1960年代にアメリカにわたり曹洞宗を布教した鈴木俊隆。その講話を編纂したもの。アメリカでは禅の入門の決定版として普及しているらしい。
日本生まれ日本育ちの僧侶が、母語ではない英語で話しているからか、難しい単語や複雑な論理などがでてこないため、その意味ではかなり読みやすい。
でも、読んで禅のことがよくわかったかというと、そうとも言えない。
なぜかというに、本書の言わんとするところが「禅は修行が大事、修行すればわかる」というものであって、だから禅の修行をしていない自分が「禅がわかった!」と言ってしまったら、本書の言わんとするところに反してしまうから。
おわかりいただけるだろうか、このロジックが。
そういうことを踏まえたうえで、本書から受けた禅というものに対する自分なりのイメージを、以下に記してみたいと思う。
なぜ禅では座禅をするのか? それは悟るためだ。と、自分のような凡夫はそのように本書が示す禅を安直に解釈してしまいたくなる。
でもそのような「Why?→Because...」方式の合理的な思考法を、本書は入念に避けている。頭の中でこしらえた原因と結果の結びつきによって物事をとらえるような考え方自体が、禅の、ひいては仏教の求める「悟り」とは異なるアプローチだからだろう。
正しい姿勢で坐禅をしたときの心の状態が、悟りである、と本書は説く。そして全てのものは仏性(仏になる可能性)を持つ、とも。
ブッダが自分自身を見出したとき、存在するものすべては仏性を持っていることも発見したのです。これがブッダの悟りです。悟りとは、なにかよい気持ちになることでも、特別な心の状態になることでもありません。正しい姿勢で座ったときの心の状態そのものが、悟りです。
(中略)
この姿勢をとれば、正しい心の状態については、話す必要はもうなくなります。すでにあなた方は、正しい心の状態にあるからです。これが仏の道の結論です。(サンガ新書版(以下同)、第1部 正しい修行 1 姿勢)
悟りとはなにか。仏教の宗派によって解釈は異なるが、自分が今まで読んできた本の中では「煩悩が消えた状態」とするものが多かったように思う。人間の持つ欲望や苦しみ、そういうものが、炎が消えるようにして、消失した状態。
でも本書はあまり煩悩を無くすことを強調しない。それよりも、坐禅を組んで、呼吸をして、ただその状態に身を任せることが、正しい修行の方法であり、その時点で悟っているとまで言う。
でもその一方で、悟りの状態に対する、ある種のビジョンのようなものを、本書は描いてもいる。悟りとは何であって、何ではないか、というようなビジョンを。
論理的に考えれば、ただ坐るだけで悟りなのであれば、「悟り」と「非・悟り」の区別は必要無いことになる。それとも、同じように坐っていても、悟っている状態と、悟っていない状態の両方が存在するんだろうか?
そのような、認識の多重性、あるいは多義性が、本書には散りばめられている。「AはBである」と「AはBではない」が同時に成り立つような多重性が。
そしてそれは本書に企図して埋め込まれた多重性だ。プロローグにはこう書かれている。
禅の修行で一番大事なことは、「二つ」にならない、ということなのです。私たちの「初心」は、その中に、すべてを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。(プロローグ ビギナーズ・マインド ―初心者の心―)
物事を分割して論理的に考える態度は、生きるためには必要なものだが、あらゆる苦しみの原因にもなってしまう。そうではなく、すべてをありのままに捉える態度を、禅は目指す。
初心者の心、ビギナーズマインドは、あらゆることをそっくりそのまま受け止めることができる。でも「自分は熟練した」と思い込むほど、初心を持ち続けるのが難しくなる。初心者でいる、ということに禅の秘密がある。というのがプロローグの主なテーマ。
本書では悟りの状態のビジョンを、例えば「色は色であり、空は空である」というような言葉を使って説明している。しかし同時に、そうやって言葉や理屈で悟りを理解することを推奨してはいない。
例えば自分なんかは、そういう説明を聞くと、「般若心経の『色即是空 空即是色』に対応しているな、ただの虚無主義じゃないのが仏教のすごいところだな」などと理屈で考えてしまうが、そんなことを考えるよりも、自分で坐禅して修行することに、本書は重きを置いている。
それって神秘主義じゃないの? と思う向きもあるかもしれないが、確かにその気配はある。宗教だし。でも例えば、「悟って特別な人間になりましょう」みたいな、あやうい神秘主義の気配は本書には無い。なんというか、悟りすらも絶対視してはいない。
それよりも、「悟り」とか、「仏性」とか、そういった「すばらしいもの」は、つねに、かつすでに、あらゆるところに存在して、そこに気づくことこそが悟りである、という趣が強い。ちょっと自己啓発的ではあるが、人を狭いところに囲い込んでしまうような有害さは感じられない。
エキスパートになるのではなくビギナーを目指せ、という提案は、スペシャリストになって金を稼ぐことが良い、とされる現世利益的な発想とは反対で、その意味ではラディカルと言えるかもしれない。禅がヒッピー的な感性と相性が良かったのもうなずける。
本書にも登場する「マインドフルネス」という言葉が、その後欧米などを中心に、宗教色を排した、いわゆるボディワークのようなものとして流行し、日本にも逆輸入のような形で入ってきた。しかしその「心をスッキリさせて仕事の能率アップ」というような、現世利益的な根本思想に、禅僧の藤田一照氏(2022年に本書を新たに翻訳している)は疑義を呈している。坐禅とはただ坐るものであり、マインドフルネスとは異なる、と。
www.youtube.com
と、いうようなことを、文字通り門外漢の自分が読んで考えたわけだけれど、ちょっと分不相応というか、やっぱり自分のような人間が口出しするような話ではないのかなぁ、とも思ってしまう。まぁ読んで面白かったからとりあえずはヨシとしよう。
頭の中が考えでいっぱいだと、外から入ってくるものをうまく見ることができない。心が静まっているほど、「良く」考えることができる。そんなことを本書を読んで考えたりした。そんな感じでイイのかは、全然自信が無いけれども。

![[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド [新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド](https://m.media-amazon.com/images/I/31FPW0+EzbL._SL500_.jpg)