読みたくない本を読みたい、と思った。
あるいは、読みたい本を探して読む、という行為に限界を感じた、と言うべきか。
とにかく、自分自身では選ばないような本を読みたい気分になった。
自分で選ばないのであれば、誰かに選んでもらうしかない。
というわけで池澤夏樹編『日本文学全集』を読むことにした。一番とっつきやすそうな、近年の作品を集めた「近現代作家集Ⅲ」から。
などという軽い気持ちで読み始めたのだが、久しぶりに文学作品を、しかもよりすぐりの作家による作品群を一気にまとめて読んだので、かなり重たいショックを心に受けることになった。ダメージ、と言ってもいいかもしれない。
なのでまともに感想を書ける気がまるでしない。まぁ別に義務ではないので、書けることだけ書いていこうと思う。
全体のテーマとしておおまかに「自然をテーマにしたもの」「性をテーマにしたもの」「震災をテーマにしたもの」に分かれる。そうでないものもある。
内田百閒『日没閉門』。随筆。特にどうという話ではないが、だからこそ、時代の空気がそのまま切り取られている。そのことに尊さやかけがえのなさがある。
野呂邦暢『鳥たちの河口』。諫早湾でバードウォッチする男の話。作中に登場する干潟は堤防になって今は無いらしい。
幸田文『崩れ』。崩落地を巡るルポルタージュ。「日本三大崩れ」という言葉を初めて知る。稗田山にはこの作品を記念した文学碑が立っているという。
富岡多恵子『動物の葬禮』。母と娘。そして娘の恋人のキリンと呼ばれた男の葬礼。ドタバタ感すらある。ごく普通の人間への温かい眼差し。
村上春樹『午後の最後の芝生』。村上春樹は小説を書くことを、ぐったりとした猫を積み上げると書く。その諦念のスゴさをしみじみ感じる。
鶴見俊輔『イシが伝えてくれたこと』。アメリカ先住民として生まれ育ちながら、アメリカ社会に馴染むことを選んだ「イシ」にまつわる評論。
池澤夏樹『連夜』。沖縄を舞台に、悲恋を遂げた霊がある男女に憑依する。
津島佑子『鳥の涙』。子供に聞かせる「お話」にまつわる話。「おまえ」や「私」がどんどん融解していくさまが迫力を生んでいる。
筒井康隆『魚籃観音記』。観音菩薩と孫悟空の情交。そんなぁ。うん。そうなんだ。
河野多恵子『半所有者』。所有への欲望の怖さと哀しさ。
堀江敏幸『スタンス・ドット』。ボウリング場最後の日、最後の客。いかにもいい話になりそうな設定ではあるが、記憶というものに思いを馳せるような内容。
向井豊昭『ゴドーを訪ねながら』。ゴドーを待ちながらの主人公2人が恐山のイタコに会いに行く。破調。だけどものすごいパワー。作者のことを知らなかったが覚えておきたいと思った。
金井美恵子『『月』について、』。よくわかりませんでした。
稲葉真弓『桟橋』。夫と別居し、入江に通う母と娘。真珠貝に自己投影するというオシャレさ。
多和田葉子『雪の練習生(抄)』。ソ連のホッキョクグマが会議に出て自伝を書いて亡命する。国に振り回されるクマ。普通のリアリズムではないが、ものすごく我々が生きる現実に繋がっている。
川上弘美『神様』『神様2011』。1993年に書かれた著者最初の短編を、震災直後に書き直したのが『2011』。放射性物質に囲まれた日常。
川上未映子『三月の毛糸』。妊娠した妻との旅行。ホテルでの一夜。村上春樹チック。
円城塔『The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire』。銀河帝国の衰退と没落。ほとんど2ちゃんねる(現5ちゃんねる)やアンサイクロペディアのような言葉遊び。この人の書くものは今のところ全部よくわからないが、それがダメだとも思わない。
文学全集の感想を書こうとすると、「文学の意義」みたいなことを言いたくなる。あるいは、言わなければならないような気がしてくる。
でもとっくにそういうことを言い立てるような時代ではないだろう。
そもそもかつて文学全集というものが成り立っていたのは、文学がある種の権威だったから。教養だったから。家に文学全集を並べておくことがある種のステータスだった。
そういう時代があったらしいが、今やそんな一時の風習は廃れてしまっている。
じゃあ文学がダメになったかと言うと全然そんなことはない。確かに、一個の大きな流れみたいなものは見えにくくなったが、そのぶん拡散して自由になったとも言える。
なにより、文章で物語や物事について書くことは、そう簡単には終わらない強度を持っている。
今だからこそ文学全集を読むことで、そのことを確認できる。と、書くとちょっと「文学の意義」っぽくなってしまうか。