rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ぼくらの戦争なんだぜ / 高橋源一郎

 戦争(主に第二次世界大戦)について書かれた詩や小説、教科書などを読みながら、戦争について考える本。


 第一章「戦争の教科書」。日本の現代の教科書と第二次大戦中の教科書、近年のドイツやフランスや韓国の歴史教科書を読み、国家について考える。

 第二章「『大きなことば』と『小さなことば』」。広島で原爆投下を免れた著者の母が晩年に書いた自伝。映画『この世界の片隅に』。古市憲寿『誰も戦争を教えられない』。昭和19年に出版され高村光太郎が序文を書いた戦争賛美の『詩集 大東亜』。中国大陸に出征した兵士6人による詩を集めと昭和17年刊行『野戦詩集』。戦争に対して、マクロな視点とミクロな視点で書かれた文章を比べる。

 第三章「ほんとうの戦争の話をしよう」。戦後小説の代表とされる大岡昇平『野火』。著者が20代の頃、末期がんの友人にお見舞いした経験。会話が通じない政治家。猫田道子『うわさのベーコン』。非常と平常の距離について考える。

 第四章「ぼくらの戦争なんだぜ」。東京大空襲被災の経験を書いた向田邦子のエッセイ『ごはん』。林芙美子の従軍記『戦線』と短編『ポルネオ ダイヤ』。古山高麗雄『白い田圃』『蟻の自由』。金子光晴の詩『おっとせい』。後藤明生『夢かたり』など。戦争を自分たちの物語として語る方法を探る。

 第五章「『戦争小説家』太宰治」。ロシアとウクライナの戦争を踏まえ、開戦後ロシアで放送されたドミートリー・ブィコフのラジオの発言を紹介しつつ、太宰治が『十二月八日』『散華』『惜別』の中に込めたメッセージを探る。

 全体に鶴見俊輔の文章が引用される。戦時中、自らが過ちを犯したときに自害するため青酸カリを持ち歩いていたというエピソードが、本書に通奏するテーマのようになっている。



 戦争について考えるのは難しい。という文章は学校の読書感想文などで100万回くらい書かれていそうだが、実際難しいんだからしかたない。

 たくさんの人の命が奪われる。目も当てられない暴力が繰り広げられる。平和な日々からはあまりにも遠い。

 でも戦争について知らなきゃいけないとも思う。特にこんな時代には。


 著者の高橋源一郎は、詩や小説や教科書の言葉を通して、戦争に近づくことを試みる。

 なぜ詩や小説なのか? 戦争を知るなら、歴史的事実を知れば十分じゃないの?

 そうかもしれない。でも自分はそうじゃないと思う。

 言葉には、表面上の意味だけでなく、その裏側に秘められた様々な意味がある。裏側に秘めるからこそ伝えられることがある。特に戦争のような非常時には。

 それを読み取ることに意味があるだろうか? 自分はあると思う。

 また、歴史はあくまでも多くの人にとって重要な(比較的に)客観的な事実を述べたものだ。そこにいた個人の考えなどが記されているわけではない。

 詩や小説には個人の声が記されている。教科書には「国家の声」と呼べるようなものが記されている。

 それを知ることに意味があるか? 自分はあると思う。

 あるいは、もし戦争に巻き込まれたら、言葉が持つそういった力や効果を使うことが、生き延びるために必要になるかもしれない。もしかすると日常においても。



 戦時中、「散華」という言葉は、「玉砕」と同じように、戦死という言葉の言い換えとして使われた。

 太宰治は戦時中に、2人の友人の死を描いた「散華」という美しい小説を書いた。

 今「散華」という言葉で検索すると、仏教用語と共にその小説が上位にヒットする。

 この事態をもって、小説の力によって散華という言葉の本来の意味を取り戻すことができた、と見ることができるだろうか。単に時間の流れで言葉の意味が変わっただけという可能性も大いにあるけれど。

 仮に言葉によって言葉の意味を変えることができたとして、その程度のことに、意味があるだろうか? それはわからない。

 でも同じようにして、言葉を用いることで「人間の尊厳」みたいなものを取り戻すことも、ひょっとしたらできるかもしれない。

 戦争を、誰かのものではなく、自分たちのものとする。「ぼくらの戦争」にする。それが、戦争という大きなものに尊厳を奪われないための方法なのかもしれない。