rhの読書録

読んだ本の感想など

ニューロマンサー / ウィリアム・ギブスン

 「サイバーパンク」というSFジャンルの最初期の名作。映画『マトリックス』(観た)やアニメ『攻殻機動隊』(未見)、最近ではゲーム『サイバーパンク2077』(プレイ動画をちょっと見た)などにも、直接的、あるいは間接的に多大な影響を与えている。

 という事前情報だけを頼りに読み始めたのだけれど、ものすごーく苦労した。

 なぜかって、とにかく読みづらい。びっくりするほど読みにくい。ここまで小説を読むのに苦労したのはいつぶりだろうか。


 読みづらいことの最大の要因は、とにかく独自用語がいっぱい出てくること。

 例えば本書冒頭で<<スプロール>>という単語が出てくるが、この単語の意味が解説されるのは第二章に入ってから。そこまでは「どうやら土地の名前らしいな……?」などと推測しながら読み進めなければならない。

 ちゃんと用語の意味が解説されているのはまだマシなケースで、なんの説明もなく「七機能(ファンクション)の強制フィードバック人工操作手(マニピュレータ)」みたいな単語が登場し、その後も特に詳しい説明はなされなかったりする。そこはもう、なんとなく文字面から雰囲気をつかみ取って読み進めるしかない。「いったい何が強制フィードバックされているんだろう」などといちいち疑問を差し挟んでいたら先に進めないのである。

 そんな独自用語が、1ページに5個も10個も20個も出てくる。試しに自分が読んだ版のハヤカワ文庫14~15ページの見開きに出てくる独自用語(およびそれに近いもの)を抜き出してみよう。

  • 神経接合
  • 電脳空間(サイバースペース)
  • ”夜の街(ナイトシティ)”
  • マトリックス
  • 論理(ロジック)の格子(ラティス)
  • <<スプロール>>
  • 操作卓(コンソール)マン
  • 電脳空間(サイバースペース)カウボーイ
  • 活線(ライヴワイア)ヴードゥー
  • 棺桶(コフィン)ホテル
  • 恒温フォーム

 どうだろうか。このページだけ特に用語が多いわけじゃなく、最初から最後までだいたいこの調子。ここに挙げた単語は、まだ読み進めればなんとなく内容がつかめるものが多いが、「活線(ライヴワイア)ヴードゥー」に関しては読了した今になってもさっぱり意味がわからない。わざわざ「ヴ」を使っているところまで小憎たらしくなってくる。まったくもう。

 しかし少しでもサイバーパンク作品に触れてきた人なら、これらの単語をながめただけでも、いかに本作が後続の作品に影響を与えたかを知ることができるだろう。

 タイトルの「ニューロマンサー」も、神経を意味する「neuro」と、「使う者」を意味する接尾辞「mancer」を組み合わせた造語らしい。カタカナだけだと「ニュー・ロマンサー」と読みがち。あるいはダブルミーニングかもしれないけれど。


 読みづらい原因は独自用語の多用だけではない、と感じる。

 全体的に文体が断片的かつ婉曲的で、それはハードボイルドやノワールと呼ばれるジャンルの技法をSFに持ち込んだものと思われ、それが荒んだ世界観や主人公の心情には実にマッチしていてカッコいいのだけれど、独自用語の乱打と組み合わさることで、単純に「そこで何が起こっているのかがわかりにくい」という問題が生じているように思えてならない。

 序盤である人物が殺されるシーンがあるのだけれど、誰がどこで何をしてどうなったのか、という映像的な情景が、何度読み返しても頭に浮かばない。また途中でリヴィエラという人物が主人公一行に加わる箇所では、なぜ一行に加わったのかも、そもそもコイツの目的がなんだったのかも、読んでいて腑に落ちるところがほとんど無かった。自分の読解力不足の可能性も大いにあるけれども。

 翻訳が古いので仕方ないのだけれど、登場人物の口調が「昭和の若者」っぽいのも違和感が大きかった。昔家族が再放送をテレビで観ていた『太陽にほえろ』みたいで。

 結局、通読するのに1ヶ月ほどかかってしまった。1日15分くらいしか読めない日もあったにせよ。


 それだけの苦しみを味わったにも関わらず、読み終わった後の感覚はそれほど悪くなかったりする。むしろ妙な達成感がある。難しいゲームをクリアした後のような。

 本筋のストーリー自体は結構わかりやすかったのが読んでいて助かったポイント。「冬寂(ウィンターミュート)」というAIがある目的を達成するため、主人公のケイスたちに諜報活動をさせている、という本筋さえつかめていれば、なんとか振り落とされずについていけるハズ。

 自分のように「サイバーパンクを有名にした作品だから」という程度の動機でいきなり本作にチャレンジするのは、正直言ってあんまりオススメしたくはない。なんでもかんでも古典に当たることが正解とは限らない。例えば、

  • 「プロレスを見たい」という人に力道山の試合を見せる
  • 「映画を見たい」という人に『七人の侍』を見せる
  • 「ロックを聴きたい」という人にエルビス・プレスリーを聴かせる
  • 「RPGをプレイしたい」という人に『ウィザードリィ』をプレイさせる
  • 「日本文学を読みたい」という人に源氏物語を読ませる

