rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ぼくらの戦争なんだぜ / 高橋源一郎

 戦争(主に第二次世界大戦)について書かれた詩や小説、教科書などを読みながら、戦争について考える本。


 第一章「戦争の教科書」。日本の現代の教科書と第二次大戦中の教科書、近年のドイツやフランスや韓国の歴史教科書を読み、国家について考える。

 第二章「『大きなことば』と『小さなことば』」。広島で原爆投下を免れた著者の母が晩年に書いた自伝。映画『この世界の片隅に』。古市憲寿『誰も戦争を教えられない』。昭和19年に出版され高村光太郎が序文を書いた戦争賛美の『詩集 大東亜』。中国大陸に出征した兵士6人による詩を集めと昭和17年刊行『野戦詩集』。戦争に対して、マクロな視点とミクロな視点で書かれた文章を比べる。

 第三章「ほんとうの戦争の話をしよう」。戦後小説の代表とされる大岡昇平『野火』。著者が20代の頃、末期がんの友人にお見舞いした経験。会話が通じない政治家。猫田道子『うわさのベーコン』。非常と平常の距離について考える。

 第四章「ぼくらの戦争なんだぜ」。東京大空襲被災の経験を書いた向田邦子のエッセイ『ごはん』。林芙美子の従軍記『戦線』と短編『ポルネオ ダイヤ』。古山高麗雄『白い田圃』『蟻の自由』。金子光晴の詩『おっとせい』。後藤明生『夢かたり』など。戦争を自分たちの物語として語る方法を探る。

 第五章「『戦争小説家』太宰治」。ロシアとウクライナの戦争を踏まえ、開戦後ロシアで放送されたドミートリー・ブィコフのラジオの発言を紹介しつつ、太宰治が『十二月八日』『散華』『惜別』の中に込めたメッセージを探る。

 全体に鶴見俊輔の文章が引用される。戦時中、自らが過ちを犯したときに自害するため青酸カリを持ち歩いていたというエピソードが、本書に通奏するテーマのようになっている。



 戦争について考えるのは難しい。という文章は学校の読書感想文などで100万回くらい書かれていそうだが、実際難しいんだからしかたない。

 たくさんの人の命が奪われる。目も当てられない暴力が繰り広げられる。平和な日々からはあまりにも遠い。

 でも戦争について知らなきゃいけないとも思う。特にこんな時代には。


 著者の高橋源一郎は、詩や小説や教科書の言葉を通して、戦争に近づくことを試みる。

 なぜ詩や小説なのか? 戦争を知るなら、歴史的事実を知れば十分じゃないの?

 そうかもしれない。でも自分はそうじゃないと思う。

 言葉には、表面上の意味だけでなく、その裏側に秘められた様々な意味がある。裏側に秘めるからこそ伝えられることがある。特に戦争のような非常時には。

 それを読み取ることに意味があるだろうか? 自分はあると思う。

 また、歴史はあくまでも多くの人にとって重要な(比較的に)客観的な事実を述べたものだ。そこにいた個人の考えなどが記されているわけではない。

 詩や小説には個人の声が記されている。教科書には「国家の声」と呼べるようなものが記されている。

 それを知ることに意味があるか? 自分はあると思う。

 あるいは、もし戦争に巻き込まれたら、言葉が持つそういった力や効果を使うことが、生き延びるために必要になるかもしれない。もしかすると日常においても。



 戦時中、「散華」という言葉は、「玉砕」と同じように、戦死という言葉の言い換えとして使われた。

 太宰治は戦時中に、2人の友人の死を描いた「散華」という美しい小説を書いた。

 今「散華」という言葉で検索すると、仏教用語と共にその小説が上位にヒットする。

 この事態をもって、小説の力によって散華という言葉の本来の意味を取り戻すことができた、と見ることができるだろうか。単に時間の流れで言葉の意味が変わっただけという可能性も大いにあるけれど。

