とにかく本作を読んでみて欲しい。読んで、自分で判断してみて欲しい。あらゆることを。
いや、そんなことを言っていたら本の感想を書くという行為が成り立たないのはわかっている。別に成り立たなくてもいい気すらするんだけども。とにかく書いてみよう。
村上春樹は今からおよそ40年前に、『街と、その不確かな壁』という小説を書いた。その小説は彼にとってどこかしら不本意な作品だったため、単行本化されず、全集にも入らなかった。ちなみに自分は掲載された雑誌を図書館で読んだことがある。15年くらい前のことなので詳しい内容は覚えていないけれども。
その、いわば封印された小説を、40年ぶりに「書き直した」のが、2023年に出版された本作『街とその不確かな壁』だ。読点(、)があるのが古い小説、無いのが新しい小説。正直ちょっとまぎらわしい。
「書き直し」とはどんな意味か、「続編」なのかそれとも「同じストーリー」なのか、と思うかもしれないが、そのどちらとも微妙に違う。こういう文芸作品にはよくあることだけれど、そもそも「ストーリーライン」とか「整合性」みたいなものを目指して書かれていないし、多くの読者もそういうものだと思って読んでいる。強いて言うなら映画やゲームで言うところの「リブート」に近いか。
実は旧作『街と、その不確かな壁』のストーリーは、変形されて『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という小説の一部に使用されている。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という2つのストーリーが交互に書かれていく小説で、その「世界の終わり」パートが、『街と、~』とモチーフを共有している。ちなみに当時読んだ自分はその結末に納得がいかなかったらしい。読み返すのも恥ずかしいけど一応リンクを貼っておく。
rhbiyori.hatenablog.jp新作である本作『街とその不確かな壁』もまた、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同じように2つの物語が並行して進んでいく。「ぼく」の物語と「私」の物語の2つ。その「私」の物語の方が、「世界の終わり」パートとほぼ同じストーリーをなぞっていく。
16歳の「ぼく」は作文コンクールで出会った「きみ」と恋愛関係になる。しかし「きみ」はある日長い手紙を残してどこかに消えてしまう。これが「ぼく」のパート。
一方「私」のパートでは、「私」は不思議な街にいて、街の図書館で「きみ」と同じ姿の少女に助けられながら、夢読みという不思議な仕事をしている。
ここまでが第一部冒頭のごく簡単なあらすじ。
やがて「ぼく」が成長して「私」になり、ある日現実から街へ落下したことが明かされたりするのだが、一体この「街」とは何なのかがハッキリ示されることなく物語は進んでいく。どうやら精神世界のようなものらしいのだが。
一体この物語はなにを表しているのか? そのとっかかりがつかめない。というか、つかんだそばから「とっかかり」が消えていく、と言うべきか。
すべてがAでもありBでもある。「Aである」と言った瞬間にそれはもうBになっている。そういう感触がある。そういうところを目指して書かれたように感じられる。
村上春樹の文体をパロディする際に「あいまいな物言い」がよく引き合いに出される。「Aかもしれないし、Aじゃないかもしれない」みたいな。本作はそのようなあいまいさがますます極まっていると言える。
にも関わらず、本作の文章そのものはあくまでもシャープに研ぎ澄まされている。たとえば『世界の終わりと~』と比べてみれば、本作のシンプルかつソリッドな、余計な贅肉を削ぎ落としたような文章が際立って見えるだろう。
そんな本作を読んで自分はどう思ったか。「共感できるが疑問が残る」。短く言うとすればそんな感じになるだろうか。
主人公は自分にとって最も大切な存在、自分が命を賭けても守りたい存在、自分とひとつになるはずだった存在の「きみ」を失う。
「街」は「きみ」が残したものであり、「きみ」と「ぼく(主人公)」が共に作り上げたものだった。ゆえに主人公のその後の人生は、街と向き合い続ける人生になる。
街に行けば「きみ」に会える。彼女は現実の世界から見れば「きみ」の影にすぎない。でもその街にいる限りにおいては、彼女は紛れもない本物の「きみ」だ。街とはそのような場所であるらしい。
だったら街で暮らし続ける方がいいのか。でも街はとても限られた世界だ。壁に囲まれた狭い世界。時間さえそこには無いように見える。「きみ」以外の何もない世界、と言ってもいいかもしれない。
「きみ」がいない現実の世界。「きみ」以外の何も無い世界。その二つのどちらを選ぶべきか、主人公は思い悩む。
「きみ」は果たして本物の「きみ」なのか? 現実の論理で言うならば、もちろん本物ではない。自分の精神世界にいる存在なのだから、
自分の内面にいる存在であるとすれば、「きみ」は主人公自身であると言ってもいいかもしれない。自我の延長。オルターエゴ。
しかし現実に生きているわれわれにとっても、他人は完全に到達することのできない存在だ。誰かのことを完全に理解することなんてできない。他者は他者でしかない。