 みたいな行為が必ずしもジャンルへの導入として適切でないことは、その筋に少しでも明るい人ならわかるだろう。普通に新しいやつをチェックしたほうがいい。ガンダムに入るなら、今ならきっと『ジークアクス』(未視聴)からがいい。単にサイバーパンクを知りたいなら、視覚的にわかりやすい最新の映像作品の方が良いだろう。


 偉大な名作によくあることとして、あらゆる作品にオマージュされ尽くした結果、遡って原点にあたると逆に陳腐に見えてしまうという現象が起こり得る。

 世界設定や描写の「密度感」に関してはほとんど唯一無二と言っていい本作だけれど、ストーリー展開などにはどうしても既視感を感じてしまった。昔を知ってる人からすれば「こっちがオリジナルだぞ」って話なんだろうけども。

 とにかく独自の世界設定をバンバン押し出してきて、情報の洪水に溺れる、みたいな読書体験をしたいのであれば、本作は強くオススメできる。脳内に新しい語彙をゴリゴリと詰め込まれるような、日常生活では味わえないような体験を味わえる。自分は『デスストランディング』の一作目をプレイした時の感覚を想起した。


 SFが描いてきたもの。『鉄腕アトム』的なピカピカの未来。『1984』のディストピア。『スターウォーズ』のような宇宙戦争。そこに「犯罪やドラッグが蔓延する猥雑な未来像」を新たに提示したことに、この小説の画期性があったんじゃないか、と想像する。

 その象徴が冒頭の舞台である「千葉市(チバ・シティ)」だ。「ヤクザ」の権力の下、三菱のマークのタトゥーを掘った「さらりまん(おそらくサラリーマンのこと)」が往来する犯罪都市。西洋人が描く日本描写におなじみで少なからず中国要素が混じっていることとか、意外と主人公が千葉にいる時間が短いこととか、そのわりにこの小説について語る時は千葉のことばかりが語られがちだな、とか色々思うことがある。

 でも事実として、チバ・シティのまわりの描写は異常に強度が高い。Wikipedia情報によると、ちょうど本作を執筆している途中に映画『ブレードランナー』が公開され、それを観た作者は衝撃を受け、冒頭部分を何度も書き直したとのこと。だからこそこれだけのクオリティに仕上がったのだろう。

 実在の日本の家電メーカー名が頻繁に登場し、「昔の日本ブランドはすごかったんだなぁ」としみじみさせられたりもする。あとめっちゃ強いニンジャも出てくる。

 サイバーパンクの軸が「サイバネティクス」による人体の拡張であることも本作を読めばよくわかる。それがヒッピー的な精神世界の思想と関連していることも。


 脳と機械を直接的に接続して、人間の意識を仮想空間に移動させる、あるいは仮想空間が存在するかのように認識させる、という概念は、今でこそ様々なフィクション作品に登場しているが、その最初のヒット作となったのが本作らしい。

 なぜコンピューターにハッキングするために脳と機械を接続しなきゃいけないんだろうか、モニターに映る映像を見るだけじゃだめなんだろうか、という、読みながら生じた疑問は最後まで解消されなかったけれど、それはいわゆるお約束というやつなのかもしれない。なんでもホビーで解決するホビー漫画みたいに。


 現代にこの本を読むのであれば、AIにコントロールされる人間、という部分に注目したくなる。

 でもこの作品に登場するAIは、昨今話題の生成AIとは(もちろん)違い、どちらかというと「人知を超えた神の如きもの」に近い。

 そう考えると本作は神話やファンタジーに近い構造を持っていることになる。主人公のケイスはいわば神の遣いとして、汚れた街や淀んだ宇宙を駆け抜ける。この世ならぬ異界である電脳空間―テクノロジーと汚穢が交わるチバ・シティ、あるいは大地(こちらがわ)と海(むこうがわ)が接する砂浜―で、ケイスが己の過去と向き合うさまは、美しくて哀しい。

 「誰も見たことがない世界」を高い強度で描いたことで、本作は発表直後に高い評価を得た。おそらくそれは間違いない。それが後続の作品によって「わりとみんなが見たことがある世界」になったとしても、こういう部分に本作の色褪せない魅力があると感じた。


 ちなみに全然知らずに読み始めたんだけど、現在Netflixでドラマ版が制作中で、ちょうど先日、初のティザー映像が公開されたらしい。なんというタイミング。チェックせねば。チバ・シティのロケが実際の千葉市で行われないであろうことだけは間違いない。
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外套・鼻 / ニコライ・ゴーゴリ

 ゴーゴリ、と聞くと何を思い浮かべるだろう。正直に言うと自分は、絵本作家の「エドワード・ゴーリー」とやや「ごっちゃ」になっていた。そちらは20世紀アメリカの絵本作家、対してゴーゴリは19世紀のロシアの作家である。ぜんぜんちがう。

 そんな自分がいきなり読んだって別に構わないのが、小説というメディアの素晴らしいところ。みたいな雑なまとめ方をしていいのだろうか。


 岩波文庫版を読んだ。昭和初期の翻訳を、戦後に改版したものだが、オリジナルの方は既に青空文庫に入っているので、そちらを読むのもいいかもしれない。

 さすがに使われている言葉が古いので若干読むのに苦労はあるが、逆に古い言葉に出会えるという楽しさも味わえた。「とつおいつ」なんて言葉、初めて知った。


 「外套」も「鼻」も短い話なので概要を書くのはよそう。Wikipediaにも載ってるし。

 構造的に見ると、「外套」は「何かを得て、失う物語」で、「鼻」は「失ったものが戻ってくる」という話。

 どちらの話においても、失ったものを「男性性のメタファー」として解釈できる。というか、精神分析の登場以降の視点から見ると、そのように「読めてしまう」と言ったほうがいいかもしれない。


