最近なんだか活字の本を読む気が起こらずにいたのだが、古本屋で筒井康隆の本を立ち読みしたところ、「筒井康隆の小説を読みたい欲」が急に湧いてきた。
二日間ほど何を読むか検討した結果、『残像に口紅を』に決定。そこからさらに二日ほど近所の古本屋をチェックしたものの、一度も発見できず。実験的な小説だからあまり売れてないんだろうか。結局新品を買って読むことに。
- 作者:筒井 康隆
- 発売日: 1995/04/18
- メディア: 文庫
章が進む毎に、ことばが消えていく、という小説である。冒頭から既に「あ」が消えており、ゆえに章題以外の本文中には「愛」も「あなた」も一切登場しない。ちなみに冨樫義博のマンガ『幽☆遊☆白書』に出てきた「海藤」というキャラの能力はこの小説がモデルであるとされている。
- 作者:冨樫 義博
- 発売日: 2004/08/04
- メディア: コミック
2章では「ぱ」が、3章では「せ」が、という風に消えていくのだが、消えるのは文字ごとではなく「音(おん)」ごと。
例えば「お」が消えるときは同時に「を」も消えるし、「ず」が消えるときは「づ」も消えるというルール。この辺のルールも作中で説明される。
ではなぜこの小説にそんなルールが設けられているのか、というと、これまた説明するのが難しい。
主人公で小説家の佐治勝夫は、自分が小説の登場人物であるということを把握している。つまりこの小説はいわゆるメタフィクション。今風に言えば、アメコミ原作で映画にもなった「デッドプール」の主人公が「自分がコミック(映画)キャラであると知っている」という設定で、あれもメタフィクション。
のみならず、この『残像に口紅を』という小説そのものが「佐治勝夫によって書かれた(行われた)小説である」と、登場人物によって作中冒頭で言明されるのである。
よくわからないかもしれないのでもう一度書く。
この『残像に口紅を』という小説は、登場人物であり主役の「佐治勝夫」によって書かれた小説である。
普通だったら「いやいや、登場人物が自分の出ている小説を書くなんておかしいじゃん?」とか「この小説を書いてるのは作者の筒井康隆でしょ?」と思うかもしれない。しかしそういう正論は一旦カッコに入れて読むのがこういう小説のお約束。というより、そういった虚実のわけのわからなさと、結局全部ひっくるめて虚構でしょ? みたいな混沌とした感じそのものがこの小説のキモであるとも言える。
その冒頭の場面で、佐治は懇意の文芸評論家である津田得治と話し合い、ある文学的な実験を行うことを決める。
その実験こそが、この小説そのもの、つまりことばが失われていく小説を書く(行う)ことなのだ。ことばの失うことによって、初めてその大切さがわかるかもしれない、という動機によって。
しかしそんな小難しいことは抜きにしてこの小説を読んだとしても、ことばが失われていく中で作者(=主人公)がいかに苦心しながら物語を進めていくのかを、作者お得意のスラップスティックによって描いたコメディとして楽しめる。
官能小説をやったり、己の半生を振り返ったりと、使えることばが少ない中であえて困難なことをやる。そこにバカらしさと凄みが生まれる。と、解説してしまうのも野暮だが、それもこれも筆者がことばに熟達しているからこそ出来ることだ。
特に使える文字がほとんど無くなった終盤は、小説というよりほとんど言葉遊びの詩みたいになってくる。ちなみに最後に消える文字は自分が読む前に予想した通りの文字(音)だった。
ところでここまで書いて思い出したのだが、つい最近ネット上で「語彙力ない小説」というのが少し話題になった。
『残像に口紅を』が限られたことばの中から使える語彙を絞り出すような小説であるのに対し、「語彙力ない小説」は、一見すると少ない語彙で楽をして書かれているように見えるかもしれない。
しかしよくよく読むと「すごいやばいくらいの美少女」だとか「それが僕と彼女の一度目の出会いだった」というように、稚拙なようで細かい工夫によって作られたであろう語句の組み合わせにより、おかしみを生み出している。しかも文章の流れがスムーズで、かなりリーダビリティが高い。って、解説しちゃうのはやっぱり野暮なんだけど。
全く正反対の小説に見えて、いずれも「異化効果」によって文章を、ひいては文学を客体化しようという試みであるという点で共通していると言えるだろう。それが何の役に立つのか、と効かれても困るのだけれど。大事なのは「どうやって役に立てるか」なのだ、とここは言い張っておこう。