 仮に言葉によって言葉の意味を変えることができたとして、その程度のことに、意味があるだろうか? それはわからない。

 でも同じようにして、言葉を用いることで「人間の尊厳」みたいなものを取り戻すことも、ひょっとしたらできるかもしれない。

 戦争を、誰かのものではなく、自分たちのものとする。「ぼくらの戦争」にする。それが、戦争という大きなものに尊厳を奪われないための方法なのかもしれない。

世界でいちばん透き通った物語 / 杉井光

 どうやら話題になってるらしい、と前々から気になっており、たまには話題の本も読んでみるか、という気が起こったので手に取った。

 核心的なネタバレはしないが、周辺的なネタバレには触れていくので、前情報を入れずに読みたい人はここでブラウザバックしていただきたい。ついでに当ブログの他記事のリンクを入れておく。宣伝。




rhbiyori.hatenablog.jp




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 電子書籍化不可能という帯文、そしてネタバレ厳禁という通販サイトなどの文言を見て、「本そのものになんらかの仕掛けがあるんだな」ということは薄々気づいていた。似たような本は読んだことがあったし。あるいは「透き通った」というタイトルから類推出来てしまう人もいるかもしれない。

 自分は中盤まで読んだところでふと試してみて「仕掛け」には気づいてしまった。作中に京極夏彦の名前が出たことで、ははあん、となった。

 しかしその仕掛けがどんな結末に繋がるのだろうか、という謎は最後まで続くので、それに引っ張られて最後まで読むことができた。


 少なくとも自分にとっては「予測不能の結末(裏表紙あらすじより)」ではなかったわけだが、この本のスゴいところは、この本を書き上げたことそのものにある。

 その理由も最後まで読めばわかる。


 自分はこの手の「泣かせにくる」系の物語が苦手なので、ストーリーには特に感動はしなかった。一言で言えば「親子もの」である。

 しかしそれにしてもよくやりきったな、という念が湧く。

 よく書けたな、という意味では感動的だった。


 例えば自分は俳句があまり好きではなく、それは言いたいことがあるなら言葉を尽くして言えばいいんじゃないか、と思ってしまうから。

 しかし形式が内容を生むこともある、ということは頭では理解している。

 本書にも同じようなことを感じた。

 そのままでは形として表せない物事でも、型にはめれば成立する。芸術の持つ不思議というかなんというか。


 主人公の恋愛観が中学生レベルなのは、なにか理由があるのかと思ったが、そうでもなかった。読書家にしては、妙に初心。自分の親のことだからそうなるのかもしれないが。

 セリフの口語的表現や助詞の省略が多かったり、ダッシュ(―――)による省略が多用されていたり(見開きごとにほぼ1つ以上ある)、変なところで難しい漢字を使っているたりするが、そのへんの理由も最後まで読むとわかる。

 なぜだかわからないがこの小説はタイトルが覚えにくい。思い出そうとしても「どこまでも透き通った」とか「いちばん透明な」とか違うワードが出てくる。おかげでネットで検索するのにひと手間かかる。作中人物もタイトルがうろ覚えの人が多いのも、作者と編集者とのやりとりで同じような話題が出たからだろうか、などと想像するのもまた楽し。

あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生 / 佐々木敦

 わたしは今、この文章を書いている。

 この文章を書いている今の自分の状況を、言葉で表すなら、そうなる。

 でも、書き終わった瞬間にその文章は過去になり、「今」ではなくなる。何度か推敲したりもしているし。

 そもそも「自分が文章を書いている」という記述自体が完全な事実ではなく、ひとつの見方でしかない。現代の、日本語による、一般的な表現でしかない。

 脳がわたしに文章を書かせている。

 と、受動態で表現したほうが、別の見方に依るならば、より正確なのかもしれない。

 もしくは「書け、と何かが囁いている」とか。

 あるいは数百年後数千年後の日本語では、そのように受動態で表現するのが正しいとされるようになるかもしれない。


 『あなたは今、この文章を読んでいる。』を読んだ感想を書こうとしたら、なぜかそのようなことに思いが至った。

 同じ著者の佐々木敦による『筒井康隆入門』の中で言及されていたため手に取った本書。

rhbiyori.hatenablog.jp

 前半は、筒井康隆などのメタフィクション作品や、渡部直己などのメタフィクション論に対する批評。

 後半は、円城塔、伊藤計劃、神林長平らの作品を論じながら、著者が新たに提唱する「パラフィクション」という概念を考察していく。

 という構成になっている。


 メタフィクションとはなにか。

 フィクションそのものが、自身がフィクションであることに言及するようなフィクション。

 あるいは、フィクションをフィクションたらしめている様々なルールやや約束ごとをあえて破るようなフィクション。

 そのようなフィクション自体は、古くからフィクションの歴史とともに存在している。

 フィクションあるところにメタフィクションあり、と言ってもいいのかもしれない。

 基本的に、フィクションを見る人は、それをフィクションとして楽しむためには、それがフィクションであることを「一旦、見て見ぬふり」している。

 「ただの作り話だよね」というツッコミを一旦脇に置かなければ、フィクションに没入することは難しいから。

 もちろんそれは、フィクションを本当の話だと思いこんでいる、という意味ではない。むしろフィクションがフィクションであるとわかり切っているからこそ、安心してフィクションに没入できる。

 そのような「見て見ぬふり」という「お約束」に対して、ごく小規模な、物語の本筋と関わらないようなメタフィクション描写は、「これは作り話だよ」といったメッセージによって、みんなが見ないようにしている「お約束」に対して言及する。例えば、突然作者が作中に顔を出す、というような。

 読者はそこに意表を突かれたおかしみを感じるわけだが、やっていることは、そこにある「お約束」に言及しているだけの、いわば「あるあるネタ」であって、さして斬新でも先進的でもない。


 しかし文学用語としてメタフィクションが発明・発見され定着したのはわりと最近のこと。1970年の評論が初出であるらしい。

 そこからメタフィクションの手法をより押し進めた様々なフィクションが作られてきた。


 本書の著者は、そのようなメタフィクションの進歩と発展に対して、ある懐疑的な見方を示す。

 決してメタフィクションそのものがダメだと言っているわけではない。

 そうではなくて、メタフィクションを高度に深化・複雑化することよってある「問題」が生じてきており、その問題によって新しいものが生まれにくくなっているのではないか。

 というような意味合いの「懐疑」だと思われる。


 メタフィクションの問題とは何か。

 それは、メタフィクションの手法を徹底するほど、むしろそのフィクションの「作者」の存在が読者に強く意識されてしまうという点。

 実験的なメタフィクション作品は、ものすごく乱暴な言い方をすれば、「新しいフィクションのかたち」を作ることを目指している。

 例えば、メタフィクションの手法により、フィクションのフィクション性を揺さぶることでリアル(現実)のフィクション性すらも揺さぶろうとする、というような。

 しかし、ある作品が高度で完成度の高いメタフィクションであればあるほど、結局は「全部作者のてのひらの上じゃん」感が出てしまう。

 メタフィクションが、新しいフィクションになるのではなく、むしろフィクションのフィクション性を高めてしまっているのではないか。


 そこで著者が提唱するのが「パラフィクション」という概念。

 メタフィクションは、フィクションがフィクションであることに自己言及する。

 それに対しパラフィクションは「読者が読むこと」に言及する。

 パラフィクションは全くの新しい概念というわけではなく、既存のメタフィクションの中から枝分かれして派生してきたジャンルであるという。その代表的な作家として著者は円城塔の名を挙げている。


 「あなたは今この文章を読んでいる」という文章は、パラフィクションの最小の形のひとつだ。

 読み手がこの文章を読むことによって、初めてこの文章は真となる。考え方によってはとても不可思議な性質を持った文章だ。

 あるいは「README」という文章。

 ソフトウェアの説明書となるテキストファイルのタイトルとして使われる英文だが、あえてこの一文だけを取り出して「この文(READMEという文そのもの)を読みなさい」と解釈することもできる。

 しかしREADMEという文を認識した時点で、読み手はすでにこの文章を読み終わっている。ある意味では、絶対に遂行されることのない命令文である、とも言える。


 で、正直に言うと自分はまだパラフィクションが持つ意味や可能性についてハッキリと理解できてはいない。


 まず「パラフィクションは読者に言及するタイプのフィクション」という自分の認識がどの程度正しいのか。

 本書後半の『屍者の帝国』の批評を踏まえると、「読み手が書き手であり書き手が読み手であるような小説」「書き手が書き手なのかどうかがわからなくなるような小説」がパラフィクションなのだろうか、とも思える。