 「外套」。今の言葉でいうところのアウター。コートやジャケット。ジャンパー、という言葉は若干死語に近いだろうか。

 新しいアウターを買ったときの高揚感や、しっかりとした冬用の上着を着たときの安心は、現代にも通ずるものがある。古代人も獣の皮を被って安心感を得ていたのだろうか? いいアウターを着るとなんだかちょっと強くなったような気さえするのは、男性特有の心理なんだろうか。

 なんとかして外套を買うお金を工面するアカーキイ。上等な外套を仕上げた仕立て屋のペトローヴィッチは、いわばアカーキイの「男を上げる」役割を果たす。

 同僚は彼の外套を物珍しげに扱い、パーティーまで開くわけだが、もっぱら興味があるのは外套の方で、アカーキイは蚊帳の外。というかアカーキイも外套も、パーティーを開くための口実でしか無いようにも見えて、アカーキイに感情移入した読者にとってはそこはかとなく哀しい。

 そんなアカーキイの外套は、強盗に奪われてしまう。分不相応な男性性を身にまとったことに対する社会的な罰、といった趣きすら漂う。

 さらに「有力者(最後まで名前は出てこない)」の説教が彼へ追い打ちをかける。その有力者が体現する男性性が、端的に言ってただの「見栄っ張り」でしかないところに、作者の批評精神が見える。

 そしてアカーキイは亡霊になる。他人の外套を奪い取る亡霊に。どう見ても八つ当たりではあるのだが、古今東西の亡霊ってだいたい八つ当たりしてるので、まぁそういうものなのだろう。


 「鼻」。鼻を失うことで出世の道を閉ざされる。あるいは、娘を自分にあてがおうとしてくる母親が、鼻を奪った犯人ではないかと疑う。ここでも鼻イコール男性性というメタファーが容易に想起できてしまう。鼻が大きい男性は男性器が大きい、なんて俗説もあるくらいだし。

 しかしそれ以上に、鼻に対する非リアリズム的な描写、悪夢的な出来事に対して、「よくわかんないのにわかる」と思わされるのはなぜだろう。

 日本にも「頭山」という非リアリズム落語が存在するが、こういうわけのわからないものに通時性があるのも不思議だ。

 なぜ鼻が理髪師の食べようとしたパンに入っていたのか? 川に捨てたはずの鼻が、いつのまにか五等官を名乗って街を歩いているのはなぜか? っていうか鼻が礼服を着て馬車に乗るって、物理的にどういう状況なの? といった問いに対する答えは最後まで用意されていない。し、そもそも登場人物が歩き回る鼻に対して疑問を抱いていないのも異常事態。そんな異常事態を当たり前のことのように描写できてしまうのが小説、あるいは物語という形態が持つ力だったりする。

 八方手を尽くしてもにっちもさっちもいかない手詰まり感は、カフカ的なものを感じる。しかし最後に話が丸く収まるあたりは、まだ「カフカ以前」の手触り。


 どちらの小説も、ことあるごとに官位を書くあたりに現代日本との価値観の違いを感じる。「そのとき係長の吉田は……」とか「非常勤講師の佐藤がふと足元を見ると……」みたいな書き方は、日本の小説では通常ありえないだろう。

 人間の内面描写が妙にねちっこく、手についた接着剤がなかなか取れない、みたいなイヤさがあるのだが、「こういう人っているよね」という妙な説得力もある。デフォルメされてるけど嘘くさくない。ドストエフスキーの小説にもそんなとこがある。ロシア文学の伝統なんだろうか。

本当の翻訳の話をしよう / 村上春樹 柴田元幸

 村上春樹と柴田元幸の両名による、小説の翻訳にまつわる対談を主としてまとめた本。ちなみに過去には同様の対談本として『翻訳夜話』シリーズが出ている。

 二人は『村上柴田翻訳堂』という、優れた英語小説を復刊または新訳するシリーズを立ち上げ、2016年から計10冊を刊行している。本書ではその計画の立案段階でにおこなわれた対談から、刊行された各作品にまつわる対談(刊行された各作品に収録されたもの)までを読むことができる。

www.shinchosha.co.jp

 自分はハードカバー版を読んだが、タイトルに『増補版』がついた文庫版には、『翻訳堂』の10作全ての対談がまるっと収められており、大変オトクになっている模様。今から読むなら文庫版一択。


 読むほどに、翻訳って大変な仕事だな、としみじみ感じ入る。

 自分が子供の頃は、まだギリギリ文学がエラいものだった。権威のあるものだった。だから文学の翻訳という行為に対しても、とにかくスゴいことだ、というイメージしか持てていなかった。

 でも今や文学はそれほどエラくはなくなったように見える。結果的にそれでよかったのかもしれないし、文学が持つ「価値」や「効果」みたいなものは昔と少しも変わっていないと、個人的には思うのだけれど、世の中の受け取り方が変わってしまった。

 ともあれそんな権威という名のベール、あるいは幻想が無くなった現代の目線で見ると、いかに翻訳という作業が地道でコツコツとした作業であるかということが、より想像しやすくなった感がある。


