rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

人生パンク道場 / 町田康

人生パンク道場

人生パンク道場

 人生相談とはなんだろうか。

 人生に悩みを持った人が、誰かに質問する。そしてその誰かが答える。大枠で言えばそういうことである。ベリーシンプル。

 実際にその答えが悩みの解決に役立つかどうかは重要ではない。しかしだからといってどんなムチャクチャな回答でもいいというわけでもない。いや別にムチャクチャだって構わないんだけど。

 大切なのは悩みを解決することよりも、言葉のやり取りをすることであり、コミュニケーションすることなのだ。と、わかったようなことを言い切りたい気持ちもあるが、そうやってわかったようなわからないことを言うのが一番よくない。


 「人生」と「パンク」。並べてみると真逆の言葉であるようにも思える。

 そもそもパンクってなんなんだ、とか、町田康にとってのパンクってどういうものなんだ、ということを一瞬考えたくなるが、やはりそういう賢しらなことを考えるのは無意味であるようにも思う。


 さっきからこいつは何が言いたいんだ、と思われるかもしれないが、僕自身だってよくわからない。ただ思いついたことを書いているだけである。

 ただひとつ言い訳させていただくなら、僕はこの本をキチンと読んだ上で、一週間ほどいろいろ考えて、しかるのちにコレを書いているのであって、全くのデタラメを書いているわけではない。多分。

 思いつきでなにかをやる、というと、何事も計画を立てることが重要だとされている現代ではよくないことだとされがちだが、そもそも人が人生でつまづくのは、物事が計画通りに上手くいかないからだったりする。脳内で拵えた理想が現実とズレる。そこに苦しみが生じる。

 町田康は以前、「音楽を即興的に演奏することと小説を書くことは、自分の中では同じだ」というようなことを書いていた。いわばアドリブの天才なわけだ。

 人生には計画どおりに上手く行かないことが多々ある。情報は限られ、時間は無い。とっさの機転でその場をどう切り抜ければよいか、という疑問への回答者として、アドリブの天才たる町田康以上に適した人物はいない、のかもしれない。

 我々が見るべきは、回答そのものではなく、回答者としてのとっさの身のこなし、華麗なステップ、素早い切り返し、一瞬の急加速、といったような点なのではないかと思う。

 最後に、町田康は以前にも「人生を救え!」という人生相談本を出している。こちらも素晴らしいのでぜひ読んで欲しい。圧倒的、である。

人生を救え! (角川文庫)

人生を救え! (角川文庫)

僕たちのゲーム史 / さやわか

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

 『キャラの思考法』という本を本屋で見つけて、ちょっと面白そうだったのだが、ハードカバーは高いので同じ著者の新書であるこの『僕たちのゲーム史』の方を買って読み始めた。

 この本は、ゲーム(いわゆるコンピューターゲームを指す)が持つ「ボタンを押すと反応する」という(原則的に)不変な要素と、「物語をどう扱うか」という常に変化し続けてきた部分に着目しながらゲームの歴史を振り返る本である……というような通り一遍の説明は他の書評ブログなどにも書かれているのでそちらを参照していただきたい。丸投げ。


 ゲームと「物語」には密接な関係がある、ということは少しでもゲームをやったことがある人なら納得できることだろう。

 本書の帯に「スーパーマリオはアクションゲームではなかった!」と書かれているが、初代『スーパーマリオブラザーズ』の説明書には「このゲームは、右方向スクロールのファンタスティックアドベンチャーゲームです」と書いてある。アドベンチャー。つまり冒険物語である。

 しかし「テトリス」のようにストーリーが無いゲームもあるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。それはその通りである。しかしここで言う「物語」とは、「(勇者が魔王を倒す、というような)ゲームのストーリー」のみを指すのではなく、「ゲームを取り巻く言説・行動」をも含んでいる。

 その例として本書では「あるゲーム雑誌において、『ストリートファイターII』紹介記事としてライター同士の対戦会を「小説」として掲載した」という出来事を、「ゲームのプレイヤーを物語化した事例」として挙げている。

 そして本書では「ゲームのストーリー」と「ゲームを取り巻く言説・行動」という、似て非なる2つのものを、区別してはいるものの、あえて違いを強調するわけではなく、いわば並列に扱っている、ように見える。僕の読みが間違っていなければ。

