rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ウィー・アー・ザ・ワールドの呪い / 西寺郷太

 西寺郷太のことはライムスター宇多丸のラジオ番組で知った。『アフターシックスジャンクション』で彼が担当する特集コーナー「洋楽スーパースター列伝」は例外なく面白いのでぜひPodcastなどで聴いてみて欲しい。「ウィー・アー・ザ・ワールド総選挙2020」は本書の内容と最も近しい特集となっている。

 筆者が愛するアメリカンポップの歴史と、ウィー・アー・ザ・ワールド成立の経緯を新書サイズにまとめた本。

 前半のアメリカにおけるポピュラーミュージック成立の流れの箇所は、歴史の教科書的に固有名詞が出てくるので読み進めるのに苦労したが、話がウィー・アー・ザ・ワールドに差し掛かると筆者のテンションもぐっと上がり引き込まれた。

 稀代の大スター達による夢の共演をただ賛美するだけでなく、様々な側面を描いているのが本書の特徴。

 タイトルの「ウィー・アー・ザ・ワールドの呪い」は、1985年に楽曲に参加した多くのミュージシャンが、その後キャリアの下り坂を迎えている、という筆者提唱の説。

 実際のところそれは印象的なタイトルをつけるための惹句、パンチラインを作るために援用された概念という印象があり、本書のメインテーマは微細に渡る「ウィー・アー・ザ・ワールド描写そのものであると感じた。

 例えばバックトラックが非常にシンプルであることを指摘している。当時のアメリカ、ひいては世界を代表する「歌うま」達がその歌唱力を存分に発揮しているためその影に隠れがちだが、本曲のインストは良く言えばクセが無く、悪く言えば聞きどころが特に無い。

 もちろん歌を引き立てるために一流制作陣があえてそのようにアレンジしたわけだけれど、どうも個人的に繰り返し聴取をする気が起こらない「聞き減り」する曲だと感じていた理由がわかった気がする。

 白人主導だった『バンドエイド』に対し、クインシー・ジョーンズ、ライオネル・リッチー、マイケル・ジャクソンといった黒人が主体となり、ボーカルのバランスも白人と黒人がほぼ同数になるよう配置された、という指摘は日本向けの情報ではあまり見られないものだ。

 あの夜の熱気を、ただの「いい話」くっきりと浮かび上がらせてくれる、いわばドキュメンタリー小説のような読後感だった。



 We Are the Worldのちょっと後に生まれた自分が最初にこの曲を知ったのはいつ頃だろう。確か中学の英語の授業で聴いたのが初めてだった気がする。高校の時に部活で歌った。

 マイケル・ジャクソンは当時からスターだった。ただしゴシップ込みで。コント番組『ワンナイ』のキャラクター「ゴリケル・ジャクソン」を今でも鮮明に覚えている。今のコンプラでは絶対に放送できない内容だった。

 対照的にライオネル・リッチーは当時の日本の若者の知名度はほとんどなかったように思える。

 フォークソングの代名詞ボブ・ディラン、缶コーヒー「FIRE」のCMに出たスティービー・ワンダーあたりは「大御所」的なポジション。

 自分が洋楽を聴き始めた2000年代前半はすっかりオルタナティブ・ロックの時代であり、80年代ポップスは過去のもの、ありていに言えばダサいものですらあった。肩パッドつきの極彩色の服でクネクネ踊る男女。少なくとも自分にとってはそんなようなものでしかなかった。

 ただジャーニーは家にCDがあったのでそこそこ聴いていた。結構後にドラマ『glee』で再注目されたのも懐かしい。

 そんな自分に80年代ポップスを伝導してくれたものはいろいろあるが、決定的なものはゲーム『メタルギアソリッドV』だった。設定年代である1984年頃の楽曲をゲーム内のカセット・テープで聴くことができたのだ。

 ホール・アンド・オーツ『Maneater』。カジャグーグー『Too Shy』。A-ha『Take on me』はあまりに良かったのですぐにCDを買いに行った。ファッションやメッセージ性はともあれ、とにかく曲がいい。80年代ポップスに対する印象がそのように変わった。

