鎌倉時代頃に活動し浄土真宗の開祖となった親鸞。その親鸞の言葉を伝えるべく弟子の唯円によって書かれたのが『歎異抄』。親鸞の説とは「異なる」説が世に出回っていることを「歎いて(なげいて)」書かれたから歎異抄というらしい。
そしてその歎異抄を小説家の高橋源一郎が現代語訳したものが本書。どう呼ぶのが適切かわからないので、とりあえずこの記事では高橋源一郎を著者と呼ぶことにする。
つまりこの本は仏教の本でなのだけれど、以下は特に仏教にくわしいわけでもなく、仏壇に手を合わせたり、お葬式で焼香をあげるくらいの仏教的行為しかしたことがない人が書いていることなので、間違いがあってもあまり責め立てないでいただけると幸い。
著者は歎異抄を現代語訳するにあたって、親鸞を「シンラン」、極楽浄土を「ゴクラクジョウド」など、一部の用語をカタカナに開いて書いている。
日本人はカタカナ語を「なんだか新しいもの」として捉える傾向があり、それはアメリカやヨーロッパの言葉を積極的に取り入れてきた歴史があるからだと思われる。
ゆえに本書では、それらのカタカナで書かれた言葉が新鮮なものとして響く。文章もとても平易で読みやすい。小学校高学年くらいをターゲットにしている印象。
この記事もそれに習ってカタカナを使って書いてみたい。モノマネしているみたいで不快になる方がいたら申し訳ない。
歎異抄はお経、つまり仏様に捧げる呪文みたいなものではなく、ユイエン(唯円)が書いた「お話」みたいなもので(と、本書で知った)、こう言って許されるのかはわからないけれど「仏教にまつわるエッセイ」みたいなものと言ってもそれほど遠くないんじゃないかと思う。
それも現代人にとって読みやすい理由だろう。もちろん仏教の真髄みたいな話は、わかるとかわからないとかの話ではないだろうけれども、シンランによる「語り」の形式をとっているおかげで頭にスッと入って来てくれる。
しかしシンランが繰り出すロジックは、かなり入り組んでいる。あえて普通のことと逆のことを言って、読む人を揺さぶってくるようなところがある。
著者によると歎異抄は、ある時期の若者にとって「読んでみるべきアイテム」の一つだったという。著者にとっては多くの「アイテム」の中の一つに過ぎなかったそうだが、ともかく宗教的な文脈抜きに多くの若者が歎異抄を読んでいた。
その理由は自分にもなんとなくわかるような気がする。わかったつもりの可能性は大いにあるが、勝手につもりになっても誰にも迷惑はかけないのでいいだろう。
確かに歎異抄には仏教用語が頻出する。ネンブツ(念仏)やジョウド(浄土)やアミダ(阿弥陀)といった話をされても「科学知識が無い昔の人が考えたことでしょ?」と思ってしまっても無理はない。「カラーテレビ以降」の自分がそうなのだから、まして「スマホ以降」のZ世代が、自分に関係のある話として捉えるのが難しくてもムリはない。
でも本書の現代語訳を読めば読むほど、なんだか現実に生きている人間の話をしているように聞こえてくる。
自分は今まで、ゴクラクジョウド(極楽浄土)を「死んだ人が行く別の世界」みたいなものとしてイメージしていた。昨今流行りの「異世界転生」みたいに。
アミダブツ(阿弥陀仏)は「人間を救うスーパーパワーを持った神話の神様」みたいなものだと思っていた。
でも本書を読みながら、それらを別のものとしてイメージしたいような欲求にかられた。
いや、歎異抄や本書の著者がそれらを別のイメージで描いているわけではない。全然、ない。ただ本書の親しみやすい現代語訳に触れるほどに「全部生きている人の話なんじゃないか」と自分が勝手に思ってしまっただけで。
例えば、ジョウドは「苦しみのない境地」であり、アミダとは「人間にとっての救いそのもの」なんじゃないか。
だとすると、例えば浄土真宗の「他力本願」の考え方は「自力で救われたいと考えている人には救いは訪れない」という風にも読める。
そういう風に現実のアナロジー(例え話)として仏教を読むことは、罰当たりなことだったりするんだろうか。
