rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか? / 渡辺範明

 『ドラゴンクエスト(ドラクエ)』と『ファイナルファンタジー(FF)』。2つのRPGシリーズの歴史を振り返りながら、その物語表現の進化を辿る本。

 著者の渡辺範明氏はスクウェア・エニックスの元ゲームプロデューサー。本書には入社一年経った頃にスクウェア・エニックス合併を経験したエピソードが出てくる。現在はボードゲームショップを経営しながら、アナログゲームを中心にゲームデザイナー&プロデューサーとして活動しているという。

 ドラクエやFFの開発には一切関わっていないとのことだが、同じ社内というごく近い場所から両シリーズの歴史を見てきた著者ならではの視点と、現在もゲーム作りに携わっているクリエイターの目線が合わさってつづられる「クロニクル(年代記)」は、読み応えあるものとなっている。

 巻末には初期のドラクエとFF両作品に関わった、元ジャンプ編集長の鳥嶋和彦氏へのインタビューも掲載。名作『クロノ・トリガー』の裏話など貴重な話が語られている。


 コンピューターRPGの歴史から始まり、初期ドラクエFFの立役者が集まる過程、社員ならではのエピソード(スクエニ合併当日の社内の様子、いち社員視点での合併理由の考察)など、読みどころも沢山。

 「ドラクエ=おじさん的親切さ・保守的路線」「FF=若者的冒険性・革新路線」という両者のおおまかな方向性を対比しつつ、現在もゲームデザイナーとして「ゲームとは何か」を追求している著者ならではの洞察が随所に光っている。

 サブタイトルの通り、RPGという「物語表現の器」を用いて各タイトルがどのような表現形態を採用したか、時代背景やハードの進化が物語表現にどのような影響を与えたか、という部分に重点を置いた語り口となっている。

 FC世代のドラクエは、まだRPGを知らない日本のプレイヤーへの「RPGのチュートリアル」だった。ドラクエの後発だったFFはその強みを活かし、1作目から様々なシステムを詰め込み、毎作システムを変えるなど野心的な作風でオルタナティブの立ち位置を築いた。

 SFC時代。ドラクエは「脱勇者」の物語を、FFは「青春群像劇」を描いた。ドット絵による素朴であたたかみのあるグラフィックだからこそ、人形劇のような独特のリアリティが生じ、ある種の寓話的な世界が構築された。

 PS時代のFFは大幅に増加したCD-ROMの容量を映画的ストーリーテリングに用いたことで世界的な人気を確立した。対するドラクエ7はその容量を膨大なイベント・セリフに費やし、現代のオープンワールドゲームの先駆的なゲームを作り上げた。

 というように、各タイトルが開発された時代背景やゲームハードの進化と制約が、どのような物語表現を可能にし、同時に規定したかという部分に焦点を絞っている。

 なので必ずしもタイトルごとのギミックやストーリーのディティールなどを網羅的にまとめているわけではなく、例えばドラクエ5を代表する仲間モンスターシステムには触れず、「脱勇者」の物語としての天空三部作(ドラクエ4・5・6)のひとつとして取り上げている。

 フェティッシュなゲーム語りを好む人にとっては少々物足りないかもしれないが、それがシリーズ全作を網羅しつつ一定のボリュームに収めるために必要な取捨選択であることは言うまでもない。


 特にFF13とFF15の解説は、ともすればシリーズ中で迷作とされがちな両作の魅力をわかりやすく解きほぐしており、未プレイの自分も新たに興味が湧いた。

 FF13はダイナミックかつ戦略的な戦闘を、FF15は青春ロードムービー的な旅情を、それぞれ最大限に表現するため、ゲーム全体に革新的な試みがなされている。しかしそのせいでゲームとしてのバランスを欠いている部分もある、という説明はかなり納得度の高いものだった。

 ただ「FFシリーズはトガッているぶんバランスを欠きがち」という著者の提唱するイメージは、どちらかというと10より後、というか「ファブラ ノヴァ クリスタリス」というムダにスタイリッシュな概念を提唱し始めた頃から出始めたもので、それ以前の4~9あたりのFFはそれこそ「RPG(今で言うJRPG)のド真ん中」というイメージの方が強かったように思う。

