rhの読書録

読んだ本の感想など

供述によるとペレイラは…… / アントニオ・タブッキ

 イタリアの作家アントニオ・タブッキの小説。佐々木敦氏が著書の中で本作を激賞していたので読むことにした。本作はタブッキの代表作で、映画化もされているという。

 舞台は1938年のポルトガル。

 新聞社で文芸面を担当しているペレイラは、たまたま読んだ雑誌上の論文に興味を持ち、その著者の青年モンテイロ・ロッシを見習いとして雇うことになる。

 青年が書く原稿は、当時のポルトガルにおいては「政治的」過ぎて掲載できない内容ばかり。

 しかしなぜか彼のことが気になり、給料を支払い続けるペレイラ。

 青年はどうやら政治活動に関わっているらしい。

 やがてそのことが引き金となり、ある事件が起こる。

 そこでペレイラは、今までの彼には考えられなかった行動を起こす。


 作品の背景にはスペイン内戦がある。

 1930年代にスペインで共和国人民戦線と反乱軍による国を二分した争いがあった。

 隣国であるポルトガルはサラザールによる独裁体制の下、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍を支持する立場をとっていた。

 本作を読むまで自分はスペイン内戦のことをよく知らなかった。

 ヨーロッパ内で大規模な内戦が起こったこと。それをきっかけに独裁政権が始まったこと。スペインやポルトガルでは、第二次大戦後も独裁政権が長期にわたって続いていたこと。

 そんな激動の歴史が100年に満たない程度の昔にあったことは、よく考えれば驚くべきことだ。そして自分は今までそのことをよく考えたことがなかった。おそらくWikipediaくらいは読んだことがあったけれど、すっかり意識の埒外のことだった

 ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』や、ピカソの有名な絵画『ゲルニカ』がスペイン内戦をモチーフにしていることなども、全然理解していなかった。


 本作を読んだ自分の中のイマジナリー若者がこう言っている。

 「ペレイラの行動、ムダじゃね?」と。

 「友達でもねえやつを助けてもイミないし、そいつのためにアブナいことするなんて、リスク・リターンが合ってないっしょ」と。

 いや、自分に若者の気持ちがわかっていると言いたいわけではない。

 そもそもこんなしゃべり方をする若者がいるのかもよくわからない。

 そうやって世代で人括るようになったら人としてオシマイだぞ、とも思う。

 自分の中の「そいつ」は正確には「若者」ですらないのかもしれない。でも他に呼び名が思い浮かばないので暫定的にそう呼ばせていただく。

 かつては理想のために無謀なことをするのが若さとされていた時代があったらしい。モンテイロ・ロッシもそういう若者だ。

 しかし昨今はどちらかというと「リアルであること=クール」みたいな風潮を感じる。

 いや、そもそも「若者=情熱」というイメージ自体が架空のもの、まさにイマジナリーなものだったのかもしれない。1980年代頃にはもう「しらけ世代」などという言葉があったわけだし。という話はややこしくなるのでやめよう。

 ともあれ、自分の中の「リアル&クール派」が、危険なことに首を突っ込むのは間違ったことだ、と言っているのである。


 それに対して、自分の中のイマジナリーベテラン(若者の反対という意味でベテラン)はこう言う。

 「ペレイラの行動こそ、真の勇気ある行動だ」と。

 なぜか。

 彼は真実を知っていて、それを多くの人に知らせることができる立場にいた。そしてそれを知らせるための行動に出た。己の危険を顧みず、薪を背負って火中に飛び込むがごとく、みずから危険に突っ込んでいった。

 1人の人間の行動が社会や歴史を変える。そういうことはちゃんとありうる。バスの座席から立ち上がらなかったローザ・パークスのように。

 ペレイラの行動が、その人たちのような歴史を変える行動だったかどうかはわからない。

 「供述によると」というタイトルの通り、本作は「ペレイラの供述を記録したもの」という体裁になっている。供述ということはなんらかの形で「語らされている」のである。彼の無事は不吉な形でぼかされている。

 ちなみに作中にも描かれるように、当時多くの人が自由を求めてフランスに逃亡したが、その後フランスはナチス・ドイツに占領されたため、過酷な生活を強いられることとなったという。(『フランス内戦』のWikipedia項目より)

 しかしたとえ歴史を変えずとも、勇気を持って正しいことをしようとした彼の行動がムダだとは言いたくない。

 皆が間違っているときに、自分だけが正しいことをするのは、時に絶望的に困難だ。

 「自分が正しい」と保証してくれるものが周りにない。独善でないという証拠はどこにもない。

 むしろ当時のポルトガルにおいては、あの事件を起こした側の人間が正義だったのである。

 それでもペレイラを動かしたのは、彼が愛した文芸であり、カルドーソ医師との会話で知った哲学だった。

 ペレイラの行動が意義あるものとして読者に映るのは、ただ正義を成したからではおそらくない。

 たった1人で立ち向かったこと。その勇気に心動かされるのだと思う。


 自分の中のイマジナリー若者とイマジナリーベテランが、互いに違うことを言っている。

 実利と正義。どちらが正しいか。

 今は実利の時代。正義でメシは食えない。

 正義は古臭い。正義はうさんくさい。正義を騙る不正義がこの世から無くなったためしがない。正義の名の元に誰かを叩く人が日々SNSで可視化されている。自分の中のイマジナリー若者は、それを見てうんざりしているのだろう。

 でも、誰にとっても個人的な正義があり、いつかそのために戦わなければいけないときがあるかもしれない。正義はダサいなんて言っている場合じゃない。

 正義を成すか、それとも黙って不正義を見過ごすか。そのことが、人生全ての意味を決定的に変えてしまうかもしれない。

 ペレイラは正義を成そうとした。その先には肉体的な滅びが待っているのかもしれない。でもそれが間違ったことだったなどと誰に言えるだろう。


 他人を支配するための正義や、誰かを攻撃するための正義ではなく、自分のための正義、作中の言葉で言えば「たましい」のための正義がありうることを、この小説は描こうとしているのではないか。

 そしてそれは若者にもベテランにも等しく関係のある話なんじゃないかと思う。