rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ガラスの街 / ポール・オースター

 ポール・オースターの小説は結構前に『ティンブクトゥ』を読んだことがある。今回が2作目。

rhbiyori.hatenablog.jp

 柴田元幸といえばポール・オースター。そしてポール・オースターと言えばまずはニューヨーク三部作。というイメージが漠然と自分の中にあった。どこから調達したイメージなのかは覚えていないが。

 その1作目である本作にようやくとりかかることができた。


 まず1章で心を掴まれた。孤独な人間の孤独なさまを、俯瞰してただ見つめるようなその筆致にやられた。

 で、そこからちょっと忙しくなってなかなか続きを読めなかった。辛かった。なので休日にまとめて読み切った。


 主人公のクインは小説家。妻と息子を失ってから、ペンネームで探偵小説を書く以外は、ニューヨークの街を孤独にさまよう日々。

 彼のもとに「ポール・オースター」にむけた事件の依頼が来る。

 2歳の頃から9年間、父親に監禁されていた男ピーター。精神異常と診断され入院していた彼の父親がもうすぐ退院する。ピーターに危害が及ばないよう守って欲しい、という依頼。

 他人に向けたその依頼を、クインは請け負ってしまう。


 ミステリ小説として読もうとすると、終始不可解なことが起こり、最終的に謎は解消されない。

 特に主人公の行動が不可解である。それをただの狂気によるものとして読んでしまうと「よくわからない人がよくわからないことをした話」と捉えかねない。

 この小説はミステリ小説ではないし、あえてミステリの定石を外した「反ミステリ小説」でもない。「お約束」ではないし、「あえてお約束の裏をかく」でもない。

 むしろそのどちらにもなれないようなものを書こうとしている。


 クインは自らの小説の主人公「マックス・ワーク」のようになろうとして、なれなかった。

 主人公になれ、と誘う。その誘いをもたらすものは、ニューヨークという街が保つ磁場であり、ピーターの依頼、人妻の誘惑、謎の老人、宗教的陰謀といった探偵小説的仕掛けであり、本という媒体そのものの持つ力でもある。

 最初期の小説でありながら最初期のメタフィクション小説でもある『ドン・キホーテ』への言及によって、それらのことはほとんど明示される。

 探偵小説を書いて探偵になろうとするダニエル・クイン。騎士小説を読んで騎士になろうとするドン・キホーテ。どちらもイニシャルは「D.Q.」である。


 妄想が現実になることはなく、クインは赤いノートを残して消えてしまう。

 でも、この本を読んでいる読者も、あるいはこの本を書いた作者も、いや、現代に生きる者はみな、赤いノートを心に抱えているのではないか。

 そう後ろから囁かれているような、ほんのり薄ら寒くなるような読後感だった。


 最近小説を読んでいると「この作者は大丈夫なんだろうか」と思うことがあり(今村夏子作品とか)、それは明らかに一読者の立場からはお節介が過ぎる心配なのだろうけれど、本書に関しては「この作者は、こんなに孤独を見つめて、大丈夫なんだろうか」という気持ちになった。



 以下、雑多な感想。

 人探し要素の部分では村上春樹『羊をめぐる冒険』を思い起こした。終盤は安部公房『箱男』のようなスゴみがある。

 作中に様々なニューヨークの地名が登場する。自分はゲーム『Marvel's Spider-Man』で見た景色を思い出しながら読んだ。国連ビルとかフラットアイアンビルとか。この本をそういう読み方する人は世界で自分が初めてかもしれないが、さすがにそれは無いか。

 「ピーター・スティルマン」という名前は『メタルギアソリッド2』に登場する爆弾解体専門家と同じ。オマージュだろうか。舞台がニューヨークなのは共通しているが、それ以外の共通点はあまり無い。

マンガ『ベルセルク』を再読 最終回予想など

 マンガ『ベルセルク』が無料公開されていたので再読。途中からは手持ちの本や電子書籍で。

younganimal.com

 昔読んだ時は、ガッツのヒーロー的な活躍にばかり目を奪われていたが、今読むと、人間関係を中心とした物語の方に注目が行く。

 ガッツとグリフィス、そしてキャスカの関係性は少女漫画的ですらある。

 過酷な運命に翻弄され続けながら、踠き戦い続けるガッツの姿が心に迫ってくる。
読むほどに、読んだ人の人生に反射してくる。それだけの深みを持った作品であることを再認識させられる。