歎異抄を現代語訳した著者は、そこに文学との接近点を見出したという。
シンランの師のホウネン(法然)は、「ただネンブツを唱えればジョウドにゆける」と説いたことで異端とされ、朝廷に僧侶の身分を奪われた。
当時の仏教の主流派は「いくら念仏を唱えても、菩提心(悟りを得たいという心)が無ければ意味がない」とホウネンを批判した。
それはより広い言い方をすれば「人は言葉ではどうとでも言える。大事なのは心だ」という考え方であり、ごく一般的で穏当な考え方かもしれない。
しかし文学というものに触れるほど「心が大事」という考え方は疑わしくなる。心が言葉を生むのか、言葉が心を生むのか、どちらが正しいのかは全然明らかではない。ホウネンはそんな言葉の性質に気づいていたのかもしれない。
自分のような一般ブログ書きでも、体感としては「書きたいと思ったことを書く」よりも、「書いているうちに書きたいことが出てくる」ことのほうが、量としては多いと感じている。
ホウネンと同じく僧侶の身分を奪われたシンランは、非僧非俗を自認した。自分は僧侶でも、俗人(一般の人)でもない身分だ、と。
例えば太宰治の小説に対して多くの人が「自分のために書いている」と感じるのは、それが「ただひとりの人間」から発せられた言葉だからだ。所属だとか身分だとかとは関係のない、ひとりの人間としての言葉だからこそ「ただひとりの読者」に届く。
シンランも非僧非俗という「ただひとりの人間」として生きることを選んだ。歎異抄には「アミダは『おれひとりのために』救いの誓いを立てたと感じる」というシンランの言葉が出てくる。
歎異抄が説く「ショウミョウネンブツ(称名念仏、念仏を唱えるだけで浄土に行けるという考え)も、有名な「アクニンショウキ(悪人正機、善人が救われるのだから悪人が救われないわけがないという考え)」も、世間一般の考え方とは逆かもしれない。
でもそれは単に世間と逆のことを言っているだけではない。それを言うだけの論理がちゃんとある。そのような少数派の言葉に耳を傾けることも文学の役割というか、効果のひとつだろう。
著者はたびたび「自分にはなんでも文学に見えてしまう」ということを書いている。それを読んだ自分もいつも「確かに文学だなぁ」と思ってしまう。今回もそのように思った。
ところで、一切を何かに任せる、という考えについて、どう考えるべきだろう。
正直に言って、なにかキケンなことを言っているようにも見えてしまう。
人が誰かに騙されるのは、往々にして自分を他人に「おまかせ」した結果だったりする。
人には自分のことを自分で決めたいという欲望がある。と同時に、全部を他人に任せてラクになりたい、という欲望も持っている。騙す人は後者の欲望につけこむ。
神様のように、この世ならざるものに自分を「おまかせ」しているうちはまだ大丈夫なのかもしれない。どんなに偉大とされる人でも、人間には欲望がある。この世ならざるものには欲望がない。
でも、うっかり邪神をまつった人たちが大変なことになる、みたいな話も聞く。この世のものでなければなんでもオーケーというわけでもないらしい。
考えてみれば、というか考えるまでもなく、自分をなにかに「おまかせ」するのは常にキケンと背中合わせだ。
でも何かに身を任せるのは生きる上で必要なことでもある。そもそも生きること自体が、この世に身を任せている状態とも言えるわけで。
結局、何に身を任せるべきかは自分で決めなきゃいけない。自分自身に聞いてみるしかない。それは苦しいことかもしれない。でも、うまく身を任せるだけでいい、と考えれば少しは楽になるかもしれない。
さらに考えてみれば、というかここまで書いて今さら考えるのはだいぶ遅い気がするけれど、自分にとって文章を書くことは、言葉に身を任せることなのかもしれない。ただ生きているだけだと自分の中にあるだけの愚かさとか間抜けさを言葉にすることに、なにかしらの救いみたいなものを感じているのかもしれない。