 本書の冒頭の対談も「いい本なのに絶版になってしまった翻訳小説」という世知辛い話題から始まっている。せっかく時間をかけて翻訳したのに、絶版になっちゃうなんて……と、一読書好きとしてはナイーブなことを思っちゃうけれど、実際はむしろ、時間という試練を乗り越えて受け継がれる作品の方がその数は少ないんだろう。

 文学作品の翻訳が「コスパ」の悪い営為であろうことも、素人の自分でもだいたい想像がつく。何かしら話題性のある本であればまだしも、いわゆる「古典の名著」を翻訳したところで売れる数はたかがしれている。

 にも関わらず翻訳は高い正確性が求められる作業であって、一文ずつなるべく正しい情報を、読みやすく、かつできることなら原文の雰囲気を維持したまま訳すのが理想という、ハードなもの。

 まして今は「翻訳なんてAIで一発でしょ」と考えている人のほうが多そうだ。実際のところ翻訳という作業は意味内容の正確性が重要なものであって、近似値的なものをアウトプットしてくる昨今話題の生成AIとはあまり相性がよろしくないように思われるのだけれど。

 そんな中でも、とにかく翻訳がしたい、いい作品を多くの人に届けたい、という熱意ある方々の努力の賜物によって、我々読書好きは世界各国の様々な作品に日本語で触れることができているのであって、どれだけ感謝してもし足りない。足を向けて眠れない。穴があったら入りたい、はちょっと違うか。


 もはや現代日本における翻訳の二大巨頭と言っていいほど、莫大な量の作品を翻訳してきた両名の対談には、実にさまざまな作家や作品の名前が登場する。誇張とかではなくリアルな数字として、おそらく2人の100分の1くらいの読書量しかないであろう自分にとっては、聞いたことはあるけど読んだことはない名前や作品ばかりだけれど、いったん固有名詞を頭に入れておくだけでも、次に読む本を選ぶときにふと役立ったりする。とりあえずフィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』をいずれ読みたいと思う。

 2人が称賛する藤田和子氏によるブローティガンの翻訳は、自分もたまたま手にとって引き込まれた経験がある。開いた瞬間に「これは何かが違う」と感じた。いったいどんなやり方をすれば翻訳でそんなマジックを起こせるのだろう。

 さらに本書には柴田氏単独による講演「日本翻訳史集中講義」も収録されている。明治時代の翻訳がいかに「言文一致」へ向かっていったかを学ぶことができる。

 坪内逍遥や森鴎外『あひゞき』はわりと有名だが、森田思軒、黒岩涙香という名前は初めて知った。先進的な理念を持ちながらその実践を見る前に亡くなってしまった思軒と、時に原作の改変も辞さない奔放なスタイルだからこそ現代に通じる実作を残した涙香、という対比が大変おもしろかった。


 村上柴田両名が翻訳した文を読み比べる、という対談もあり、フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』冒頭や、チャンドラー『大いなる眠り』の「タフでなければ~」で知られるセリフなど、歴史に残る名文を、同じく日本翻訳史に残るであろう2人の翻訳で読むことができるという、必見の企画になっている。

 より逐語的でストレートな印象がある柴田訳と、文章の響きやリズムを重視した村上訳。それぞれに味わいがある。


 村上春樹のストレートな創作論が随所で語られているのも見どころ。長年の盟友である柴田氏だからこそ、深い部分を引き出せているのかもしれない。

村上 (中略)モラリティをもってしないと描ききれない非モラルな状況があります。アイロニーをもってしか語れない幸福や安寧があり、ユーモアと優しさをもってしか語れない絶望や暗転がある。僕はそう思っていつも小説を書いています。

村上 (中略)でも基本的に言えば、僕にとって短編小説というのは、一種のゲーム感覚というか、ひとつの言葉から、ひとつの断片からどんな話を紡げるかという実験であることが多いですね。(中略)なんにせよ「これは私にしかできない」という個性的なシステムを自分の中にこしらえてしまうこと、それが何より大事です。言い換えれば、どこにでもあるような小説を書かないこと。たとえ上手くなくてもいいから、自分にしか書けない物語を創り出すこと。ペイリーやカーヴァーがやってきたのも、まさにそれなのです。

センスの哲学 / 千葉雅也

「センスがいい」というのは、ちょっとドキッとする言い方だと思うんです。なにか自分の体質を言われてるみたいな、努力ではどうにもできないという感じがしないでしょうか。(千葉雅也『センスの哲学』、以下同)

 センス。あなたはセンスがありますか? と聞かれて堂々と「あります」と答えられる人がどれだけいるだろうか。

 自分がセンスという言葉を最初に意識したのは、おそらく『実況パワフルプロ野球』というゲーム。「センス◯」の特殊能力を持っている選手は、持っていない選手よりも少ない練習量で成長できる。「センスがある」とは「要領よく上達できる」のとほぼ同義だと、そのとき学んだ。

 翻って自分の半生は、自分にセンスが無いことを確認し続ける過程だったような気すらする。野球をやっても歌を歌っても、センスがあるやつにはかなわない。っていうかフィジカルが全く足りていない。ゲームですら自分より上手い人はいくらでもいる。根っから闘争心がないので他人に先んじることができない。

 そもそも「才能を生かして活躍する」みたいなイデオロギー自体が一定の問題を含んでいると、今なら分析することもできるわけだけれど、子どもだった自分がそんなことまで考えが及ぶわけもなく。