 昨今の世界情勢からすると、様々な戦争にまつわる描写も人ごとには感じられなくなっている。


 それにしても絵の迫力が凄まじい。

 ストーリーの山場には、画面の隅々にまで描きこまれた圧倒的なシーンが何度もあるわけだが、むしろそうでない場面でも同じくらいの描き込み量が続いていることに驚嘆を覚える。どうしてモブの貴族のオッサンまでそんなに丁寧に描けるのか、と。

 しかしそれもマンガとしてのトーンを保ち没入感を生むためには必要だったのだろう。

 それだけの描き込みをしたからこその名作。しかしそれだけの描き込みをしたために結末まで描き切れなかったのかもしれないと思うと複雑だ。現在は親友で漫画家の森恒二氏と、元々のアシスタント陣が引き継いでいる。


 以下、雑多な気づいたこと。

 ファルネーゼがこんなに性癖が歪んだキャラだということを忘れていた。最近の話では「キャスカの世話をしながら魔術を学んでいる人」というイメージが強かったので。このあたりの心の闇が改めて描かれる予定はあったのだろうか。

 前半でガッツが戦う使徒は、触で鷹の団のメンバーを殺した使徒である、ということに気づく。文章で説明しないが、きちんと復讐を果たしていたんだな、と。

 ファルネーゼがいた聖鉄鎖騎士団の副長のアザンが再登場していることも一気読みしたおかげで気づけた。

 モズグス様はてっきり最初から人間じゃなかったのかと思っていたけど、出てきた時は本当にただの人間だった。それであの顔って、一体何なんだ。顔を打ち付けても輪郭は四角くならないだろう。

 序盤にやたらと変な名前の騎士団が出てくるのが面白い。紫犀騎士団。青鯨騎士団。実際の歴史でも色プラス名前の騎士団があったのだろうか。


 後年の作品への影響が語られることが多いベルセルク。

 最近『ダークソウル3』をプレイしたが、ゲーム製作者が公言している通り、ベルセルクへのオマージュがそこはかとなく感じられた。

 単にダークファンタジーであるという共通点だけでなく、人間が異形に変わる様や、現実と非現実が交錯する世界観などに強い影響が見られる。

 使徒を倒すたびに、転生に至る過去が描かれる様は『鬼滅の刃』にも影響しているのかもしれない。あるいは間接的な形で。


 最終回予想。

 グリフィスが旧鷹の団を贄に捧げた行いは紛れもない悪行である。

 しかしファルコニアで行われていることまでが全て悪であるようには思えない。間違いなく人を救っている。今後のさらなる悪行への前フリという可能性もあるが。

 なので、グリフィスとガッツが、人と使徒を従えてゴッドハンドと戦い、人の世を「神」が操る運命から解放するのではないか。それは「上昇し続ける」というグリフィスの望みとも合致している。

 そして運命から解き放たれたグリフィスとガッツが最後の決着をつける、という展開へ。

 そもそもなぜグリフィスは、満月の夜ごとに子供になってキャスカの元に訪れていたのか?

 もしかするとグリフィスにも人間らしい心が少しは残っているのではないか。あるいはゴッドハンドになったときに「フェムト」と「グリフィス」という2つの人格に別れた、という展開もありうる。

 実は触でのグリフィスの「…げる」というセリフは実は「捧げる」では無かった、という可能性もちょっと考えたが、さすがにそれは無いだろうか。

 そんな野次馬的楽しみはそこそこにしつつ、無事完結することを祈りたい。

名著の話 / 伊集院光

 NHKの番組『100分de名著』で取り上げた本と、番組でその本を紹介した専門家を再び呼び、レギュラー出演者である伊集院光との対談を収めた本。

 伊集院光は、あえてその本を読まずに出演し、視聴者目線で質問したりすることで、視聴者にわかりやすい番組にすることを目指しているらしい。この対談には番組放送後に本を読んだ状態で臨んでいるとのこと。

 本書で取り上げている本は『変身 / フランツ・カフカ』『遠野物語 / 柳田國男』『生きがいについて / 神谷美恵子』の3冊。


 サブタイトルから連想されるように、取り上げられる3冊は、傍流的なもの、アウトサイド的なものをテーマとしている点が共通しているように思われる。

 「ひきこもり」や「うつ」と関連して語られることが多い『変身』。近代化する日本で、「語り」という方法によって日本古来の深層心理のようなものに迫った『遠野物語』。ハンセン病患者に取材した『生きがいについて』。

