rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

モナドの領域 / 筒井康隆

佐々木敦『筒井康隆入門』を読む
→その中に登場した「パラフィクション」の概念に興味を持ち、『あなたは今、この文章を読んでいる』を読む
→筒井康隆がパラフィクションの実践(?)として書いた本書『モナドの領域』を読んだ←イマココ

 と、そんな読書履歴を踏んできた。

rhbiyori.hatenablog.jp
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 そんな風に系統立てて本を読むことはあまりないのでどんな風に感想を書けばいいのか迷っている。

 なにより自分はパラフィクションという文学的概念を十全に把握できているわけでもない。自分に「文学的概念」なんてものを扱える自信も、それに必要な教養も無い。

 映画好きがシリーズ映画を観る。アニメ好きがアニメをシーズン通して見る。そんなノリで「パラフィクション」にまつわる本を続けて読んできた、ただの読書好きに過ぎない。

 なのでそういった周辺情報は抜きにして、まずはひとつの小説としての本書の感想を書いていこうと思う。


 河川敷で女性の片腕が発見され、警察が捜査を開始する。

 同じ頃、なぜかその片腕そっくりのパンを、街のベーカリーで、アルバイトの美大生が焼き上げる。

 さらにそのベーカリーに毎朝通っていた美大の教授が、神に取り憑かれたような状態になり、様々な予言や遠隔視で注目を集めるようになる。

 暴行罪の容疑者となって裁判を受けたり、テレビの討論番組に出演する中で、教授に取り憑いた神のような存在は「GOD」を名乗り、哲学的議論を交えながら、自らの存在や世界の成り立ちなどについて語っていく。

 最後にGODは自らがこの世界に来た理由を語ったあと、自らにまつわる全ての人の記憶とともに、世界から去っていく。


 難解な哲学的議論を除けば(というか大半は自分も理解できなかったのだけれど)、SF作品としてはむしろシンプルでわかりやすい筋書きになっていると言っていい。

 個人的な話をすると、最近哲学の入門書『読まずに死ねない哲学名著50冊』をノートに書き写す形で毎日ちょっとずつ勉強しているのだけれど、その本と本書に共通しているアリストテレスやトマス・アクィナス、ライプニッツの哲学的テーマに関しては、ある程度は理解できたと思う。

 アリストテレスは、あらゆる運動や事物の変化にはその原因があり、その原因を大元まで辿っていけば、全ての運動・変化の原因となったものが存在すると考え、これを「不動の動者」「第一原因」と呼び、神と呼ぶべきものと想定した。トマス・アクィナスはこの議論をキリスト教に持ち込んだ。

 ライプニッツは、この宇宙における物質的・空間的最小単位である(本作のタイトルにもなっている)「モナド」という概念を示した。モナドは神がもたらしたものであり、モナドの関係性が生むこの世界の秩序は、神があらかじめ決定したものであると考えた。この考え方が「予定調和」だ。


 GODはアリストテレスやライプニッツや、その他歴史に名を残した哲学者達が想定した「神」に近い存在であり、神による予定調和を「モナド」と呼ぶ。モナドの綻びを繕うために、GODは世界にやってきた。

 しかし作中終盤でGODが現れた世界が「小説の中の世界」であることが、GODの口から語られる。ここで物語は(一般的な意味での)メタフィクションに姿を変える。

 つまり本作は(我々が生きる現実世界で)過去の哲学者たちが想定してきた神に近い存在が、実際に現れた(という設定の)小説世界だということになる。より端的に言えば「哲学メタSF小説」と言うべきか。


 GODが「世界を創造した神」であり、かつその世界が小説の中の世界なのであれば、必然的にGODは本書の作者である筒井康隆自身、ということになる。

 終盤のGODのセリフ、

わしが存在している理由はね、愛するためだよわたしが創ったものすべてを愛するためだよ。当然だろう。すべてはわしが創ったんだ。これを愛さずにいられるもんかね。

 は、作者による、これまで自らが著してきた作品への愛の吐露であると読むのが、むしろ自然だろう。

 そしてGODが去った後の世界を描いて本作は終わる。作家が世を去っても、作品が世に残ることを暗示するように。


 で、本作がパラフィクションなのか、という観点で見ると、かなりパラフィクション的ではあると思う。

 「小説は、書かれた時に完成するのではなく、読者が読むことによって初めて完成する」みたいなことを最初に言ったのが誰だったのかわからないが、実際それは考え方によっては正しい。

 読者が小説を読むことで、それぞれの読者の心だか脳内だかにそれぞれの「小説世界」のようなものが生まれる。本書でそれは「可能世界」と呼ばれている。

 そのことを自覚的に扱ったという意味で本作はパラフィクション的だ。

 そしてその手法が、晩年の作家による自らの創作への愛の発露という形で、極めて効果的に用いられている。


 しかし本書には「老作家から読者へのメッセージ」みたいな安易な物語化には捉えられまいとする、作者から読者への挑発、もっと言えば(常識を揺さぶろうという意味での)悪意のようなものも、端々に感じられる。むしろそんな立場を利用しているフシすらある。全然長年のファンとかではない自分でも、やっぱり筒井康隆はそうでなくちゃ、と思える。底知れないな、と思う。