いとうせいこうという人がなんだか気になるのである。
小説は『ノーライフ・キング』しか読んでいないし、CDを聴いたこともないし、『シルシルミシル』も見ていない。でもなんとなく気になる。
- 作者: いとうせいこう
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/08/04
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16年振りに小説を書いたと聞いたときは驚いた。内容が東日本代震災を取り扱ったもので、芥川賞候補になったと知り、しばらく時間をおいてから読もうと思った。で、数日前ついに読んだ。それが『想像ラジオ』。
- 作者: いとうせいこう
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/03/02
- メディア: 単行本
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正直に言うと、のめりこむ、というような読み方ではなかったが、「この小説にはなにかあるな」という感じがずっとあった。そんな感じだった。「感じ」だらけ。
こういう小説を読むと、「小説の中で他人の死を扱うことは『利用』に当たるのではないか?』というようなことを考えてしまう。重要なのは、その問題の是非よりも、「なぜそういう問題について考えてしまうのか」という部分にあるような気がする。
実際の事件や事故によってたくさんの人が亡くなる。そのことを自分の表現に組み込む。すると、その表現が大衆の耳目を惹く可能性が高まる。見ようによっては「濡れ手に粟」のように見えなくもない。
しかしその手が濡れているのは、亡くなった人の血によって、なのではないだろうか。というような比喩を今思いついた。
誰だって手が血で濡れるのは嫌だ。ぬるぬるするし。血なまぐさいし。
それでも手を血で濡らさなければ、外科手術は出来ないし、怪我人を(場合によっては死者を)運ぶことは出来ない。
小説の中で死者を扱うということは、そういうことなのかも知れない。
もしかするとその血はフェイクで、赤い絵の具で作ったただの水かもしれない。
ではフェイクの血が必要なのはどんなときか。
普通、人を騙そうとするときにフェイクの血を使うことは無い。当たり屋をするのに、フェイクの血で出血したように見せかけようとしても、傷口が無ければ何にもならない。
フェイクの血を使うのは、映画・ドラマ・芝居(って使うのか?)などで、演技をするときである。
ドラマの中に登場するフェイクの血に対して、「アレはニセモノだ」と言うヤツはいない。言う必要が無い。
重要なのは、その濡れた手で何をつかむのか、ということだろう。
と、なんだか例え話が長くなってしまった。
読んでいて気になったところは、終盤に登場する「多数同時中継システム」というもの。作者はTwitterを意識して書いたのかもしれないが、個人的には「ニコニコ動画」や「ニコニコ生放送」のコメント機能を連想した。
もうひとつは、とある作中の人物が「あの秋のひどく天気のいい日」、「大震災の半年以上前」に死んだということが示されているというところ。「あんな事故に巻き込まれてるのに」「携帯を鳴らせるわけがない」ともあり、なんらかの背景がありそうだが、作中で具体的に明かされることは無い(よね?)。実際に2010年の秋に大きな事故があったかどうか、思い出せない。