 その後2010年代に入り白人中心のロックが退潮し黒人音楽がモードの時代が続いた、らしい。

 サブスク時代に入った現代はどうなっているのだろう。もはや音楽の流行を総括的に捉えるのはかなり難しくなっているのかもしれない。

タテの国 / 田中空

 はてブで見かけたマンガ「タテの国」を一気読みしてしまった。自分にしては珍しく、ネットの評価を見る前に感想を書けそうなので書く。

shonenjumpplus.com

 「2001年宇宙の旅(wikiや映画紹介本であらすじだけ知ってる)」のオマージュであり、おそらく「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(読んだ)」と、もしかしたら某ゲーム(ネタバレ防止のため名前を伏せる)へのオマージュでもあると思う。あと序盤の設定は「グラビティデイズ」っぽい。

 かなりテクニカルなSF。というか自分のような造詣の浅い者からすると、こういうのってもう科学的なファンタジーだよね、という印象を常々持っているのだけれど、本作に関しては設定的な納得性はあるので特に問題は感じなかった。

 各話にラストの「ヒキ」があり、読む人を引き付けるのが上手い。常に目標が示されるため読んでいて詰まりにくい。通して読むと若干胃もたれ気味ではあるけれど(何回落ちるねん、と心のなかでツッコんだこと多数)、全120話に対応した少なくとも119通りのヒキを用意したのは感嘆すべきこと。

 さらにジャンプ+作品らしく随所に少年漫画的文法が用いられており、アツい展開が多い。ベースが少年少女の冒険物なので、わかりやすさが担保されている。

 唐突なメタギャグが入ることが3ヶ所ほどあり、なにかの伏線なのではないかと深読みしてしまったが、特にそういうわけではなかった。

 読み始めは、行き当たりばったりでどんどん設定盛ってるんじゃないかとちょっと疑念に思ったけれど、すべて読み通してみると、おそらく綿密に計算されていたのだろうという印象に変わった。作者は元々漫画原作をやっていた人とのことで、おそらく間違いない。



 確かに「読める漫画」ではある。読みやすい。引き込まれる。リーダビリティーが高い。

 ただ、単に「設定」と「漫画的文法」と「オマージュ」を叩きつけられただけという読後感が、今のところは拭えない。

 昔のオンナに似たオンナがいっぱいでてくる、という展開なんかは、それこそ源氏物語の時代から使い古されている定番中の定番だし。

 中盤のゴチャゴチャした展開にはこそむしろ文学性のようなもの、作者個人の情念のようなものを少し感じたが、終盤に至るにつれて保守的な方向に着地してしまったのがちょっと残念かな、と。

 もっと端的に言うと、こんだけ(作中の)世界がムチャクチャになるんだったら、最後もムチャクチャになって欲しかった。風呂敷を広げて畳すぎた、というか。

 これがもしハードなSF小説とかだったらそういう展開もあり得たかもしれない。自分はグレッグ・イーガンの短編くらいしか読んだことないからイメージで喋ってるけど。でも少年漫画としてはこれでよかったのかもしれない。

 というのは作品に瑕疵があるというよりも個人的な好悪の話であって難癖に近いものだとは思う。もっと時間が経ったら感想が変わるかもしれない。

哲子の部屋 Ⅰ: 哲学って、考えるって何? / NHK『哲子の部屋』制作班 國分功一郎

 たまに哲学の本を読むが別に哲学に詳しいわけじゃない。
 自発的に哲学の勉強をしているわけではないし、まして研究などというものとは無縁なので、一向に知識が深まることがない。今日も一般向けの哲学の入門を読んで、ああ面白いなと思ってそれで終わり。
 そんなんでいいのか、と思う反面、うっかりなにかの研究にハマりすぎて不幸になる人もいるという話を聞くので、その程度の場所でとどまっているのがちょうどいいのかもしれない。

