rhの読書録

読んだ本の感想など

センスの哲学 / 千葉雅也

「センスがいい」というのは、ちょっとドキッとする言い方だと思うんです。なにか自分の体質を言われてるみたいな、努力ではどうにもできないという感じがしないでしょうか。(千葉雅也『センスの哲学』、以下同)

 センス。あなたはセンスがありますか? と聞かれて堂々と「あります」と答えられる人がどれだけいるだろうか。

 自分がセンスという言葉を最初に意識したのは、おそらく『実況パワフルプロ野球』というゲーム。「センス◯」の特殊能力を持っている選手は、持っていない選手よりも少ない練習量で成長できる。「センスがある」とは「要領よく上達できる」のとほぼ同義だと、そのとき学んだ。

 翻って自分の半生は、自分にセンスが無いことを確認し続ける過程だったような気すらする。野球をやっても歌を歌っても、センスがあるやつにはかなわない。っていうかフィジカルが全く足りていない。ゲームですら自分より上手い人はいくらでもいる。根っから闘争心がないので他人に先んじることができない。

 そもそも「才能を生かして活躍する」みたいなイデオロギー自体が一定の問題を含んでいると、今なら分析することもできるわけだけれど、子どもだった自分がそんなことまで考えが及ぶわけもなく。

 自分が今ブログを書いたりしているのは、どうやら自分は人並みに読んだり書いたりすることはできるらしいのでそれを行使したい、と思っているからで、他人より読み書きに優れているとはミジンも思っていない。特に書くセンスの無さは日々痛感している。別に優れてるわけじゃなくても、今持っている能力でやりくりするしかない、と思えるようになったのは、年齢を重ねたことの数少ないメリットかもしれないけれど。

 そんな自分語りをしてしまうことも、またセンスの無さの証左なのかもしれない、みたいなことを考え出すとキリがないのでやめる。



 本書は「センスとはなにか」を哲学する本である。

 センスとはなにか。重要なのは「リズム」である、と著者は言う。そしてリズムとは「うねり」と「ビート」であると。

・ものごとをリズムとして捉えること、それがセンスである。

・リズムとは、「うねり」であると同時に「ビート」である。

・センスとは、ものごとのリズムを、生成変化のうねりとして、なおかつ存在/不在のビートとして、という二つの感覚で捉えることである

 本書ではそのことを、ラウシェンバーグの絵画(表紙)や餃子の味、ゴダールの映画などを例に出して解説しており、とてもわかりやすい。

 正直言って読む前は、「これがセンスなんだぜ」みたいな内容の、なんかイヤらしい、センス見せびらかし本だったらどうしよう、という懸念はゼロではなかったけれど、実際に読んだら全然そんな内容ではなくてよかった。著者がそういうタイプの書き手でないことはとっくにわかってるんだけども。

 著者の作品のうち、『勉強の哲学』『現代思想入門』、そして本書『センスの哲学』は入門書的な一種のシリーズをなしており、それぞれ「思考」「倫理」そして「美的判断」の問題を扱っているという。いずれも意欲のある中高生くらいなら読み通せそうなくらい読みやすく、それゆえ難解な哲学書にはまるで歯が立たない自分でもそれなりにスムーズに読み通すことができる。ありがたいことである。
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 センスとはリズムである、というひとつの考え方は、かなり納得性が高いのだけれど、それを自分の言葉で、説得力のある形で説明しようとすると難しい。

 まずは忠実な再現を目指すのをやめて「ヘタウマ」になること。そしてあらゆるものを意味以前の「有と無」「1と0」の増減というリズムに還元してとらえること。ガッと増えるとか、ちょぼちょぼ減っていくとか、そういう変化を感じること。

 なにかを創作するうえで、心地よいリズムでものを配置すれば、心地よい作品になる。しかしあえて心地よさを裏切ることも、多くの場合必要になる。ちょっとズラすことで見る人をハラハラさせて、また安定に戻る。フィクションにおける「サスペンス」。音楽における「解決」。反復性と、そこからの逸脱。