 もし僕が本を書くとしたら、この二つに別々の言葉を当てて厳密に区別して使うと思うんだけど、筆者はどちらも同じ「物語」という言葉を使って説明している場面が多い。

 これは筆者の怠惰や手落ちというよりも、なんらかの意図をこめてのことなのではないかと感じられる。「物語評論家」という筆者の肩書を見ると特に。

 別の箇所で筆者は、「ゲームの領域を広げようとした試みは成功し、『これは単なるゲームではなく○○(芸術とか映画とか)だ』というような試みは失敗してきた」ということを指摘している。

 このことから、「ゲームにはストーリーが必要だ(必要ない)」というような、ゲームの領域を狭めるような議論を避けるために、あえて両者を区別しなかったのかもしれない。


 歴史、というものも、一種の物語である。個々の出来事は事実である(あらねばならない)が、それをどう描き、どう並べ、どうつなぎ合わせるかは、製作者の恣意次第だ。

 筆者が前書きで、本書に登場「しない」ゲームのタイトルを羅列しているのは、歴史というものを描く上で避けられない物語性・恣意性を明示するためだろう。もちろん、過去の全てのゲームを網羅して歴史を書くことなど不可能だ、という現実問題もあるが。

 そして本書が、ゲーム製作者の過去のインタビュー記事などを多く引用しているのも、そういった恣意性(「思い出補正」とか)をなるべく排除するためだろう。


 ゲームの歴史について書かれた本、というと、「ゲームとはなにか」という根源的な問いについての答えが書かれているのではないかと期待してしまう自分がどこかにいる。

 多くの人が「人生とはなにか」という問いを抱くのと同じように、多くのゲーマーは「ゲームとはなにか」という問いを抱くものなんじゃないかと思う。そしてその答えを出すことは大変に難しい。人生についてのそれと同じように。

 とかく人は本質を求めたがる。そしてそれゆえに事実を見誤る。

 そのような過ちを避けるために、本書では「○○の影響を受けて✕✕が産まれた」というような過度な結びつけを控えめにし、それぞれのゲームの特徴とその後の影響を俯瞰的に描いており、バランス感覚に優れていると感じる。

 その分「なるほど!」と感心するような部分があまり無かったが、世の中の本がみんなそんな本ばかりになっても困るし、これはこれでちょうどいい。むしろベター。

大人に質問! 「大人ってどのくらい大変なんですか?」 / みうらじゅん

大人に質問! 「大人ってどのくらい大変なんですか?」

大人に質問! 「大人ってどのくらい大変なんですか?」

  • 作者: みうらじゅん,児童館の子どもたち,一般財団法人児童健全育成推進財団,NPO法人アーティスト・イン・児童館
  • 出版社/メーカー: 飛鳥新社
  • 発売日: 2015/10/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る

質問
なんで大人もケンカするの? 9才・男(香川県)



喧嘩が始まる原因はさまざまですが、大概は嫉妬です
この世には羨ましがられてる人間と、羨ましがってる人間がいます。
前者はケンカをふっかけないのですが、ふっかけられることがあります。
それは「いや、おまえもすごいと思うよ」などと
思ってもいないフォローをするからです。

 本屋で試し読みした所、この部分にいたく感銘を受けたので思わず買った本。

 みうらじゅんの出ているNHKの番組「笑う洋楽展」を毎週見ているが、そこでも見受けられるような氏の魅力が満載である。

 実際に寄せられた子どもの質問にみうらじゅんが答える、という本なのだが、ズバリと本質を突くような回答と、ナンセンスの極みみたいな回答が混在している。

質問
なんで人は生きているの? 6才・男(福島県)



死んでない限り、
生物というものは必ず生きているからです。

 この本を読んで、人生の指針を得たと思うのか、それとも面白い本だと笑って済ますのかは、読む人次第だろう。そしてこの本は、そのどちらでもあるのだろう。この文を読んで「コイツ適当なこと言ってるな」と思ったアナタ、正解です。

 「まえがき」の

「なんで?」と、聞かれてもうまく答えられないことだってある。考えに考えた答を言った時、
大概、子どもは聞いていない。次の「なんで?」を言いたいだけだから。
でもこれだけは言っとくよ。真理はあっても人生に正解などないってことは。
ま、それでも聞いてくれないだろうけど。

