- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/12/26
- メディア: 単行本
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小説家・高橋源一郎が、ダウン症の子どものアトリエや、身体障害者の劇団や、子どものホスピスなどを訪れて書いたルポルタージュ。
この本を読んで、それからこの記事を書こうとした自分は、あることに気づき愕然とした。
何を書いたらいいのかわからないのだ。いつにも増して。
なぜわからないのだろうか、と考えてみて、最初に思いついたのは、テーマが重すぎる、ということ。
この記事を読んでいるあなたは、今までに、身体障害者や難病の子どもの生き方、あり方について真剣に考えたことがあるだろうか。
僕は無い。正直に言って、無い。
今までそういった人々と関わる機会が無かったわけではない。自分が通っていた小、中学校には、その当時確か「特殊学級」と呼ばれていた学級があったし、高校の部活では毎年養護学校に演奏会に行くのが恒例となっていた。
にもかかわらず、そういった人々と関わることを避けていたのは、そういったある意味で一般からはみ出した人間と関わることで、自分もまたはみ出した人間になってしまうのではないか、という怖れがあったからかもしれない、と今になって思う。
一般社会からはみ出している、ということが、この本について考える上でのキーポイントになりそうだ。
この本に登場する人々は、みんな一般社会からはみ出している、と言っていいと思う。その意味で、この本のタイトルの『一〇一年めの孤独』とは、はみ出し者にとっての孤独、を指しているのかもしれない。
なぜはみ出してしまうか、理由は様々であろう。生まれ持った器質・性質によってはみ出してしまう人もいるし、中には自ら望んで我が道を進む人もいる。さらに、時代の流れによって、時間的・空間的にはみ出してしまう人もいる。
我々ははみ出すことを恐れる。それが日本人に特有のマインドなのかそうでないのかは僕にはよくわからないが、とにかくはみ出したくない一心で頑張って生きる。それがいいことなのか悪いことなのかもやっぱり僕には分からないが、はみ出したくないと頑張るあまり、はみ出した後のことについては、あまり考えないようにして生きている。怖いから。
しかし高橋源一郎は考える。それは、文学というものもまた、世間からはみ出した場所で何かを考える営為であるから、かもしれない。
我々が考えないし見ようともしない、実際のはみ出した人々は、はみ出した先で、生きる希望を求めてちゃんと生きている。ともすればそれは我々の目に悲壮なものとして映りがちだが、実はそうではなく、むしろそこにこそ、我々にとって大切なものが含まれているのかもしれない。
と、ここまであえて「我々」という言葉を使ったが、実際の所、はみ出しているように見える人々は、実は我々の中に含まれており、あるいは我々の中の誰もが未来においてはみ出す可能性を持っていることを考えれば、我々などという言葉でそう簡単に境界線を引くことは出来ないはずだ。
副題にある「希望の場所」は、実は結構身近な場所にあるのかもしれない。例えば、この本の中にも。
是非、本屋でこの本を手にとって、巻頭から数ページの写真を見て欲しい。そこに載っているダウン症の子どもが描いた絵は、普通の人が想像する「障害者が描いた絵」のイメージとは全く異なる、自由で伸びやかなタッチで彩られている。
著者は「長いあとがき」の中で、「弱い」とされている人のほうが、わたしたちにはない「強さ」を持っているようにも感じた、と語っている。
この本を読んだ僕は、それを「強さ」と呼ぶのが正しいのかどうか、ちょっと自信がない。でも、自分が今まで持っていた、「弱い」とされている人たちに対してのイメージが変わったことは間違いない。はみ出した先にも、多様で豊かな生き方はありうる、と。