- 作者: 清水義範
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/10/20
- メディア: 新書
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読んだ本についてブログに書く、ということを三年以上続けているが、いまだに毎回どう書けばいいのか悩んでいる。
別のブログに書いている、ゲームやパソコンに関する記事なら、ほとんど悩むことはない。
なぜそういった違いがあるのだろう?と考えていた次の日に、ブックオフで本を選んでいて見つけたこの『大人のための文章教室』に、そのヒントとなるかもしれないことが書かれていた。
文章を書く時にいつも気になっているのは、次の二つのことのバランスをどうとるかである。その二つとはこうだ。
1.言いたいこと、伝えたいことが曇りなく読み手に伝わるかどうか。
2.この文章を書いている私が利口そうに見えるかどうか。
(中略)つまり人は、文章を書く時に無意識のうちにかもしれないが、よくわかるなあ、と言われたいと願っており、同時に、うまいなあ、と言われたい望みも持っているのだ。
ところが、普通に考えると、この二つの願望が二つ同時にかなうというのは非常にむずかしいことなのだ。つまり、わかりやすく書きすぎるとあまり利口そうには見えず、利口そうに書きすぎると、名文なんだろうな、とは思うものの、よくわからない文章になることが多い。
これを読んでハッとした。旧字体で書くなら、ハツとした。なぜ旧字体で書いたのかはよくわからない。
ゲームやパソコンについてブログに書く場合、1.の方だけを重視すればいい。とにかく、伝えたい情報が正確に伝わるように努力すればいいだけだ。
しかし、読書について書こうとすると、とたんに2.の、利口に思われたい、という欲望が頭をもたげてきて、そのせいで上手く書くことが出来ないのではないだろうか。清水義範はその欲望を「スケベ心」と呼んでいる。
いや、もっと言うと、読んでもよくわからなかったのに、わかったフリをしようとしているから、上手く書けないのではないだろうか。まさしくスケベ心である。
と、ここまで書いて「わからなかったことをわかるようにするために書く」というのもアリなんじゃないか、と思った。
本を読む。わからないことがある。そのわからないことについて書くうちに、わからなかったことがわかるようになる。そういうこともあるかもしれない。
わからないことについて何かを書くというのはかなり難しい。しかし、その難しい行為を通して、新たな発見を得ることも出来るのではないだろうか。
ただ、わからないことについて書いて、しかもそれが読んで面白い、というのは、とんでもない技術と経験が必要なんじゃないかと思う。最近僕が読んでいる本で言えば、高橋源一郎という人は、その難事を平然とやってのけているように見える。
話を本の内容に戻すと、この本に書かれている文章作法は、自分が普段からブログを書くときに無意識に使っているものも多かった。「だ」「である」と「です」「ます」を使い分けるだとか、「しゃべくり文」を混ぜ込むやり方だとか。
そういった意味では、「新しい発見があった」というよりも「今までやっていたことを改めて言語化してくれた」という感じが強い。それはそれで良い読書体験だったと思う。
もちろん、僕の文章はシロウトの遊び程度のものであり、清水義範のような文章の達人とは比べるべくもないことは言うまでもない。「ない」の連続。否定を連続させると意味が通りづらくなるのでやめましょう。