 自分が今ブログを書いたりしているのは、どうやら自分は人並みに読んだり書いたりすることはできるらしいのでそれを行使したい、と思っているからで、他人より読み書きに優れているとはミジンも思っていない。特に書くセンスの無さは日々痛感している。別に優れてるわけじゃなくても、今持っている能力でやりくりするしかない、と思えるようになったのは、年齢を重ねたことの数少ないメリットかもしれないけれど。

 そんな自分語りをしてしまうことも、またセンスの無さの証左なのかもしれない、みたいなことを考え出すとキリがないのでやめる。



 本書は「センスとはなにか」を哲学する本である。

 センスとはなにか。重要なのは「リズム」である、と著者は言う。そしてリズムとは「うねり」と「ビート」であると。

・ものごとをリズムとして捉えること、それがセンスである。

・リズムとは、「うねり」であると同時に「ビート」である。

・センスとは、ものごとのリズムを、生成変化のうねりとして、なおかつ存在/不在のビートとして、という二つの感覚で捉えることである

 本書ではそのことを、ラウシェンバーグの絵画(表紙)や餃子の味、ゴダールの映画などを例に出して解説しており、とてもわかりやすい。

 正直言って読む前は、「これがセンスなんだぜ」みたいな内容の、なんかイヤらしい、センス見せびらかし本だったらどうしよう、という懸念はゼロではなかったけれど、実際に読んだら全然そんな内容ではなくてよかった。著者がそういうタイプの書き手でないことはとっくにわかってるんだけども。

 著者の作品のうち、『勉強の哲学』『現代思想入門』、そして本書『センスの哲学』は入門書的な一種のシリーズをなしており、それぞれ「思考」「倫理」そして「美的判断」の問題を扱っているという。いずれも意欲のある中高生くらいなら読み通せそうなくらい読みやすく、それゆえ難解な哲学書にはまるで歯が立たない自分でもそれなりにスムーズに読み通すことができる。ありがたいことである。
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 センスとはリズムである、というひとつの考え方は、かなり納得性が高いのだけれど、それを自分の言葉で、説得力のある形で説明しようとすると難しい。

 まずは忠実な再現を目指すのをやめて「ヘタウマ」になること。そしてあらゆるものを意味以前の「有と無」「1と0」の増減というリズムに還元してとらえること。ガッと増えるとか、ちょぼちょぼ減っていくとか、そういう変化を感じること。

 なにかを創作するうえで、心地よいリズムでものを配置すれば、心地よい作品になる。しかしあえて心地よさを裏切ることも、多くの場合必要になる。ちょっとズラすことで見る人をハラハラさせて、また安定に戻る。フィクションにおける「サスペンス」。音楽における「解決」。反復性と、そこからの逸脱。

 リズムをとらえるために、いったん「意味」を度外視する。映画で言えば、ストーリーやテーマではなく、映像や音の配置や繋ぎに注目する。

 だからって、リズムが大事でテーマなんてどうでもいい、みたいな話ではない。意味とは言葉である。言葉には近さがある。「りんご」と「赤」は近い、とか。そうやって意味をとらえれば、意味の配置にもリズムを見出すことができる。

 あらゆるものをリズムでとらえることで、あらゆるものを芸術として同じ平面でとらえることが可能になる。

 うん、やっぱり難しい。



 「欠如」についての議論や、予測誤差の話は、先日読んだ『イルカと否定神学』に通じていると感じた。ポストモダン思想を扱っていること、そしてそれを現代科学と接続しようとしているという点で、どちらの本も同じような方向を向いているのかもしれない。

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 作品を鑑賞する際に「感動を半分に抑え、ささいな部分を言葉にする」というテクニックは、今日からでもすぐに使えそう。

 大意味をいったん保留し、部分部分を見ていく。すると、いろんな小意味のうねりが見えてきます。なおかつ、感動したとか、悲惨な話だったとか、大きく心を動かされる麺もある。
 感動を半分に抑えておいてから、あとで解除する。

何らかの作品について、その部分から部分へと目を遊ばせて、何か思うところがあって、それを言葉にし、でも全体として何が言いたいのかという結論がなくても、十分に「批評」だと言えます。それは、批評という「作品」です。文学です。

 運動におけるセンスもリズムなのだろうか、と考えてみたが、100%ではないにせよ、リズムの要素はかなり強いのではないか。

 運動、というと人は無意識に「力を入れること」ばかり意識してしまうが、「力を抜くこと」の重要さはあらゆるスポーツなどで強調されている。

 筋トレするにせよ、正しいフォームを作るには力の抜き方も重要になるし、特定の部位に効かせたいときに、他の部位に力みがあると上手くいかない。

 適切なタイミング、適切な強度で身体の部位を動かすこと、つまりリズムよく体を動かすことが、運動神経=運動のセンスだと言えるのかも。

 他にも、
・散歩が心地いいのは、意味がバラバラの風景がリズム的に五感に働きかけてくるからではないか。
・人間が人間の肉体に美を感じる理由も、リズムに還元できるのだろうか?