 「普通の人であれ」という同調圧力が高まっているように感じられる今の世の中だからこそ、本書の言葉の多くが胸に響く。


 かつてインターネットが、個人の自由をバックアップし、同調圧力のない世界を作ってくれるかのような幻想を人々に抱かせた時代があった。

 でも現実はそうならなかった。強い人間を可視化し、人気のあることだけが是であるという価値観を産み、悪意を増幅し、自己検閲がはびこった。

 というのはもちろん悪い面だけをあげつらったのであり、インターネットの正の面も無いはずはないのだが、世の中の空気を自由で多様性のある方向にするのにインターネットが寄与していると感じる人はあまり多くないのではないか。


 人生の一回生。個人の代えの効かなさ、計量不可能性。そういうことについて考えるためには、そういうことについて書かれた本を読むのが良い。そして本書はそのような本である。

 そういった問題は人間の意識という電気信号によって生まれたバグのようなものに過ぎない、と、ある種の人は言うかもしれない。

 しかしそのような議論は、人間の心にとっては関係がないというか、ほとんど意味がない。

 もしかしたら人間の意識を完全にコントロール可能になる日が来るかもしれないが、少なくともその日までは意味がない。個人的にはこのペースだとその日は来ないんじゃないかと思うけれど、根拠は特に無い。

 本との出会いはいつも偶然だ。その偶然性が時に「かくあるべき」という圧から個人を自由にしてくれる。そんな本のことを名著と呼ぶのだろう。

池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 近現代作家集 Ⅲ

 読みたくない本を読みたい、と思った。

 あるいは、読みたい本を探して読む、という行為に限界を感じた、と言うべきか。

 とにかく、自分自身では選ばないような本を読みたい気分になった。


 自分で選ばないのであれば、誰かに選んでもらうしかない。

 というわけで池澤夏樹編『日本文学全集』を読むことにした。一番とっつきやすそうな、近年の作品を集めた「近現代作家集Ⅲ」から。


 などという軽い気持ちで読み始めたのだが、久しぶりに文学作品を、しかもよりすぐりの作家による作品群を一気にまとめて読んだので、かなり重たいショックを心に受けることになった。ダメージ、と言ってもいいかもしれない。

 なのでまともに感想を書ける気がまるでしない。まぁ別に義務ではないので、書けることだけ書いていこうと思う。


 全体のテーマとしておおまかに「自然をテーマにしたもの」「性をテーマにしたもの」「震災をテーマにしたもの」に分かれる。そうでないものもある。

 内田百閒『日没閉門』。随筆。特にどうという話ではないが、だからこそ、時代の空気がそのまま切り取られている。そのことに尊さやかけがえのなさがある。

 野呂邦暢『鳥たちの河口』。諫早湾でバードウォッチする男の話。作中に登場する干潟は堤防になって今は無いらしい。

 幸田文『崩れ』。崩落地を巡るルポルタージュ。「日本三大崩れ」という言葉を初めて知る。稗田山にはこの作品を記念した文学碑が立っているという。

 富岡多恵子『動物の葬禮』。母と娘。そして娘の恋人のキリンと呼ばれた男の葬礼。ドタバタ感すらある。ごく普通の人間への温かい眼差し。

 村上春樹『午後の最後の芝生』。村上春樹は小説を書くことを、ぐったりとした猫を積み上げると書く。その諦念のスゴさをしみじみ感じる。

 鶴見俊輔『イシが伝えてくれたこと』。アメリカ先住民として生まれ育ちながら、アメリカ社会に馴染むことを選んだ「イシ」にまつわる評論。

 池澤夏樹『連夜』。沖縄を舞台に、悲恋を遂げた霊がある男女に憑依する。

 津島佑子『鳥の涙』。子供に聞かせる「お話」にまつわる話。「おまえ」や「私」がどんどん融解していくさまが迫力を生んでいる。

 筒井康隆『魚籃観音記』。観音菩薩と孫悟空の情交。そんなぁ。うん。そうなんだ。

 河野多恵子『半所有者』。所有への欲望の怖さと哀しさ。

 堀江敏幸『スタンス・ドット』。ボウリング場最後の日、最後の客。いかにもいい話になりそうな設定ではあるが、記憶というものに思いを馳せるような内容。

 向井豊昭『ゴドーを訪ねながら』。ゴドーを待ちながらの主人公2人が恐山のイタコに会いに行く。破調。だけどものすごいパワー。作者のことを知らなかったが覚えておきたいと思った。