 という文章が、この本の全てなのかもしれない。すなわち、回答の内容よりも、回答することそのものが大事なのだ、と。

 しかし子どもだからといって、テキトーに考えたテキトーな回答をしても、そのテキトーさは大抵子どもにバレてしまうものである。自分が子どもだった頃の記憶から言えば。

 その点みうらじゅんの回答は、一見テキトーなことばかり言っていないように見えるが、実際には本当のこと=真理しか言っていない。

 本当のこと、というと、真面目なこと、と決まりきっていると思うかもしれないが、実際はそうではなく、本当にもその場その場で違った本当があり、人それぞれの本当がある。

 みうらじゅんという人は、硬いもの、柔らかいもの、太いもの、細いもの、短いもの、長いもの、といった様々な本当を使い分けることが出来る人なのかもしれない。本当かどうかはわからないけど。

村上春樹は、むずかしい / 加藤典洋

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

 現代において、村上春樹、という名前は、ある特殊な響きを持っている。そして、その特殊さを的確に表現する力を、僕は持っていない。困ったぜ。しょうがないから表現できることだけを表現していこう。


 現代日本の小説家を思い浮かべるとき、多くの人の頭に最初に浮かぶのは「村上春樹」だろう。割合で言えば「村上春樹」が3割、「大江健三郎」と「石原慎太郎」を足して1割、「東野圭吾」「宮部みゆき」「池井戸潤」「百田尚樹」あたりを足して1割、残り5割が「誰も知らない」といったところだろうか。予想の正確性に自信は全く無いけど。

 「普段本を読まない人でも村上春樹の名前だけは知っている」という状況だけを見れば、彼は「国民作家」という(実態のよくわからない)言葉に最も近いポジションにいると言える。

 なぜそんなポジションにいるのか? という問いに答えを出そうとすると、それだけで本が一冊くらい書けるだろうし、やはりそれを書く力は僕には無い。

 本が売れるから。国民が「国民作家」という存在を潜在的に欲していて、メディアがそれを代弁してもてはやしているから。毎年ノーベル賞候補と目されているから。サリン事件を取材したりして、話題性があるから。

 実際のところはよくわからない。

 しかし少なくとも、「小説が優れているから」という印象はあまりない。

 いや、僕はなにも、村上春樹の小説が優れていないと言いたいわけじゃない。むしろ優れていると思っている。優れまくっている。僕がほぼ全作品を読んでいる小説家は村上春樹と町田康と高橋源一郎だけだ。ときどき読み返したくなるし。なんか言ってることがバカっぽいぞ。まぁいい。

 村上春樹の作品はスゴイ。でも、現在の村上春樹の知名度は、そのスゴさのみによってもたらされたものではなく、「話題が話題が呼ぶ」という形で雪だるま式に膨らんでいったものなのではないか、と、感じるのである。僕が。あくまで印象として。


 問題は、「村上春樹」というネームバリューの巨大さに対して、「村上春樹作品のどこが優れているか」という議論があまりに少なすぎることなのではないかと思う。

 もちろん批評家レベルでは大量の「村上春樹語り」が溢れている。しかし一般の、村上春樹は名前しか知らないというような人たちのレベルで言うならば、ノーベル賞の話題が出ることを考えれば、テレビのワイドショーで「村上春樹のココがすごい!」みたいな特集をやってもおかしくないのではないか。

 ではなぜ、村上春樹作品の優れたところを語る言説が少ないのか。それは「村上春樹は、むずかしい」からではないだろうか。というのは別に本書の主張というわけではなく、あくまで僕自身の想像なのだが。今回はやけに「あくまで」が多いな。


 なぜ村上春樹はむずかしいのか。本書の主張を思い切り噛み砕いて言うならば(あまり噛み砕かない言い方については他の方のレビューなどを参照していただきたい)「この世界との(人間社会との)向き合い方についての真摯な問いかけが、巧妙に隠されているから」という感じになるだろうか。

 よく初期の作品は「デタッチメント」と形容されることが多いが、実際はそうではなく、「否定性」の行方をはっきりと捉えた、当時の時代性を切り取った作品だ、と本書の筆者は言う。

 文学はいまやこの種の近代型の「否定性」だけでは生きていけないことを大きく過去に見開かれた目で見通し、低い声で語っていた。(「Ⅰ 否定性と悲哀 2 「新しい天使」と風の歌」より)

 「否定性」とはなにか、ということをこれまた大雑把に説明するならば(詳細な説明は本書を読んでいただきたい)、文字通り「なにかを否定すること」を指す。

 かつて文学は、家父長制の「父」を、戦争を、国家を、金持ちを、その他多くの「否定的なもの」を否定することによって、初めて成り立つことができた。それを象徴するのが、「風の歌を聴け」における鼠のセリフ「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」だった。

