rhの読書録

読んだ本の感想など

イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか / 斎藤環

 「オープンダイアローグ」という精神療法について書かれた本。

 オープンダイアローグとは、精神疾患を発症した患者の元に、医療スタッフ、患者の関係者が集まって「開かれた対話」をすることで、症状が緩和され、治療効果がある、というものらしい。

 そして本書は、オープンダイアローグが「なぜ効くのか」という問いを、思想・哲学的なアプローチで問うている本である。

 と書くと、なんだか、すごくむずかしそう、と思われるかもしれない。

 大丈夫(?)、自分もあまりよくわかっていない。

 自分はこれまで著者の斎藤環氏の本を少しばかり読んできたけれど、精神医療も思想・哲学も完全なるシロウト。だから専門的なことはよくわからない。ただ「なんだかすごく大切なことを言っている感じがする」という感覚だけを頼りに読んできた。

 本書も、精神療法および哲学的議論が中心で、一見するとあまりシロウトには関係の無い本に見える。

 でも、読んでいくうちに、「コミュニケーションとはなにか」「優れた小説はどのように生まれるのか」「言葉を使うとはどういうことか」みたいな、新しいものの見方が頭の中に浮かんできて、著者のこれまでの著作と同様、あるいはそれ以上に実にエキサイティングだった。

 なお理論よりも先にオープンダイアローグの実践について学びたいのであれば、同著者の『オープンダイアローグとは何か』を読んだほうがよいと思われる。というか自分が、本書を読んでいる途中で「先にオープンダイアローグの実践について知っておいたほうがいいな」と気づき、そちらにも目を通した。


 なぜ対話によって精神疾患が治るのか? それはコンテクストの組み換えが起こるから。ベイトソンの理論における、「学習Ⅱの組み換え」に相当する、「学習Ⅲ」が起こるから。ラカン理論でいうところの、言語の否定神学性によって。

 本書の提示する説をまとめようとすると、どうしてもこれくらいが自分の力量の限界になる。なので詳しいことはどうか直接本書を読んでいただきたい。

 しかし読めば読むほど、どうしてだれも「対話」という優れた方法を思いつかなかったんだろう、という気分になる。逆になぜ、フロイト式の「分析者が被分析者を導く」というスタイルの精神分析療法のほうが先に出てきたのか。父性主義的な、あるいはキリスト教的なものの影響があったのか、なんてことまで考えてしまう。

 精神分析療法そのものは、ほとんど前時代のものになったそうだが、精神分析の理論そのものは、人間の欲望の「構造」といったものを語る上で、いまだに鋭い切れ味を発揮する。著者は精神分析をオープンダイアローグと接続することで「サルベージ」しようとする。


 言語は非記号的であり、確定的な意味は無い、というのが構造主義、あるいはポストモダン的な立場と言っていいだろう。

 しかしその不確定性こそが、回復のためにプラスに働く、という著者の説には、様々な可能性を感じずにはいられない。

 「言葉なんて信用できない」という安直な虚無主義に対しても「どうとでもなるからこそ言葉は役に立つ」という新たな価値観を打ち立てることはできやしないか。そんなことを考えてしまう。


 本書を読んでいて連想したのが「空論道」というアナログゲーム。なんとなくオープンダイアローグに似ている気がす。本質的には全然違うのかもしれないけれど。

ドロッセルマイヤーさんの空論道 - ドロッセルマイヤーズ Drosselmeyer's Board Game Mart

 お題となる2枚のカードを引き、お題にもっとも適うものを「議論」するというゲームなのだけれど、組み合わせによって非リアリズム的なシチュエーションになることがしばしばある。というかむしろそれを目指してデザインされたゲームである。例えば「無人島に持っていきたい」「寿司ネタ」は? とか「敵にまわしたくない」「文房具は?」など、いわば「妄想」じみたテーマについて侃々諤々議論するというゲーム。

 通常の議論やディベートは、ルールに沿って是非を問うものだけれど、空論道においては「お題に答えること」と「そもそもこのお題に何を意味するのか?」という問いが同時に議論されることになる。文房具を敵に回すってどうことだ? 殴り合うのか、それとも口喧嘩するのか? 筒井康隆の『虚構船団』みたいな感じ? などと。

 コンテクストと、そのメタ・コンテクストが、対話の中で同時に生成されていく。と言うとオープンダイアローグに似ているように感じるが、『オープンダイアローグとは何か』に書かれている実践を読むと、結構違うのかもしれない。


 自分もブログを書きながら、いつも言葉を使うことの難しさを感じてきた。もちろんプロとはレベルもスケールもまるで違うだろうけれども。

 一番難しいのは、言葉は使えば使うほど上手くなるものでは全然ないということ。

 楽器の演奏だとか、ゲームだとか、あるいは語学の習得でさえ、時間をかけて訓練すれば、それなりに技能が上達していく。技能が上達すると、やれることが増える。やれることが増えると、新しいステージに行ける。スピードや上限には個人差があるものの。

 でも言葉はそういうものじゃない。むしろ真逆といっていい。

 練習して上達可能なことは、身体性のカテゴリに入る。でも言語はそれ自体が構造を持ったシステムであり、身体に対するのと同じアプローチではかならずしも上手くいかない。そういうことなのかもしれない

 そんな「身体性」と「言語」を繋ぐ方法、そのヒントも本書にはある、ような気がする。さっきから「気がする」みたいなことばかり言っていて申し訳ないけれど。

 言語における習熟は、ベイトソンの理論における学習Ⅲに該当するのではないか。より多くの「小さな真理」を取り入れることであり、コンテクストを自在に着脱するためのメタコンテクストを幅広くしていくことなのではないか。

 書くこともまた、モノローグではなく、対話でありうるのではないか。自分の中にある複数の声との対話によって、新たなコンテクストを立ち上げていくプロセスとしての「書くこと」。

 身体性、特に声が持つ重要性については、いまだにラジオというメディアが一定の地位をキープしていることや、VTuber・ストリーマーが人気を博していることとも何か関連しているように思える。映像は見続けなければ内容がわからないが、声は自分の生活と重ね合わせることができる。

 國分功一郎『中動態の世界』への言及もあり、そちらの議論に興味がある人にも本書は要チェックかもしれない。治療者と患者、治すものと治されるものを分けずに、対話を生起させることを目指すという態度が、中動態的である、と。


 いつも以上に支離滅裂な読書感想を書いてしまったかもしれない。自分の言語化能力が追いついていないのをひしひしと感じる。でも今までの自分の中にない、新しいことについて語ろうとしたら、しどろもどろで、つっかえつっかえにならざるをえないものなのではないだろうか。と、そう考えて自分を慰めることにする。もっと精進していきたい。