 みたいなことも考えた。



 昨今はフィクション作品における「考察」がSNS上などでブームである。考察とは、様々な描写に「意味」を見出そうとする行為であって、作品のリズムを味わう鑑賞法とは真逆であるように見える。

 そういった風潮に対して、作品を作品として味わえないのは間違ってる、みたいな、退廃を嘆く的ポーズをとるのはたやすい。でもそれは早計じゃないか。

 考察が、つまり意味が氾濫するのは、意味が伝達しやすく、リズムは伝達しづらい、という単純な効率の問題なのではないか。

 ある作品のリズムを味わうためには、実際に実物の作品を味わうしかない。言葉で伝えようとしてもどうしても限界がある。一方考察は、ネットを介した拡散・伝播に非常に適している。理由はもちろん、意味は言葉だから。

 別に考察は堕落ではなく、より効率よく作品を楽しもうという欲望が駆動し、ネットがそれを加速させているだけなのだろう。それがもたらす良し悪しは別として。

 というようなことも考えた。あまり本書の内容とは関係ないかもしれないけれども。



 著者は「仮固定」というキーワードをよく用いるが、本書もまた、「センスとはリズムである」と断言するというより、センスをリズムとしてとらえること、その効果・効用を解説する、というスタンスに近い。そしてその先の「アンチセンス」の可能性にも言及している。

センスは、アンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか。

 センスとアンチセンスすらもリズムとしてとらえられるようになるんだろうか。あるいは中島敦の『名人伝』のように、センスを突き抜けた先に、センスもアンチセンスも無い世界があったりするんだろうか。そうだったら面白い。

思い込む力 / ネモ(根本直樹)

 格闘ゲーム好きで読書好きな自分としては、プロ格闘ゲーマーが書いた本を見かけると反射的に手にとって読んでしまう。これまでもウメハラ選手やときど選手の本を読んできた。

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 本書の著者はネモ選手。ギルティギアシリーズでは強豪ファウスト使いとして「ギルティはネモと小川のゲーム」と称えられ、ノヴァ・ストレンジ・スペンサーのチームで当時アメリカ一強だったUMVC3界に新風を巻き起こし、スト4シリーズからは社会人兼業プロゲーマーとして独自の存在感を示し、国内のリーグ戦「ストリートファイターリーグ」で長らくリーダーを務めている、あのネモ選手である。



 本書の中心には、いかにしてプロゲーマーと会社員を両立したかという経験が置かれている。スポンサーを獲得するため自らプレゼン資料を作りこみ、イベントなどで各企業に売り込みをかける一方、勤務先の会社内ではプロゲーマー活動を認めてもらえるよう上司にかけあうなど、とにかく行動力が凄まじい。特に人と直接掛け合うことを重視しており、「人に会う=死」みたいな自分のような人間には到底マネできない。 

もう1つのベースになっているのは行動です。自分なりにある程度分析して考えたら、とっとと行動します。一番は人に会いに行くこと。eスポーツ市場はもっと大きくなりそうだなとか、この会社ならスポンサーになってくれそうだなという情報収集はもちろん自分でしますが、最終的には人と話してみるしかないというのが私の考えです。

 キャリアアップを望む会社の方針と相容れなくなってからは転職活動を行い、スクウェア・エニックスに入社。イベント運営やソーシャルゲームの運営に携わって業績を上げつつ、プロゲーマーとしても着実に実績を積んでいった。

 そしてコロナ禍を機に専業プロゲーマーへ転向。現在はプロ活動のかたわら、eスポーツのコンサルティング業も手掛けているという。

 本書の出版は2022年だが、2025年現在も『ストリートファイター6』のリーグ戦で「Saishunkan Sol 熊本」リーダーを務めており、現役バリバリである。


 eスポーツの注目が高まっているここ数年。でもいまだに「プロゲーマーって何?」という人も多いだろう。

 今のところ、プロゲーマーといえども、チームに所属して試合に出場するだけで生計が立てられるとは言い難い。そもそも一般的なスポーツ界においても、専業で活動可能なのは一部のメジャースポーツだけだろう。

 大会の賞金も限られており、トップクラスの規模のタイトルにおける年に1、2回の大規模大会に優勝して、ようやく個人の賞金額が億に達する、というレベル。

 個人またはチーム単位でスポンサーを獲得し、それに見合う宣伝や露出活動をしなければ、専業プロとしてやっていくのは難しい。昨今は動画投稿や配信を行う、いわゆる「ストリーマー」的な活動を行うプロゲーマーも多い。

 またプロ活動はゲームメーカーによる後援が無ければ成り立たない。メーカーが大会を開いたり、宣伝イベントに呼んだりするおかげで、プロという活動形態が存在できている。逆に言えばゲームメーカーが立ち行かなくなればプロとしての活動基盤も危うくなる。

 そんな現況で「兼業プロゲーマー」やコンサルティング活動の経験を持つネモ選手の立場は、実に貴重なものと言える。

 例えば子どもが「プロゲーマーになりたい」と言い出したときには、まず本書を親子で読めば、将来を考えるうえで大いに役立つだろう。



 なぜネモ選手は兼業プロゲーマーの道を目指したのか? それは「大人になってもゲームを続けられることを証明したいから」だという。

大人になって、仕事をするようになったらいつまでもゲームは続けられないのか? 上司の言葉を機に考える中で、「そんなことはない。社会人になってもゲームは続けられる」ということを自分で証明したいという気持ちが湧いてきました。私がそういう空気を変えたいとも思うようになったのです。

 対戦ゲームの魅力は人と人を繋ぐこと。特にゲームセンターで顔を突き合わせて対戦していた世代のプロゲーマーはみな一様にそう語っている。eスポーツが発展していってもそういう魅力は無くなって欲しくないと、個人的には願っている。