 人は考えようとして考えるわけではない。何かを考えざるをえないような事態が起こった時に、初めて考え始めるのだ。
 というようなことが今日読んだ本には書かれていた。

 ちょうど同じようなことを考えていたので心に刺さった。
 今まで10年くらいブログを書いてきたが、「書こうと思って書いた」という感覚はあまり無く、むしろ「書かなきゃいけないことが湧いてきてそれを書き留めるのに必死だった」という感覚で書いたものの方が、自分から見てクオリティが高かったと感じる。
 別に、書きたいことが湯水のように湧いてきて困る、という話でない。
 なんというか言葉にするのが難しいのだけれど、このことは自分が書くしかない、書かざるを得ない、という感覚になった時が、一番最も良く書ける。
 しかしそんなことは滅多に無く、普段は「ブログ書きたいけど書くことがないなぁ」という気分で過ごしている時間の方が圧倒的に長い。でもなにか書きたいので意識上に登っているテーマをなんとかひねり出す。だからそんなに満足が得られない。
 今やっていることがスムーズに行っているときほど、むしろ書くことが無く、逆になにか問題が発生したときのほうがそれをネタにして書きやすかったりする、というのも困りもの。なので「こうすればブログを書ける」というセオリーが未だに見つけられずにいる。

 そんなことを考えていた時にこの本と出会った。書きたいから書くのではない、という自分の感覚は多分それなりに正しいのだろう。そのことを認識できてよかった。だから哲学の本を読むのは面白い。

ゴールデンカムイ(連載版)を読んだ感想

 「となりのヤングジャンプ」で無料開放していた漫画『ゴールデンカムイ』。一週間くらい前に2日がかりで全部読んだ。

 あれだけの作品なので咀嚼するのに時間がかかったが、そろそろかるーく感想を書きたい。



 アイヌ文化に材を取りつつ、財宝を巡るスペクタルや、変態すぎて魅力的すぎる悪役、狩猟文化ならではのグルメなどを多面的に描いて読み応えが抜群。

 勧善懲悪要素がやや薄く、登場人物それぞれがそれぞれの利益のために動いている。そのバランス感覚がいっそ気持ちいい。

 終盤のカタルシスも見事。強いて言えば杉元と鶴見中尉との決着にはもうちょっと因縁とその解決があって欲しかった。因縁ありまくりのアシリパと比べると「道中でさんざん苦しめられた」くらいの印象しか個人的には感じなかったので。



 上手いな、と感じたのは例えばアシリパの成長の描写として「正座をして話し合う」姿を描いたところ。実際に明治時代のアイヌの描写として正しいのかはわからないが絵的にすごくわかりやすい。

 アシリパの父の徹底した「目的至上主義」とでも呼ぶべき行動も強く印象に残る。

 決して悪人ではないが終始やっていることがエグすぎてどちらかというとサイコパスな印象が強い。瞳孔が開いた目がヤバさを物語っているよう。



 ひとりひとりの過去から行動原理を描くスタイルは鬼滅の刃に似ている。図らずも時勢に合致してしまったあたりも共通している。まだまだ人気が出そう。

 これだけのスケールと多面性を持った作品なので、単一の主義主張だけを取り上げようとするのは不適当だと感じる。まぁ、あらゆる優れた作品はみんな同様なんだけども。

ティンブクトゥ / ポール・オースター

ティンブクトゥ (新潮文庫)

 柴田元幸翻訳の小説を読んでみよう、とだいぶ前に買っておいたこの本。しばらくぶりに手に取り読み進めたら、ハマった。

 (文庫版の)30ページあたりから、主人公であり犬の「ミスター・ボーンズ」の飼い主である「ウィリー」のことが、すっかり好きになってしまい、そこから最後まで止まらなかった。

 現代的な観点から言えば「わりとダメな人」に分類されるであろうウィリーであるが、戦災を逃れポーランドからアメリカに流れ着いたユダヤ人の元で、生まれも育ちもアメリカという生い立ちを持ち、生来の「凝り性」的人間性を持って詩と放浪に生きた男である。

