論語についての事前知識は、中国の昔の文章、という程度だった。孔子が関わっているかどうかもあやふやだった。
孔子といえば、中国の昔の思想家として、孟子とか荘子とか老子とかと並んで社会科の教科書に乗っていたのは覚えている。
どんな思想家なのかはよく覚えていない。多分、テストの問題に出なかったのだろう。
そんな自分が「一億三千万人のための『論語』教室」を読んでみた。あの高橋源一郎の本ということで。
最初は正直読むのがしんどかった。律儀に原文の漢文書き下し文にちゃんと目を通してから訳を読んでいったので、読み通すのに普通の本の3倍くらい時間がかかってしまった。学生の頃に漢文をちゃんと勉強しなかった自分の読解能力はお粗末である。
でも、読み始めてからすぐに面白味が出てきた。
なぜ面白いのか。それは多分、ものすごく昔の人の言葉なのに「わかった」からだと思う。
わかったと言っても、必ずしも啓蒙されたとか教化されたとか、そういうことではなく、孔子を始めとした登場人物がなにを言いたいのか、なぜそういうことを言ったのがわかり、そのわかることそのものが面白かった。
そしてその内容が、同時代的な部分、つまり当時の中国に固有のものごとを除けば、現代にも通じる普遍的な話ばかりで、そのこともまた面白かった。
それが論語が持つ普遍性と、翻訳の巧みさのおかげなのは間違いない。
孔子は紀元前500年頃、中国で学校を開き、沢山の弟子に学問を教えていた。その名声は高く、国の政にも関わったという。
その孔子の発言を、弟子がまとめたものが『論語』。
本書は小説家の高橋源一郎が、断続的に20年かけて論語を全文翻訳したもの。
ポップカルチャーを取り入れつつ純文学的な作風の作家らしく、型にはまらない自由度の高い翻訳で、あえて現代の風俗なども取り入れているが、読みやすく、短い論語の原文から孔子という一人の人物の姿を復元しようとしている。
多くの文が政治の話に割かれている。為政者はどうあるべきかを孔子は語る。語り尽くす。
為政者が「仁(人としての徳)」や「礼(作法、儀礼、ルール)」を重んじて統治を行えば、人はついてくるし、国は栄える。反対に、横暴や強権や私欲で政治をすると、人心は離れ、国は滅びる、というのがその思想の大枠。
めちゃくちゃまっとうである。まっとうすぎてぐうの音も出ない。政治だけでなく、人の上に立つ人の全般に通じる思想だろう。
しかし書いていて無力感を覚えるのは、そのまっとうなことが現代においてもまるで実現されているようには見えないからで、法律の解釈を捻じ曲げたり、文書を改ざんしたり、一部の人の利益のために人命を顧みずイベントを強行したり、国民が重税と物価高に苦しんでいる間に裏金で私腹を肥やしたり、といったことが、現実の政治においてまかり通っているように見えるから。いや、ほんとはどうだかわかんないけど。
本書にも、論語の言葉を政治批判に引き寄せて訳しているように見える部分があり、一部の人は抵抗を覚えるかもしれない。
でもそれは、孔子の言葉をまっとうに解釈した上で現実の政治と引き合わせれば、ごく自然に出てくる発想である。現代の特定の政治家を指しているわけではなく、不当な行いそのものを指摘しているに過ぎない。
その程度のことを「政治的だから」といって忌避する人は、己の思考に自己検閲がかかっていると思った方がいいんじゃないかと、自分なんかは思う。
それにしても、かつて中国では市民や農民まで論語を読んでいたらしいが、こんなに政治の話ばかりの文章が普及したと考えると、スゴイ国だな、と思ってしまう。
孔子は知を重んじる。一生涯かけて勉学に励むべし、と説く。
ただ勉強して頭でっかちになるだけではいけない。仁を始めとした徳を兼ね備え、人と交わることで、君子、すなわち理想的な人間になれる。
君子を目指して天命に従え、というのが孔子の言いたいことのようである。
たくさん勉強してリッパな人間になりなさい。お金のためでなく、人の生きる道として。
と、解釈すれば、これもまたむちゃくちゃまっとうだ。
論語には、これを実用書や自己啓発本として読もうとする人にとっては、ありていに言ってムダな内容が多い。
例えば「弟子の子張はこういう人で~」みたいな人物評は、その文だけを読むと「ふーん」くらいの感想しか出てこない。
「喪には三年服せ」という話が度々出るが、それも言ってしまえば当時の中国の風習でしかない。
文の並び方には、法則性が無いこともないが、重要な文を先にするとか、ストーリー・時系列順に並べるといった、構成への意図はあまり感じられない。
中には「傷んだ食べ物は食べるな」といった生活の知恵レベルのものもある。
あまつさえ、同じ文が重複している。なぜそうなったのか、その意図や事情はおそらく失伝しているのだろう。
しかし、全体を通して読むと、なんとなく孔子という人の人となりが浮かんでくる。像が結ばれていく。
ドラマチックな文もある。自分のお気に入りは278「子路、~」と465「楚の狂、~」。どちらも小説中の一エピソードのような読み応えがある。
393あたりからの「子曰く」が連続するところは、己の思想を語る孔子の、ギアが一段上がったような熱が感じられる。
論語のラストは「言葉を理解することが人間を理解することだ」という文で終わる。
訳者は小説以外にも様々な随筆や評論を書いているが、この言葉は、それらの作品を含む訳者の著作に通じるテーマでもあるようにも見える。
言葉を通して人を知る。言葉を通して世界を知る。そういうことを、訳者はずっとやり続けてきた。その人が論語と出会ったことに、個人的には深い必然性を感じる。
また、論語の冒頭は「みんなで集まって勉強するのは楽しい」で始まる。
あくまでも「勉強すべし」ではなく「勉強は楽しい」という言葉で始まっているところに、叡智を感じる。言葉を知り尽くしているなと感じざるを得ない。
論語を読めたこと、読み物としての面白さを知ることができたこと、全てこの本のおかげ。ありがたいことだなぁ、としみじみ感じている。