 しかし経済発展を成し遂げた日本では、そのような否定性は没落する運命にある。その後の「羊三部作」における鼠の末路のように。

 そして代わりに台頭するのが、架空の小説家デレク・ハートフィールドの著作である「気分が良くて何が悪い?」という言葉に象徴されるような「肯定的なもの(金・酒・いい車など)」の肯定であろう。

 ということを、「否定性の没落」という形で描いたのが村上春樹であり、同時期に、「肯定性の台頭」を高らかに歌い上げたのが、村上龍であった、と筆者は言う。


 同じような調子で、村上春樹作品がいかに社会に目を向けて書かれたものであるかを、筆者は丁寧に解き明かしていく。

 その論旨自体は、おそらく筆者の過去の村上春樹関連書籍と被っている部分も多いと思われるが(手元に無いので確認できないのです)、話がコンパクトにまとまっている分、過去の著作よりも読みやすいと感じた。

rhbiyori.hatenablog.jp
rhbiyori.hatenablog.jp

 純粋に慧眼であることももちろんだが、筆者のようにひとつのことを(この場合は「村上春樹」のことを)何十年もかけてじっくりと考えている人というのは、現代のように変化の激しい時代においてはとても貴重なのではないか、というようなことを読みながら思ったりもした。

鬱ごはん / 施川ユウキ

鬱ごはん(1) (ヤングチャンピオン烈コミックス)

鬱ごはん(1) (ヤングチャンピオン烈コミックス)

 なぜ人は食事をするのか? そりゃお腹が空くからに決まってる。しかしもちろん食事とは単なる栄養摂取ではなく、社会的・文化的な営為でもある。

 毎日家族と食事をしていると、そこに習慣が生まれる。僕自身、日常的に料理を作ってくれる家族がいるので、食事について考えなければいけない時間は大幅に短縮されている。ありがたいことに。

 しかし一人暮らしの人は、自分で自分の食事を全て決めなければならない。マネージし、コーディネートしなければならない。なぜ横文字を使いたくなったのかはよくわからない。

 このマンガの主人公鬱野たけしのような自意識過剰の男の場合、その食事風景もまた、自意識過剰な感じになってしまうことは避けられない。

 自意識過剰な男の自虐あるある、みたいな小説・マンガは昔から多いが、このマンガのように、そこに食事という要素を絡めたものは珍しいかもしれない。

 自意識過剰な人は、目的に向かって淡々と行動するということがうまくできない。なにかするたびに細かいことが気になってしまい、それに心がとらわれ、そのせいで動きが不自然にぎくしゃくしてしまう。

 このマンガを読んで爆笑するか、それともしみじみと共感するかどうかが、自意識過剰か否かの分かれ目だと思う。

 僕など最近は、自意識過剰になるほどの敏感さも無くなってきたので、読みながら「もっと普通にちゃんとやれよ」とつい思ってしまったりしたのが、なんだか寂しくもあるようなよくわかんないような感じだ。よくわかんないことを言って申し訳ない。

 リア充でなくては生きられない、絆がなくては生きられない、そんな風潮が今の世の中にあるように感じるのは、僕の中にもまだ自意識過剰さが残っているせいだろうか。

 リア充でなくても、絆がなくても、人は生きていくし、生きるためには食べなくてはいけない。このマンガは、そんな現実を、目を逸らすこと無く見つめたマンガなのかもしれない。ほんとうの意味で現実を見つめている作品は、とても稀有で貴重なものである。

適当日記 / 高田純次

適当教典 (河出文庫)

適当教典 (河出文庫)

 高田純次の人生相談本。

 多くの方がご存知である通り、高田純次は適当である。

 最近、高田純次のファンである家族と一緒に、録画した「じゅん散歩」を見ることがあるのだが、やっぱり適当。

 中年の女性を見かけるたびに「女子大生ですか?」などと声をかけ、幼稚園児に「みんなはビール飲むの?」と質問をする。やりたい放題である。

 本書にも、その「テキトーエキス」が随所にちりばめられている。というよりも、全編適当であると言ったほうがいいだろう。

 できる後輩は全力で潰せ、日曜に遊びたがる子どもには「うすーい睡眠薬」を飲ませて寝かせろ、良いアニメを作るには『人間交差点』からパクれ、など、言いたい放題である。


 高田純次の「適当」とは、くだらないこと、その場の思いつきのようなこと、失礼なことを平然と言ってしまう・やってしまう、という点にある。

 普通の人がそのような行為をすれば、他人からバカにされたり軽蔑されたりするわけだが、なぜ高田純次はそうならないかというと、それらの行為がいずれも「確固たる信念」みたいなものに全く裏打ちされていないからであり、全然本気じゃないからであろう。要するに、適当だから、だ。