 読んでいるうちに気がつけばそんな彼を好きになっていた。文学的なマジックとでも呼ぶべき筆力によって。

 かつては文学の話をするときに、人間を描けているとか描けていないとかいった議論があって、結局そういう議論はあんまり意味がないんじゃないかみたいな歴史的な流れになったわけだけれど、それはそれとして、この小説は圧倒的に「人間が描けている」。し、犬も描けている。

 しかしこの小説は、そんな波乱万丈なウィリーの半生を、ミスター・ボーンズの視点から描くだけに留まらない。留まらずに、更にその先に行こうとする。上でも下でもなく。

 それがこの物語を、単なる犬が主役の感動物語に留まらせないだけの幅と奥行きを生んでいる。それはそれとして、ラストが取ってつけたような印象がなくはなかったけど。


 ティンブクトゥとは西暦1500年頃に栄えたアフリカのマリにある地域のことであり、英語で「世界の果て」を意味する単語、とのことである。

www.asahi.com

 おそらく日本人にとっての「天竺(ガンダーラ)」みたいなイメージが、欧米人にとってはあるんだろうと想像している。時間のスケールは天竺のほうが古いけども。

赤瀬川原平の名画読本 / 赤瀬川原平

 絵画のことがわからない。正直に言って、さっぱりわからない。人はなぜ絵を描き絵を観るのか。

 今まで絵画というものと無縁の人生を送ってきた。一度だけ、散歩中にたまたま見つけた「フランシス・ベーコン展」に入ったことがあるが、それとて、ある批評家がベーコンについて書いていたのを読んだことがあったからで、絵画そのものに興味があったわけではない。高校の部活でフランスの美術館ツアーに行ったこともあったが、日程が詰め込みすぎてほとんど記憶が無かったりする。実にもったいない。

 そんな自分がたまたま古本屋で見つけたのが『赤瀬川原平の名画読本』。筆者は芥川賞作家で「超芸術トマソン」の提唱者、という程度の知識で読み始めた。

 すごく良かった。ものすごく良かった。

 まず、絵画のことがわからない人が最初に抱くであろう「なぜ絵画を鑑賞するのか」という疑問に対して、前書きでの中でこの上なく明確な回答をしてくれている。

 いわく「要するに自分の目で観ることなのだ。人の目や言葉ではなくて、自分の目が見て嬉しいものが本当の名画なのだ。」と。

 「自分にとっての名画」であれば何度見ても飽きずに良さを感じることができる。そして歴史という試練に耐えた名画は「自分にとっての名画」と重なることが多い、と。

 その後セザンヌ、マチス、ゴッホなどの具体的な作品を取り上げながら、筆のタッチ、配色、構図、そして作品全体が与えるイメージからどのような良さが感じられるかを、専門用語など抜きに語ってくれる。これがめちゃくちゃわかりやすい。

 普段、絵画やその他の芸術一般に親しみが薄い自分のような人間にとっては、筆者による絵画の解釈は、ともすれば主観的で妄想的にすら映るかもしれない。「描いた人、そこまで考えてないと思うよ」と。

 でもあえて考えるまでもなく、あらゆる作品の解釈は自由なのである。作者の意図の範囲内にとどまる必要は全くない。好きなだけドンドン想像の翼を広げていっていいし、それができるのが名画の名画たるゆえんなのだろう。

 もちろん自由だからといって何を言ってもいいわけじゃない。いや、言うのは別に自由なんだけど、例えば馬の絵を見て「これはリンゴだ」と言っても、ただムチャクチャなだけで特に面白みが無い。まぁ馬をリンゴと言って面白くする解釈のやり方も無いことはない気もするけれど。話が逸れるので戻そう。

 著者による絵画の解釈は、きわめて平易かつ主観的でありながら、納得感が強い。しかもサラッと描き手の略歴にも触れてくれるので、自分のような絵画弱者にもとても優しいつくりになっている。

 絵画の良さについて著者はよく「美味しい」という表現を使う。味覚は個人の官能に大きく依存した感覚だ。普通の人(テレビタレント等を除く)は美味しいものを食べたからといって爆笑したり小躍りしたりすることはない。とても個人的な感覚。絵画の感受性にも味覚に似たところがあるということだろう。

