- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2017/02/24
- メディア: 単行本
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- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
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正直に言うと、この小説について、何を言えば良いのかよくわからなかった。読み終わった一ヶ月前からずっと。
この小説が自分にとって良いのか、良くないのか。面白いのか、面白くないのか。
いや、もっと正確にこの気持ちを表現するなら、「村上春樹的にこの小説はアリなのか?」。
なぜそんな気持ちになったのか。少しずつ考えてみたい。
まず思うのは、この小説はあまりにも「村上春樹的過ぎる」ということ。
随所に過去作を思い起こさせるモチーフが登場することは、様々な人が指摘していることだが、シチュエーションも、あらすじも、物語構造も、全てが村上春樹っぽい。
あまつさえ、過去作のタイトルを引用したようなセリフすら登場する。これに至ってはもはや読者サービス。そういうことメタなことをするのか、と少し驚いた。
一言で言えば、「村上春樹が考える村上春樹小説」みたいな感じなんだけど、それを村上春樹が書くのって、村上春樹っぽくなくない? っていう。うん、むしろややこしくなってる。
でも実は、同じようなことは、昔から言われている。こないだ、たまたま古本屋で手に取った村上春樹研究本に、「過去作と同じモチーフを用いている』と書かれていた。『ねじまき鳥クロニクル』について。
そもそも自分が過去作を(多分)全部読んでいるからこそ、そのような感想を持つのであって、初めて読んだ人には余り関係のないことだ。し、そういう部分について、どう評価するのが正しいのか、ベターなのだろうか。難しい。
もうひとつ気になるのは、政治的に正しいな、というくだりが結構出てくること。
南京大虐殺のことだとか、ラストの展開だとか。
恥ずかしながら、「ノーベル賞、狙ってる?」という感想を抱きました。邪推でしょうか。よくわかりません。
政治的に正しいことは正しいことなんだけど、小説のために政治的に正しいのと、政治的に正しいために小説が有るのとでは、必然的に意味合いが違ってくる。どっちがどうなのかはご想像におまかせする。
それじゃあつまらなかったのか? というと、そうじゃあないんだ。最後まで読めたしね。それがまた話を難しくしている。
小説的な完成度は、もう誰も文句をつけられないレベルに達している。無駄が無い。ここには必要なことだけが書かれていると感じさせられる。
物語が始まりから終わりにかけて、時に早く、ときにゆっくりと進んでいく。主人公が危機を乗り越えて帰還する。
見慣れたモチーフも、少しずつ変化している。巨大な悪は現れないが、免色という一見紳士的な男が持つ、ほんの少し異常な、そして異常に熱心な欲望が、物語にかすかな影を落とす。主人公が絵画に向かう姿勢は、作者自身の創作論のようだ。そして顕れるイデア。遷ろうメタファー。ちなみに初めてサブタイトルを見た時は「遷ろう!メタファー」のように同調を促す意味だと思っていたのだが、おそらく違う。「さまよう」とか「たゆたう」とかと同じかと。
ところで全然話は変わるのだが、奥泉光・いとうせいこう『漱石漫談』という本を最近買った。
- 作者: いとうせいこう,奥泉光,施川ユウキ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2017/04/26
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彼らによると、漱石の『こころ』は「偉大なる失敗作(大意)」とのことである。自分もそれに同意する。
なぜ失敗作か。四つ折りで封がされたはずの遺書が長すぎるからであり、その遺書の内容である「下」に傾けられた漱石の(小説的な)熱量が大きすぎてアンバランスになっているから。
しかしそのようなアンバランスさを顧みぬ熱量があったからこそ、こころは名作になったのかもしれないし、あるいはそんなアンバランスさそのものが、こころという小説に異様な迫力を与えたのかもしれない。
そのような文脈で、体裁の整った小説を成功、破綻した小説を失敗と言うのだとしたら、『騎士団長殺し』は間違いなく成功している。
しかし「こころ」のような小説としての価値や意義を持っているのか。少なくとも今の自分にはよくわからない。もしかするとそれは、次に出るかもしれない第3部で明らかになるのかもしれない。かもしれないの連打。