 どんな誹謗中傷でも、どんなインモラルなことでも、「適当」でさえあれば、いくら発言しても許されるのだとすれば、もしかすると「適当」ってすごい発明なのかもしれない。よくわかんないけど。

 もうひとつ付け加えておくならば、ある種のジョークには、あえて常識を踏み外すことで、逆説的に常識というものを確認する、という機能がある。

 幼稚園児に「ビール飲む?」がジョークとして成立するのは、言うまでもなく、幼稚園児はビールを飲んではいけないからである。そのことを、あえて言うことで、確認する。

 そのようなジョークを連発できる高田純次は、つまり常識というものを常にわきまえているわけで、だからこそ視聴者に安心感を与えることができるのかもしれない。多分。

 ついでに言うならば、高田純次に対して「適当」という、ある種失礼な呼称をしている時点で、我々も既に高田純次ワールドに巻き込まれているのである。あな恐ろしや。


 高田純次の「適当」は、言うまでもなく「キャラ」である。しかしこの人の場合、キャラと本音が高度にミックスしていて、もはや区別がつかなくなっているように見える。あくまでも視聴者目線で言えば。

 適当キャラはもはや完成の域に達しているかに見えるが、同時にオシャレで車好きな芸能事務所社長でもある彼が、本当のところなにを考えているのかは我々には想像できない。交友関係が広いようなので、おそらく悪い人ではないんだな、などと予想しているが。

 まぁそんな細かいことまで考えずとも、純粋にエンターテイメントとしての「適当」をエンジョイすればいいのかもしれない。そういう心構えで読めば、最高に面白い本である。

最終兵器彼女 / 高橋しん

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

 いわゆる戦闘美少女もの(©斎藤環)ということで、昔に一度読もうとしたことがあったのだが、挫折した。

 なぜ挫折したか。1ページ目からコテコテの恋愛マンガで、キッツイな、と思ったからである。

 最近になって久しぶりに斎藤環の本を読み*1、さらに最終兵器彼女に関するブログ記事を読んだ*2のを機会に、もう一度挑戦してみようと思い、読んでみたら、なんとか読めた。

 二つの意味で、読むのがしんどかった。でも、心に残るマンガだった。

 しんどかった理由その1は、設定があまりにご都合主義に見えたから。

 あらゆる設定が、シュウジとちせの二人の恋愛を盛り上げるために存在するような感じ。先輩であるテツの彼女ふゆみと二股関係になるシュウジ。その憧れの先輩といい感じになるちせ。なんだそりゃ。ベタか。ベタ・オブ・ベタか。

 戦争ですら、二人を盛り上げるための小道具のように見える。ちせが兵器になっていくというのも、セカチューのような「恋人死んじゃう系」の亜種に見えなくもない。

 だいたい戦争が起こってる理由を作中でキチンと説明しないのはなんでなんだ。作者にそういう戦争考証やSF考証をする能力が無いからなのか。あるいはあえて暗示的にすることで読者の深読みを誘おうという作戦か。エヴァンゲリオン的な。


 しんどかった理由その2は、ストーリーが重たいから。

 とにかく人が死ぬ。シュウジに密かに好意を抱いていたクラスメイトのアケミが、シュウジの腕の中で死んでいく。シュウジの先輩テツ(すげーいい人)が、ちせの腕の中で死んでいく。死、看取りすぎ。まるで北斗の拳のようだ。そりゃ人が死ねば読んでる人は心揺さぶられるだろうよ。

 結局最後はみんな死んで、シュウジとちせの二人きりになる。ここもまぁご都合主義と言えばご都合主義だがまだ許容範囲。しかし重いよ。全員死亡って。


 と、散々悪口じみたことを書いてきたが、しかしこれらの欠点・粗がありつつも、それでも心にずっしりと残る何かがこの作品にはあった。

 そしてその「何か」の正体が一体なんなのがわからず、ずーっとモヤモヤしていた。

 あまりにもモヤモヤが収まらないので、仕方なくインターネットの力を借りることにした。「最終兵器彼女」でキーワード検索した。そしてそこで見つけた、この作品の解説をしているとある動画を見たことで、ようやく自分の感じた「何か」の正体が分かった気がした。どんな動画だったのかは、まぁなんというか色々とアレなので、深く聞かないで欲しい。