 巻末の鳥嶋和彦氏へのインタビューもまた面白い。下は自分の感想ツイート。この部分だけでなく全体に伝説の編集長のスゴみを感じるインタビューだった。


 ドラクエ・FFの爆発的な進化は、ゲームに限らずその後の文化に様々な影響を及ぼした。

 本書でも取り上げられている通り、昨今のいわゆる「異世界転生もの」の小説におけるテンプレートのひとつとなっている、「勇者」や「魔王」が登場するファンタジー系世界設定は、かなりの割合でドラゴンクエストを源流にしている。もちろん更に遡ることはできるにせよ、いわば「直系の祖先」がドラクエであることは間違いない。

 FF7の世界的ヒットは「3Dグラフィックによる物語表現」の可能性を切り開き、現在も(実質的な)リブート作の展開が世界のゲームシーンで注目を集めている。

 個人的には、植松伸夫、皆葉英夫らFFのスタッフが開発に関わり、いわゆるJRPG的世界観をスマホ・ブラウザゲームで展開してきた『グランブルーファンタジー』が、今年2月にプレイステーションおよびPC向けのアクションRPGを発売予定し、いわば家庭用ゲームへの「先祖返り」をしようとしていることに注目している。

 本書はそんな偉大な2つのRPGシリーズの歴史を概観するための最良の本のひとつと言えるだろう。あの頃を思い出してワクワクしたい人にも、そこから次の時代のゲームの物語形式を思い描きたい人にもオススメ。


 ちなみに本書はラジオ番組『アフター6ジャンクション(アトロク)』における同名のシリーズ企画がベースとなっており、そこで著者が語った内容が元になっている。

 もともとアトロクを聴いていた自分は「ラジオでガッツリドラクエとFFの話をしてる!」と興奮しつつリアルタイムで1度聴き、しばらく後にまた聴き返したくなってポッドキャスト(現在もアーカイブを聴取可能)ですべての放送をもう1度聴いた。なので計2回、全内容を聴取したことになる。

 そのため「細かいところまでほとんど内容がわかっている話を改めて本で読む」という、今までにない、そして今後もおそらく無いであろうちょっと奇妙な読書体験となった。なんだか読んでいてフワフワと変な感じで、逆にちゃんと読めたかどうか、若干の不安がないではない。


 なぜ同じ放送を2回も聴いたかというと、聴いたらワクワクして元気が出たからで、なぜ元気が出たかというと、それはおそらく、かつての自分にとってドラクエとFFの進歩という事象そのものが、ワクワクする出来事だったからではないかと思う。少し前のギャル用語で言えば「アゲ」だったからだと思う。なぜ少し前のギャル用語で言ったのかはわからないけれども。

 ある世代の人にとって、ドラクエ・FFはまさに国民的RPGだった。精神の血となり肉となった。傘を振ってアバンストラッシュ(ダイの大冒険)ごっこをしたり、木の枝を振り回してアルテマウェポンごっこしたり。ドラクエ4コマを読み、バトルえんぴつを転がし、FF7がコンビニで売られていた。日常のすぐとなりにあるものだった。

 特に自分に影響を与えたのは久美沙織著の小説版ドラクエ5。子供の頃に読んだ最も心に残った本のひとつだ。文庫本をトイレで読んでいたらうっかり便器に落としてしまい泣く泣く捨てざるを得なかった。成人してからハードカバー版を買い直したけれど、挿絵のイラストが変わってしまって少し残念だった。

 そんな2つのRPGは「どんどん良くなっていくことを素直に信じることができるもの」であり、ものすごーく大げさに言えば、ある種の「希望」だった。

 例えば戦後の時代を生きた人たちは、科学技術がどんどん発展して世の中が豊かになっていく様を目の当たりにし、そこに希望を見出したのではないかと想像する。

 スケールこそ違うものの、当時の子どもにとってのテレビゲームはそれに近いものだったと思う。日進月歩でどんどん世界が広がっていく。まだ見ぬ未知の体験がやってくる。

 現実の時代背景的には、バブル崩壊後の不況や、95年の事件や震災、環境問題など、暗い話題が多かったと思う。しかし、ことゲームに関しては、ものごとがどんどん進歩し改良されていくことを素直かつ素朴に信じることができた。

 そしてドラクエとFFは、そのような進歩の最前線に立つゲームの一群を、いわば背負って立つシリーズだった。


 と、いうのは本書を読んで生じた後付けの感覚も含まれていそうだが、ともあれそんなドラクエ・FFの進化の過程を脳内に蘇らせてくれたのが、「国産RPGクロニクル」のラジオ企画、そして本書であった。