 そしてなにより著者の文章そのものが「美味しい」。言葉運びにムダがなく、論理にねじれが無い。イメージと論理の世界を気持ちよく行き来している。絵画にも文章にも通じている著者ならでは、という感じがする。絵画のことはまだよくわからないけども。これを機に興味を持てたらいいなと思う。

「自分」を生きるための思想入門 / 竹田青嗣


書きたいことはある。いつもある。
でも、こんなことを書いていいのか?と躊躇する。
なぜか。
そりゃあ一応まかりなりにも人目に触れる可能性のある文章だからだろう。
誰にも見られないのであれば、躊躇する必要もない。
でも誰も見ないものはそもそも書く必要も無い。
他人に煩わされたくない。でも他人がいないと何もやるべきことが無い。


そんな事を考えてしまうのは、竹田青嗣『「自分」を生きるために思想入門』を読んだから。
人はどう生きるべきか、そして社会はどうあるべきか。そんな根本的なことを考えざるを得なくなるのがこの本。
竹田青嗣の本は、昔「ニーチェ入門」を読んだ記憶があるのだけれど、内容は覚えておらず、手元にも残っていなかったりする。


変わらないルールは無い。
進まなきゃいけない目標は無い。
正しい生き方など存在しない。
そんな世界でどう生きるか?
それが現代の哲学の課題らしい。


結論としては、自分の生き方は自分で決めましょう、という話になる。
そうならざるを得ない。
結局何もわからないままじゃないか、という気持ちが湧いてくる。
しかし他に道がないんだから、それはまぁしょうがない、とも思える。


自分らしく生きている人に憧れる。自分の生き方を自分で決めている人に憧れる。
ナルシシズムがカリスマ性の源だ。
でも、誰かに憧れてるだけでは、自分らしく生きることはできないんじゃないか?
そうとは限らない。誰かに憧れつつ自分は自分らしく生きることもできる。


むしろ問題は「自分らしく生きること」にこだわってしまうことの方にあるだろう。
自分らしさにこだわっている時点で、他人との違いに価値を見出そうとしている。
他人に振り回されている。


「自分探し」を腐す、ありふれた人間批評がある。
でもそもそもどうして自分探しなんていう概念が世の中に広く出回ったのか、その理由を考えなきゃ意味がない。
昔は生きる目標を誰かが決めてくれた。
でも今はそうじゃない。自分で目標を決めなきゃいけない。基本的にはそういうことになっている。だから自分が何のなのか、何をしたいのかを探さなきゃいけない。
昔は社会が「こう生きろ」と言ってくれた。今は「自分で考えろ」になった。それに素直に従った結果が「自分探し」なのだ。
で、みんながこぞって個性を探すっていう没個性的な事態になっている。確かにアイロニカルではある。
自分の目標、自分の生き方を見つけることが出来た人にとって、自分探しは必要無い。
でも世の中はそういう人ばかりじゃない。そういう人のほうがむしろ少数派だ。
多くの人は、自分がなんのために生きているのかわからないまま生きている。
自分を確立することに成功した人や、そもそも確率する必要が無かった人が、自分探しを腐すのは、不公平というものだ。生まれつきの金持ちが自助を説くようなもの。
たとえ自分探しが不毛なものだったとしても。


でももしかすると、今はもう個性の時代じゃなくなりつつあるのかもしれない。
震災以降の社会不安によって、平凡に、無難に生きることが幸せになりつつあるのかも。
YouTubeにいる変な人を横目に見ながら。


何を求めるべきか。何が幸せなのか。
もちろんそんな難しいことは今でもわからない。
ただ、個別具体的に、目の前のことを、少しでも良くしていく。
それくらいのことしかできないし、それで十分なのかもしれない、とも思う。


面白い本を面白く読む。
でも読み終わった後になにか違和感が残る。
不自由な感じがする。
読んだ人を狭い檻に閉じ込めようとするような不自由さ。
できれば読んだ人を元気にさせるような本を読みたい。
明日も美味しいものを食べたい、と思わせるような。
別に不自由な本が存在すること自体は構わないけども。