アップダイクと私 / ジョン・アップダイク

 アップダイクって、名前は知ってるけど読んだことないな、と思って開いてみたら、「女体」というエッセイがメチャよかったので、読み始めた。

女性の身体は、胎児を身ごもり幼子を養うその力によって、我々の命を運ぶ乗り物となる――それは機関車であり線路である。だとすれば、男の性は、その生命の源へ帰ることで、存在の泉に口をつけ、上が下になり死が生に転ずる神話の暗い領域に踏みこむのだ。

 でも全体を読み通すのはかなり苦労した。昔のアメリカの話が多く、情報の密度も濃いため、噛み砕くのに時間がかかった。

 冒頭の私的なエッセイは情報量が少なめで読みやすく、本好きな少年時代がごくさらりと、しかし印象的に書かれる。

 続く本格的な批評では、サラ・グッドリッジの細密画。ジーン・ケリーとミュージカル映画。ドリス・デイの私生活。ジョン・チーヴァーと著者の関係といった、様々な事物・文化が多角的に論じられる。自分が今まで触れたことのなかった知見が得られた。

 その後の書評では、夏目漱石や谷崎潤一郎、そして村上春樹『海辺のカフカ』のレビューも収められている。日本文化に対する的確な知識と分析に驚かされる。

日本的な超自然、それはアニメやゲームや遊戯王カードを通じて現代アメリカにも輸入されているわけだが、華やかにして軽妙快活なその世界は、一神教の厳格な基準からすればいささか規律に欠けるようにも映る。五世紀に中国文化が導入され、六世紀に仏教が伝来して以来の日本の宗教史は、仏教と区別すべく神道の名で呼ばれる土着の多神教的自然信仰が不屈の弾力性と適応力を身につけていく長い道のりだった。

 ボストン・レッドソックスの名打者、テッド・ウィリアムズの最終試合の様子を描いた「ボストンファン、キッドにさよなら」は、歴史に残るであろう名品。

 訳者解説によると、アップダイクは書評を書く上で自分に課していた五つの規律を課していたという。読書ブログを書いているものの端くれとして、少しでも見習いたい態度である。

一 著者の狙いを理解しようとすること。著者が狙っていないことを達成できなかったからといってけなしてはいけない。
二 作品の文章はどういうものか、読者が直接に判断できるように、一つは長めの引用を入れること。
三 いい加減な要約をする代わりに、どんな本かという記述を引用で裏打ちすること。
四 あらすじはそこそこにして、結末をばらさないこと。
五 対象本がいまいちだと思ったら、作者の同工異曲の作品でうまくいった例を挙げること。

 一冊を通してアップダイクがどのような書き手かを一瞥できる、優れたエッセイ集となっている。



 本書を読んで考えたのは「物事の様々な面を見る」ということ。

 あらゆる物事にはいい面と悪い面があり、また人間にも様々な顔があり、環境や努力によって変化する部分があれば、生まれたときから変わらない部分もある。表題エッセイで著者が自身を「アップダイク」と「私」に分割して語ったように。

 そうして様々な面から物事を捉えることこそが、知性の健全な働き。というと、なに初歩的なこと言っとんねん、と思われるかもしれないが、自分はいつまで経っても初歩的な人間なので、初歩的なことばかり言ってしまうのは仕方がない。

 本書を一読すれば、著者の知性が抜群であることは即座にわかる。

 ただし、物事をいろいろな面から見れば現実の生活が上手くいく、かというとそうでもなく、むしろ「こいつ何言ってんだ」みたいな目で見られがちである。

 そんなまどろっこしいことをするよりも、みんなで同じ方向を向いてガンガン進んだほうが、「勝利」に近づける。それが世の理。

 問題は、別に誰かにそうしてくれと頼まれたわけでもないのに、なぜか細かいことが気になってしまったりすることで、それで勝手に一人で「敗北」してしまう。

 さらなる問題は、細かいことを気にせず勝利しているように見える人々も、別に能力の欠如によって細かいことが見えないわけではなく、見ようと思えばいくらでも細かいものを見ることができるが、それだと敗北してしまうことがわかっているので、あえて見ないようにしているケースが多い。

 その意味で、細かく物事を見てしまう人は、二重の意味で敗北しかねないといえる。

 だとしても、物事の微細な差異を、人生の光りと陰りを、あくまでも見続けようとする、あるいは見極めたいと思う、そういうタイプの人達がいる。本書はそういうタイプの人達のための本であると感じた。

イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか / 斎藤環

 「オープンダイアローグ」という精神療法について書かれた本。

 精神疾患を発症した患者と、医療スタッフ、患者の関係者が集まって「開かれた対話」をすることで、症状が緩和され、治療効果があるらしい。

 そして本書は、オープンダイアローグが「なぜ効くのか」という問いを、思想・哲学的なアプローチで問うている本である。

 と書くと、なんだか、すごくむずかしそう、と思われるかもしれない。

 大丈夫(?)、自分もあまりよくわかっていない。

 自分は、著者の斎藤環氏の本を少しばかり読んでいるけれど、精神医療も思想・哲学も完全なるシロウト。だから専門的なことはよくわからない。「なんだかすごく大切なことを言っている感じがする」という感覚だけを頼りに読んでいる。