 金井美恵子『『月』について、』。よくわかりませんでした。

 稲葉真弓『桟橋』。夫と別居し、入江に通う母と娘。真珠貝に自己投影するというオシャレさ。

 多和田葉子『雪の練習生(抄)』。ソ連のホッキョクグマが会議に出て自伝を書いて亡命する。国に振り回されるクマ。普通のリアリズムではないが、ものすごく我々が生きる現実に繋がっている。

 川上弘美『神様』『神様2011』。1993年に書かれた著者最初の短編を、震災直後に書き直したのが『2011』。放射性物質に囲まれた日常。

 川上未映子『三月の毛糸』。妊娠した妻との旅行。ホテルでの一夜。村上春樹チック。

 円城塔『The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire』。銀河帝国の衰退と没落。ほとんど2ちゃんねる(現5ちゃんねる)やアンサイクロペディアのような言葉遊び。この人の書くものは今のところ全部よくわからないが、それがダメだとも思わない。


 文学全集の感想を書こうとすると、「文学の意義」みたいなことを言いたくなる。あるいは、言わなければならないような気がしてくる。

 でもとっくにそういうことを言い立てるような時代ではないだろう。

 そもそもかつて文学全集というものが成り立っていたのは、文学がある種の権威だったから。教養だったから。家に文学全集を並べておくことがある種のステータスだった。

 そういう時代があったらしいが、今やそんな一時の風習は廃れてしまっている。

 じゃあ文学がダメになったかと言うと全然そんなことはない。確かに、一個の大きな流れみたいなものは見えにくくなったが、そのぶん拡散して自由になったとも言える。

 なにより、文章で物語や物事について書くことは、そう簡単には終わらない強度を持っている。

 今だからこそ文学全集を読むことで、そのことを確認できる。と、書くとちょっと「文学の意義」っぽくなってしまうか。

村上春樹の100曲 / 編著 栗原裕一郎

 村上春樹の小説作品に登場する楽曲の中から100曲をピックアップ。楽曲の背景、小説上での用いられ方、そしてその含意・ニュアンスを解説した本。

 巻末に、全小説に登場する楽曲を網羅したリストを掲載。

 さらにエッセイやインタビューでの発言も踏まえた解説となっている。

 村上作品を振り返る上でも、新しい楽曲を知る上でも、大変意義深い本である。



 自分は一応村上春樹のフィクション作品は9割くらい目を通しているが、じゃあ作品に登場する楽曲を全て把握しているかと言うともちろんそんなことはなく、基本的に「そういう曲があるんだ、へぇ」で流してきた。

 例えば『風の歌を聴け』にはビーチボーイズ『カリフォルニア・ガールズ』のタイトルが5回登場し、歌詞が2回引用されているそうだが、自分がその曲を聞いたのはつい最近、村上春樹が訳したビーチボーイズの伝記を読んだのがきっかけだった。

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 じゃあ本書を読んで村上作品に登場する楽曲に通暁、つまり詳しくなれたかと言うとそうでもなく、「へぇ、そういう曲があるんだ」が増えただけである。オレの記憶力を買いかぶるのは止めてもらいたい。誰に対してキレてるんだオレは。



 それはそれとして。本書では楽曲を「80年代以降の音楽」「ロック」「ポップス」「クラシック」「ジャズ」の5つのカテゴリに分類し、それぞれ別の書き手が解説を書いている。

 それぞれの解説の文章に、それぞれの音楽ジャンルの「バイブス」のようなものが滲み出している感があり、それもまた本書の読みどころのひとつと言っていいと思う。

 常々音楽からの影響を公言している村上春樹であるが、本書では基本的に、作中の楽曲の扱い方を「適切」と称賛している。

 ただ、『国境の南、太陽の西』に登場するナット・キング・コール歌唱の「国境の南」の音源が存在しないことや、『騎士団長殺し』の主人公がスプリングスティーンの『ザ・リバー』を「懐かしい」と言うのは年代的におかしい、といった細かい瑕疵(前者は故意の可能性もある)の指摘もしている。

 今はサブスクに登録すれば大抵の楽曲は聴けるので、実際に聴きながら読書もやりやすい。と思って検索してみたら著者のひとりである栗原裕一郎氏が作成したSpotifyのプレイリストが見つかった。

open.spotify.com

 いい時代である。しかしもしかすると、サブスクの時代には村上春樹みたいな小説は生まれてこないのかもしれない。それはそれで別の形の小説が出てくるだろうから、別にいいんだけども。

