かさが小説を、そしてあるいは奇術というものを成り立たせているのかもしれない。そんなことを考えた。


 著者である泡坂妻夫の未完の遺稿は、本書の続編として15年ぶりにヨギ ガンジーが登場する作品だったらしい。

 なにか新たな仕掛けを施す予定だったのか。それはどんなものになるはずだったのだろうか。実はもう小説は書き上がっていて、15年後に公表される、とかだったらスゴイなぁ。などと、本の外側のことについて考えてみるのも読書の楽しみ方のひとつと言える。