哲学者の國分功一郎と、思想史学者の互盛央が、哲学や思想に関する本にまつわる記憶を中心に、様々なテーマで語り合う。
形式としては「往復書簡」に近いが、互いが互いに語りかけるのではなく、ひとりがモノローグを綴り、それを読んだもうひとりがさらにモノローグを綴る、という形となっている。
互氏によるまえがきの『ソシュールの思想 / 丸山圭三郎』から始まり、『ヒューモアとしての唯物論 / 柄谷行人』『想像の共同体 / ベネディクト・アンダーソン』など次々に本紹介しつつ、どのように読んだか、どのように位置づけているか、といったことが語られる。たとえば。
大学生の時に柄谷行人の公演を聞き、『マルクスその可能性の中心 / 柄谷行人』を読んだ國分氏は「商品の価値は商品に内在していない」という一言に衝撃を受ける。それはすなわち「商品価値は幻想である」という意味であり、「そんなものは幻想に過ぎない」とい言い方は当時のアカデミズムにおける流行だった。しかしまわりの友人達のおかげもあり、國分氏は「そんなものは幻想に過ぎない」だけではダメだということに気づく。
自分の話をすると、心に残っている中で最初に読んだ哲学・思想の本は『寝ながら学べる構造主義 / 内田樹』だった。自分にとっては、「全ては幻想である」という構造主義と、その後にやってきたポスト構造主義はセットだった。もちろんその意味は当時の自分には全然分からなかったし、ただの読書好きである今の自分にもよくわかっていないのだけれど、とにかく「なんとなくそういう感じなのね」という雰囲気だけを自分勝手に都合よく自分の中に取り入れていた。
その後もつまみ食いするように、哲学や思想の本をちょいちょいと読んできた。誰かと哲学の話をしてください、と言われても絶対にムリだけど、ものの考え方には確実に影響を受けている。そしてその中には國分氏の『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』といった本も含まれている。
自分は小さい頃、やたらとことわざの本を愛好しており、小学校低学年で「ひょうたんから駒」とか「人間万事塞翁が馬」とかいうことわざを読んで「なるほどなぁ」と思う、というややヒネたガキだったが、今の自分にとって哲学や思想というものは、良くも悪くもそういうものに近いのではないかと思う。
だもんで、本書に書かれているような、哲学的な個別のことがらについては、「なるほどなぁ」と思う以上の能力を自分は有していない。それはもう、全然有していない。
しかしそんな自分にとっても本書は面白く、興味深く、そして刺激的だった。多くの哲学・思想の本と同じように、言葉を使って考える人全てにとって意味を持つようなことがらが、全体に響き渡っていた。
生活のために必要な言葉、あるいは誰かを動かすために発された言葉は、短くて、わかりやすくて、時にものすごく強い。
でもそういう言葉は、ずっと聞いているとだんだんと疲れてくる。巨人に両足を掴まれて頭をぶんぶん振り回される、みたいな気分になってくる。もちろんそういう言葉は実用上は必要なのだけれど。
そんな時に哲学の本を開くと、そこには全然別の世界が開かれている。現実が論理を要求し、論理のための論理が生まれて、やがて論理が現実に回帰してくる、といった感じで。
そういう言葉は、複雑で、わかりにくくて、ある意味で弱い言葉なのかもしれない。本書で「弱い言葉」として國分氏が語っているように。
でもそういう言葉でなければ辿り着けない領域は確実にある。それはもう、ある。と、思う。きっと。
だから自分は黙して哲学の本を、わからないなりに読むのだろう。