 リズムをとらえるために、いったん「意味」を度外視する。映画で言えば、ストーリーやテーマではなく、映像や音の配置や繋ぎに注目する。

 だからって、リズムが大事でテーマなんてどうでもいい、みたいな話ではない。意味とは言葉である。言葉には近さがある。「りんご」と「赤」は近い、とか。そうやって意味をとらえれば、意味の配置にもリズムを見出すことができる。

 あらゆるものをリズムでとらえることで、あらゆるものを芸術として同じ平面でとらえることが可能になる。

 うん、やっぱり難しい。



 「欠如」についての議論や、予測誤差の話は、先日読んだ『イルカと否定神学』に通じていると感じた。ポストモダン思想を扱っていること、そしてそれを現代科学と接続しようとしているという点で、どちらの本も同じような方向を向いているのかもしれない。

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 作品を鑑賞する際に「感動を半分に抑え、ささいな部分を言葉にする」というテクニックは、今日からでもすぐに使えそう。

 大意味をいったん保留し、部分部分を見ていく。すると、いろんな小意味のうねりが見えてきます。なおかつ、感動したとか、悲惨な話だったとか、大きく心を動かされる麺もある。
 感動を半分に抑えておいてから、あとで解除する。

何らかの作品について、その部分から部分へと目を遊ばせて、何か思うところがあって、それを言葉にし、でも全体として何が言いたいのかという結論がなくても、十分に「批評」だと言えます。それは、批評という「作品」です。文学です。

 運動におけるセンスもリズムなのだろうか、と考えてみたが、100%ではないにせよ、リズムの要素はかなり強いのではないか。

 運動、というと人は無意識に「力を入れること」ばかり意識してしまうが、「力を抜くこと」の重要さはあらゆるスポーツなどで強調されている。

 筋トレするにせよ、正しいフォームを作るには力の抜き方も重要になるし、特定の部位に効かせたいときに、他の部位に力みがあると上手くいかない。

 適切なタイミング、適切な強度で身体の部位を動かすこと、つまりリズムよく体を動かすことが、運動神経=運動のセンスだと言えるのかも。

 他にも、
・散歩が心地いいのは、意味がバラバラの風景がリズム的に五感に働きかけてくるからではないか。
・人間が人間の肉体に美を感じる理由も、リズムに還元できるのだろうか?

 みたいなことも考えた。



 昨今はフィクション作品における「考察」がSNS上などでブームである。考察とは、様々な描写に「意味」を見出そうとする行為であって、作品のリズムを味わう鑑賞法とは真逆であるように見える。

 そういった風潮に対して、作品を作品として味わえないのは間違ってる、みたいな、退廃を嘆く的ポーズをとるのはたやすい。でもそれは早計じゃないか。

 考察が、つまり意味が氾濫するのは、意味が伝達しやすく、リズムは伝達しづらい、という単純な効率の問題なのではないか。

 ある作品のリズムを味わうためには、実際に実物の作品を味わうしかない。言葉で伝えようとしてもどうしても限界がある。一方考察は、ネットを介した拡散・伝播に非常に適している。理由はもちろん、意味は言葉だから。

 別に考察は堕落ではなく、より効率よく作品を楽しもうという欲望が駆動し、ネットがそれを加速させているだけなのだろう。それがもたらす良し悪しは別として。

 というようなことも考えた。あまり本書の内容とは関係ないかもしれないけれども。



 著者は「仮固定」というキーワードをよく用いるが、本書もまた、「センスとはリズムである」と断言するというより、センスをリズムとしてとらえること、その効果・効用を解説する、というスタンスに近い。そしてその先の「アンチセンス」の可能性にも言及している。

センスは、アンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか。

 センスとアンチセンスすらもリズムとしてとらえられるようになるんだろうか。あるいは中島敦の『名人伝』のように、センスを突き抜けた先に、センスもアンチセンスも無い世界があったりするんだろうか。そうだったら面白い。