『HUNTER×HUNTER』暗黒大陸編を読み返した 「数を多くすること」への挑戦

 なにかお金を使わず自分の好きなことだけをして時間を潰したい、と考えた結果、『HUNTER×HUNTER』暗黒大陸編を読み返すことにした。現在37巻までコミックス刊行中。

 一般的に暗黒大陸編と呼ばれるが、厳密に言うとまだ暗黒大陸に到達していないので、王位継承編とでも呼んだほうがいい気がする。



 なにはともあれ、とにもかくにも文章が多いのが暗黒大陸編。

 権謀術数が渦巻く船内で、名前ありキャラ推定100人超(数えたわけではない)の思惑が交差する群像劇。

 未だに内容が頭に入りきっているとはとても言えない。情報量が多すぎる。

 おそらく読者が自力で「時系列に沿ったキャラクターの行動表」を作成しなければ、100%楽しむことはできないのではないか。そんな気さえしてくる。世界中で全てを把握している人は2桁人くらいしかいないのではないか。

 ページを開いた瞬間、文字の多さに辟易する人がいてもおかしくない。そういう漫画をどう評価すべきか。正直、自分の中での評価はまったく定まっていない。



 しかしそれはそれとしてめちゃくちゃ面白い。

 心理戦とドラマチックな展開の連続。

 「スゲェ!」と「今何やってるんだっけ?」の波状攻撃が襲ってくる。それが暗黒大陸編。



 とにかく「数を多くすること」。それが作者冨樫義博の、現在の挑戦なのではないか。そんなふうに見えてくる。

 ヒソカVSクロロの戦いも大量の群衆をクロロが利用してヒソカを追い詰める展開だったし。

 もしギネスブックに「顔と名前のあるキャラの登場数」の項目があったらHUNTER×HUNTERが認定されるかもしれない。いや、他にも上があるか。長期連載の1話完結もの、具体的にはゴルゴ13とか。



 膨大な文字数の殆どは、登場人物の心理描写であり、心の声だ。

 しかしそもそも現実の人間は、はそんなに頭の中でものごとを考えているだろうか?

 現代人は、SNSの発展によって大量の情報にさらされるようになったが、ただ受け取っているだけで、全然消化しきれず、むしろ目に映った情報に直接的に反応するだけになってやしないか?

 なんてことも考えてしまう。

 脳内描写の乱打によって「頭を使って考えること」の復権を目指しているとしたら、それもまた漫画の歴史に残る挑戦になるだろう。

文体練習 / レーモン・クノー 著 朝比奈弘治 訳

 とあるごく些末なエピソードを、手を変え品を変え、多種多様な99パターンの文体で書いた本。そういう本がある、ということは昔から知っていたが、手に取るのは初めて。


 はっきりいって最初は読みにくかった。

 章が変わるたびに、その文体によって何を試みようとしているのかを、読み解きなおさなければならない。

 わかりやすいものもあれば、飲み込みづらいものもある。

 しかも本書はフランス語からの翻訳。言語の違いによって大幅に意訳されているものもあり、オリジナルの文章の意図を推測せねばならない。

 もはやちょっとしたミステリ小説。



 そのあたりのことは、巻末の訳者による解説で全て詳らかにされている。さながら謎解きパートといったところ。

 最初から解説してくれればもっとスムーズに読めたのに、と思うが、解説がないからこそ自力で読む苦労を味わえたとも言える。



 そして読書体験として純粋に面白かったかと言うと、そこも難しい点であり、ユーモアって国によって結構違うよね、なんてことを読みながら思い続けることになった。

 全体的にインテリぶっている感じがするのもいかにもフランス文学な印象。

 日本語話者が日本語で書いた「文体練習」を読んでみたい。し、おそらく探せばどこかにあるんだろう。



 とはいえ、以上のことはあくまで読者としての素朴な感想であって、本書の歴史的意義だとか、文学的な試みだとかはとは別次元の話である。

 まず同じエピソードを99パターンの文体で書くこと自体、なかなかできることではない。

 こういうことをやろうとすると、高名な作家のパスティーシュなどに手を出したくなりそうなものだが、そういった同時代的なやり方は極力排除されており、古典や詞(短歌を含む)を扱った時代を問わないもの、あるいは言葉遊び的な言語操作がテーマのものがほとんど。

 そういった「内輪ネタ」に陥っていないことが、本書が歴史を超えて読みつがれている要因なのだろう。