 なお著者は現在もアフター6ジャンクションに定期的にゲスト出演し、ボードゲームの紹介などの企画を行っている。先日は国産RPGクロニクル初代ポケモン編が放送された。
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 またポッドキャスト番組『ドロッセルマイヤーズ・ラジオ』も週1回のペースで配信中。夫婦ならではのしっとりとした雰囲気でとても聞きやすい。古畑任三郎の回が特に面白かった。
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 ちなみに本書には収録されていないものの、著者夫妻のステキすぎる馴れ初め話が、国産RPGクロニクルの(確か)スーパーファミコン時代編のラジオ回で聞くことができる。本当に、全ゲーマーの憧れみたいな話である。
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 最後のオマケ的に、自分にとってのFF語りをしてみたい。

 自分のFF歴がどこから始まっているかをハッキリ言うのは難しい。気がついたら家にカセットが置いてあったからだ。

 まずSFC版FF4のカセットが家にあったが、発売日的に物心がつく前なこともあり、リアルタイムでプレイ画面を見た記憶が無い。もしかすると後から買ったカセットだったかもしれない。

 FF5と6は兄がプレイするのを後ろから見ていた。特に6はかなり好きなタイトルで、モグを使いたがらない兄に使うよう催促したりした。しかし兄が友人に貸してしまいそのまま返ってこなかったため、長らくプレイできず切ない思いをした。

 どちらもプレイする兄を見るうちに、主人公(バッツおよびロック)が兄そっくりに見えてくる、という、子どもならではの奇妙な感覚を抱いたのを覚えている。

 FF7に至っては母親までもが手を出したため、自分でプレイできたのは兄→母→自分の3番目。ラスボス手前まで進めたものの「もうエンディング見たしな……」と思い、そこでプレイをやめてしまった。

 FF8は兄が部活で忙しくなり自分が最初にプレイできた。ようやくRPGのストーリーをある程度理解できる年齢になったこともあり、かなり思い入れ深いタイトルになった。

 後にアルティマニア(攻略本)を買い、細かいストーリーの伏線などを知ったことで、FFシリーズで一番好きな作品になった。なので7よりも8のリメイクを切望している。万人受けする作品でないこともわかっているけれど。

 しかしそれ以降はあまりFFに関心が向かなくなってしまった。PS後期からPS2以降はゲームジャンルも多様になり、自分好みのゲームを選ぶという意識が生まれたことも大きいだろう。主にアクションゲームや格闘ゲームを遊ぶようになり、Xbox 360を入手してからは洋ゲーにも手出しするようになった。

 FF9は自分も部活で忙しく、ソフトは家にあったもののプレイせず。後年にリマスター版をクリアした。

 FF10からはハッキリと「自分向けのゲームではなくなったな」と感じるようになった。こちらもリマスターをやろうとしたが、序盤の雰囲気が辛くて辞めてしまった。

 以降の作品は美意識のレベルで自分の肌に合わないなと今でも感じている。FF7リメイクはPSプラスのフリープレイに入っていたし話題作なので一応ストーリーをクリアしたが、終始美男美女のイチャイチャを見せられた上、最後は精神世界でなんか解決したみたいな感じになるノリが、結構苦しかった。


 なぜ自分がFFをやらなくなったのか? 本書の解説を踏まえて考えると、すこし見通しがよくなったかもしれない。

 FFの多くは青春をテーマとしたゲームだ。ゆえに自分の成長と上手くタイミングが合ったFF8が最も心に残った。

 そしてそれ以降は、もう自分の側が青春を描いたFFという物語を必要としなくなってしまった。そんな仮説が思い浮かぶ。

 ある種の作品は、特定の世代のために作られる。あるいは結果的にそのようなものになる。

 例えばマンガ『最終兵器彼女』は作者自身があとがきで「こんな物語が意味を持つ時代が人生の一時期きっといつかあります。そしてたとえば五年経ったらこの本はその誰かにとってもう意味のないものになっているでしょう。」と書いている。


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 自分にとってのFFは、多かれ少なかれそれに近いものだったのかもしれない。10以降のFFについて自分が感じているモヤモヤした感情は「もっと大人になってちゃんとしたバランスのいいゲームを作れよ」という、感性のズレに起因するものなのかもしれない。多分。

 その意味でも、ドラクエ11の徹底した「大人」ぶりはあまりにも対照的で、ほとんど敬服に近い念を抱いた。ただ最終盤の展開に関しては自分は否定派に近い。その発想は大人というよりもはや老人の境地なのでは、と思ってしまう。あるいはそれもまた自分の年齢とともに変わってくるんだろうか。