 まずこのマンガ、恋愛描写が極めて高度なのだ。吹き出しや書き文字、フォントの使い分け。キャラクターのデフォルメ。シリアスとコメディの切り替え。全てにおいて計算し尽くされており、恋愛を描く上で最強のツールである少女マンガの手法を用いた、高水準の表現を成しえている。

 シュウジとちせの恋愛における心の機微の描写もとにかく細密で、その細密さとリアリティは、「描写の極北」とでも呼ぶべき域まで達している。

 心象風景では空白を多用し、対照的に現実場面では細密な画風を用いるなど、単になんとなく描くのではなく、随所に的確なテクニックが用いられている。

 また当時としては先進的だったコンピューターグラフィックを使った表現が上手く、レイヤーを重ねることでガラスの写り込みを表現するなど、単なるCGの乱用ではない、CGならではの描き方をキチンと使いこなしている。

 戦争や地球の運命といった核心部分こそぼかされているが、実は暴力・残酷描写もかなり的確で、死に際のアケミをシュウジが抱え上げる時に固まった血が「べりっ」と剥がれるシーンを、ある評論家が絶賛していた。

 要するに、このマンガ、マンガとしてものすごく「上手」なのだ。


 ではなぜそんな上手なマンガが、最初に書いたような瑕疵を抱えることになったのだろう?

 作者はあとがきで、「最終兵器」と「彼女」という単語をくっつけたらどうなるだろうというところから着想を得た、と書いている。また、思春期の狭かった世界を描こうとした、というようなことも言っている。

 作者は、思春期ならではの、独善的な、二人だけが世界の全てであるような、ある種ご都合主義的な恋愛をこそ、描きたかったのではないか。

 そのような恋愛を描くためにあえて、そのような恋愛が持つ強引さと同じような手つきで、最終兵器という設定や、戦争という背景を半ば強引に借りてきたのではないか。

 その作者の意図は、ちせの体からミサイルがこぼれ落ちるシーンを見ると、よくわかるのではないかと思う。

 一度目は、自転車の荷台に乗るちせの服の間から、二度目は、試着室のカーテン越しにシルエットで。いずれも具体的にどのような仕組みでちせの体からミサイルが生成あるいは排出されているのかは、意図的に明らかに隠蔽されている(「明らかに隠蔽」ってなんかおかしいな)。

 作者の画力を持ってすれば、その部分を細密に描いて物語に重厚性を出すことは可能だったし、はっきり言ってその方がマンガとしては面白くなったと思う。でもそうしなかった。つまり隠すことそのものに意味があった。

 その意味とは、青春の独善性と、作品との独善性を重ね合わせることで、作品そのものに青春性を持たせること、だったのではないか。


 青春な作品は、青春な人ほど刺さる。実際、この作品の熱心な読者は10代が多かったらしい。あとがきでは「大学生や社会人に受けいられるようにあえて性描写を入れた」と書いているが、おそらくそれは建前だろう。この手の描写は初心な十代ほど記憶に残る。大人になったら「ふーん」という感じにしかならない。思えば僕も、小さい頃読んだ「お〜い!竜馬」の裸シーンで興奮したけど、高校生くらいになって読み返してみたら「こんなんで興奮してたのか」と驚いた、なんてことがあったなぁ。え? そんな話聞いてない?

 あとがきには「この作品はある時期が来たら読めなくなると思うので、そうなったら人に譲ってください」というようなことも書いている。もしかしたら作者はこの漫画を、中高生向きの「裏課題図書」のような作品にしたかったのかもしれない。

 赤裸々な恋愛描写と過激な残酷描写で、読んだ人の心を揺さぶる。でも一定以上の大人が読むと「それってあざとくね?」と感じる。そのように意図して描かれたのがこのマンガなのではないだろうか。その意図自体があざといんじゃないかと思う向きもあるだろうが。

 かつてはある種の文学作品が、そのようなポジションを担っていたのだろうと思う。太宰治とか。太宰はちょっと違うかな? 島崎藤村とかかな。読んだことないけど。ノルウェイの森とかもそうかな。

 ちなみにこのマンガを読んであまりの鬱展開にハートブレイクした人は、このマンガのアンサイクロペディアを読むことをオススメする。一周回ってギャグ漫画なんじゃないかという気がしてくるから。「シュウちゃんのこっこほしいよぉ」って、冷静に考えたらギャグだよなぁ。