例えば誰かに憧れを抱くということは、自分というキャンパスに他人の像を描くような行為だ。自分にとっての他人を、自分の中に作り出す。そのようにしか人は他人を理解できないのかもしれない。
そういう意味においては、街にいる「きみ」は、主人公にとっての「きみ」そのものであると言っていいのではないだろうか。少なくとも街の中においては。
「そんな風に一人の世界に閉じこもっていないで外の世界に出ろ」というのがおそらく「健全な」考え方ということになるだろう。学校とか社会とかの。
またある種の人々は「自分の中に真実を見い出せ」みたいなことを言うかもしれない。スピリチュアルとかそういう系統の人たちは。
「内側」を向くか「外側」に出るか。本作はその二項対立に対して、わかりやすい解答を積極的に避けようとしているように見える。だから主人公は2つの世界を行ったり来たりする。
主人公は「きみ」を求めて街に行く必要があった。「イエローサブマリンの少年」はあくまでも街を求めてそこに行った。
でもそれは「自分だけの世界、サイコー!外ってクソだよね」というようなメッセージではもちろんない。全然、ない。
主人公は街の成り立ちに不自然さを感じ、そこから出ようとする。だからといって「やっぱ人は社会に出てオトナにならないとダメだよね」ということでもない。
主人公はただ街から出るのではなく、自分の半分を街の外に出す、という選択をする。現実と非現実の間を生きようとする。
ひとまず中間に踏みとどまる。たとえばそういう生き方もできる。そのことを本作の物語はひとまず示しているように見える。
現実でも、インターネットでも、あらゆる場所で分断が生まれてしまっているこの世界において、「どちらでもない」というありかた、二つの場所を行ったり来たりするようなありかたを、物語によって語ろうとしている。そのことに著者なりの覚悟を感じる。
『新潮』2023年6月号に、7人の書き手が本作に応答する文章を寄せている。
7人の内の1人である小沢健二は、文の段組みまでデザインしたその文章の中で、ゲーム『Undertale』に言及している。というか文章全体の7割くらいUndertaleの話題で埋まっていて「小沢健二、自由だなぁ」としみじみ感心してしまうのだが、確かにUndertaleには本作に共通する部分を感じる。
「落下した少年」が閉ざされた世界から脱出しようとする。そこにはモンスターという非現実の存在が生活している。ベストエンドとでも言うべきエンディングで、ある人物が主人公に向けて語る「人生観」には、まさに本作のような「どちらにも与しない」という精神を見出すことができる。
先ほど「共感はできるが疑問が残る」と書いたが、じゃあ疑問とは何なのか。
ハッキリと形のある疑問ではないので、ちょっと断片的な書き方になってしまいそうだけれど、とにかく書いてみる。
何もかもがスムーズすぎる、という印象が読後に残った。
第2部の冒頭で現実に帰還した主人公は、夢で見た光景に従って福島県の図書館の館長になる。子易さんという前館長の助けを受けて、図書館の業務に順応していく。
一事が万事その調子で、あらゆることが目に見えないものの導きによって(あるいは導かれるようにして)、するすると滞りなく進んでいく。少なくともそういう風に読めてしまう。
子易さんもイエローサブマリンの少年も、主人公のために登場し、主人公の手助けをし、その役割を終えると去ってしまう。あくまで自分にはそう読めるということだけれど。
もう一つの疑問は、作者の顔が見えすぎるということ。
井戸、図書館、主人公を導く言葉少ない若者、といった過去作に登場したモチーフが本作にも登場する。
物語展開にも既視感がある。読んでいて、多分主人公はこの女の人と寝るだろうな、と思った女性とちゃんと寝たときには、さすがにちょっと頭を抱えた。
スムーズさと村上春樹っぽさ。この2つの要素のせいで、物語内における現実世界が、あまり現実に感じられない。「村上春樹ワンダーランド」とでも言うべき世界に映ってしまう。そのせいで「現実」と「非現実」の往復というテーマが薄まってはいないか。「現実」の方も非現実的なせいで、どっちも「非現実」に見えてしまう。
ひいては、この小説内世界そのものが、この小説全体の犠牲になっていやしないか。そんなことまで考えてしまう。それこそ「街」の犠牲となる単角獣のように。
著述家の内田樹はXで、本作には「外部がない」と述べているが、自分が感じている印象もそれに近いものかもしれない。
村上春樹『街とその不確かな壁』読了しました。「え、ここで終わっちゃうの」というのが読後感でした。これまでの長編小説でも「え、ここで終わっちゃうの・・・」と思うものはいくつもありました(『1Q84』もそうでした)。「完結感」のあるものの方がむしろ少ないかも知れません。
— 内田樹 (@levinassien) 2023年4月17日
そういった諸々込みで、冒頭に「読んで自分で考えてみて欲しい」と書いたのだった。
ともあれ偉大な作家が40年越しに完成させた集大成的な小説であるという意味で、本作が重大な意味をもつ作品であることは間違いないだろう。