 本書も、精神療法および哲学的議論が中心で、一見するとあまりシロウトには関係の無い本に見える。

 でも、読んでいくうちに、「コミュニケーションとはなにか」「優れた小説はどのように生まれるのか」「言葉を使うとはどういうことか」みたいな、新しいものの見方が頭の中に浮かんできて、実にエキサイティングだった。

 なお、純粋に実践としてのオープンダイアローグについて学びたいのであれば、同著者の『オープンダイアローグとは何か』を読んだほうがよいと思われる。というか、自分が読んでいる途中で「先にオープンダイアローグの実践について知っておいたほうがいいな」と気づいて目を通した。


 なぜ対話によって精神疾患が治るのか? それはコンテクストの組み換えが起こるから。ベイトソンの理論における、「学習Ⅱの組み換え」に相当する、「学習Ⅲ」が起こるから。ラカン理論でいうところの、言語の否定神学性によって。

 本書の提示する説をまとめようとすると、どうしてもこれくらいが自分の力量の限界になる。詳しいことはどうか直接本書を読んでいただきたい。

 しかし読めば読むほど、どうしてだれも「対話」という優れた方法を思いつかなかったんだろう、という気分になる。逆になぜ、フロイト式の「分析者が被分析者を導く」というスタイルの精神分析療法のほうが先に出てきたのか。父性主義的な、あるいはキリスト教的なものの影響があったのか、なんてことまで考えてしまう。

 精神分析療法そのものは、ほとんど前時代のものになったそうだが、精神分析の理論そのものは、人間の欲望の「構造」といったものを語る上で、いまだに鋭い切れ味を発揮する。著者は精神分析をオープンダイアローグと接続することで「サルベージ」しようとする。


 言語は非記号的であり、確定的な意味は無い、というのが構造主義、あるいはポストモダン的な立場と言っていいだろう。

 しかしその不確定性こそが、回復のためにプラスに働く、という著者の説には、様々な可能性を感じずにはいられない。

 「言葉なんて信用できない」という安直な虚無主義に対しても「どうとでもなるからこそ言葉は役に立つ」という新たな価値観を打ち立てることはできやしないか。そんなことを考えてしまう。

 本書を読んでいて連想したのが「空論道」というアナログゲーム。なんとなくオープンダイアローグに似ている気がするけど、本質的には全然違うような気もする。

 お題となる2枚のカードを引き、お題にもっとも適うものを「議論」するというゲームなのだけれど、組み合わせによって非リアリズム的なシチュエーションになることがしばしばある。というかむしろそれを目指してデザインされたゲームである。例えば「無人島に持っていきたい」「寿司ネタ」は? とか「敵にまわしたくない」「文房具は?」など。

 通常の議論やディベートは、ルールに沿って是非を問うものだが、空論道においては「お題に答えること」と「そもそもこのお題に何を意味するのか?」という問いが同時に議論されることになる。文房具を敵に回すってどうことだ? 殴り合うのか、それとも口喧嘩するのか? 筒井康隆の『虚構船団』みたいな感じ? などと。

 コンテクストと、そのメタ・コンテクストが、対話の中で同時に生成されていく。と言うとオープンダイアローグに似ているように感じるが、『オープンダイアローグとは何か』に書かれている実践を読むと、結構違うかもしれない。


 ブログを書くこともまた、言葉を使うことの難しさと無縁ではない。もちろん言葉のプロとはレベルもスケールもまるで違うだろうけれども。

 一番難しいのは、言葉は、使えば使うほど上手くなる、というものでは全然ないということ。

 楽器の演奏だとか、ゲームだとか、あるいは語学の習得でさえ、時間をかけて訓練すれば、それなりに技能が上達していく。技能が上達すると、やれることが増える。やれることが増えると、新しいステージに行ける。スピードや上限には個人差があるものの。

 でも言葉はそういうものじゃない。むしろ真逆といっていい。

 練習して上達可能なことは、身体性のカテゴリに入るが、言語はそれ自体が構造を持ったシステムであり、身体に対するのと同じアプローチでは上手くできないのかもしれない。

 身体と言語を繋ぐ方法、そのヒントが本書にはある、気がする。さっきから「気がする」みたいなことばかり言っていて申し訳ないけれど。

 言語における習熟は、ベイトソンの理論における学習Ⅲに該当するのではないか。より多くの「小さな真理」を取り入れることであり、コンテクストを自在に着脱するためのメタコンテクストを幅広くしていくことなのではないか。

 書くこともまた、モノローグではなく、対話でありうるのではないか。自分の中にある複数の声との対話によって、新たなコンテクストを立ち上げていくプロセスとしての「書くこと」。

 國分功一郎の『中動態の世界』への言及もある。治療者と患者、治すものと治されるものを分けずに、対話を生起させることを目指すという態度が、中動態的である、と。

 身体性、特に声が持つ重要性については、いまだにラジオというメディアが一定の地位をキープしていることや、VTuber・ストリーマーが人気を博していることとも何か関連しているように思える。映像は見続けなければ内容がわからないが、声だけであれば、自分の生活と重ね合わせることができる。


 いつも以上に支離滅裂な読書感想を書いてしまったかもしれない。自分の言語化能力が追いついていないのをひしひしと感じる。でも今までの自分の中にない、新しいことについて語ろうとしたら、しどろもどろで、つっかえつっかえにならざるをえないものなのではないだろうか。と、そう考えて自分を慰めることにする。もっと精進していきたい。