 例えば自分がプレイしたゲームの中には、ハッキリとプレイヤーを物語に巻き込もうとするタイプのゲームがあるが(ネタバレ防止のためにSteamのリンクだけ貼るとこれとかこれとかこれとか。すべていわゆるインディーゲーム、かつ「圧倒的に好評」なのが印象的)、それらはパラフィクションに含まれるのか。

 それらがパラフィクションだとして、具体的に既存のメタフィクションとどのような違いがあるのか。

 ゲームはパラフィクションに適した媒体であるようにも思える(受け手が能動的に干渉するインタラクティブなメディアだから)が、一方で上記のような作品は、本書の8章で例示された二人称小説のような「よくできたメタフィクション」でしかないようにも思える。


 といった部分がまだよくわかっていない。

 本書でパラフィクションの書き手とされる円城塔の小説が苦手で読んでこなかったこともあるだろうか。

 伊藤計劃は読んできたけど、正直それも「メタルギアファンだから」っていうのが大きいし。


 そんな自分が感じるのは、パラフィクションは、冒頭で書いたような、そもそも書くとは能動的な行為なのかどうか、というような問題にも通じている気がする、ということ。

 その発想も多分『中動態の世界 / 國分功一郎』が元ネタだとは思う。オレってニワカ本読みだなぁ、と思わざるを得ないが事実なんだからしょうがない。

 本書を読んでいるときも「こういう専門的な本を沢山読んで勉強しておけばよかったなぁ」としみじみと思った。いつも思っている。

 テーマの性質上、議論の中心が抽象的であり、ポンコツな自分の読解力ではただ抽象的だというだけでも読むのに苦しんだが、議論そのものはそれほど難解ではない、ということはおぼろげながらわかった。


 ともあれ、佐々木敦の本を読みたいという気持ちは継続しているので、今後も読んでいきたい。

 著者はこの本の後もパラフィクションに関連のありそうな本を数冊書いているのでそちらも読んで理解を深めたい。

 また本書が提唱したパラフィクションの概念に触発されて筒井康隆が書いた小説が『モナドの領域』であるとのこと。読まねば。

笑犬楼VS.偽伯爵 / 筒井康隆 蓮實重彦

 主に筒井康隆の近著という理由で手に取った。

 蓮實重彦のことはあまりよく知らなかった。

 どちらかというと、堅苦しい文章で小難しいことを言うめんどくさそうな年長の批評家、というイメージだった。

 自分の中での分類としては柄谷行人などと同じ「箱」に入ってる、というか。実際はだいぶ遠いんだろうけど。

 『伯爵夫人』の受賞会見でのアレコレもそんなイメージを補強した感がある。


 対談や往復書簡のパートでは、大江健三郎の話題が半分くらいを占めている。

 本書そのものが、著者二人の大江健三郎へ当てたファンレター、という印象すらある。

 しかし自分は大江健三郎の作品は初期の数作しか読んでいない。

 その他にも、戦後の小説・映画・演劇の話題が多く出てくる。

 平成に育った自分にはわからない話ばかり。

 でもわからない話はわからないものと割り切って読めばそれなりに悪い読書体験ではなかった。

 おじいさん同士が楽しそうに話しているのを傍で聞いているような気分、というか。

 まして名うての書き手である二人によるそれであれば、読んでいて心地よくないハズもなく。


 わからないだけでなく面白い話もあった。『文学部唯野教授』に対する二人のスタンスとか。テリー・イーグルトンの評判とか。

 タイトルに『VS.』、がついているものの、特に対決要素はない。80オーバーでバチバチに論争し合ったりしてたら元気すぎるとしか言いようがないが、さすがに読者もそれは臨んでいないだろう。

 「対」ではなく「VS.」なのが、なんとなく好ましい。


 本書で自分の中での蓮實重彦のイメージが変わったか。

 堅苦しい、という感じではなくなった。めんどくさそう、というイメージはあまり変わらなかった。めんどくさい方が面白いこともあるから助かることもある。

筒井康隆入門 / 佐々木敦

 筒井康隆を読まなければなぁ、という気持ちが常にある。

 なぜかといえばもちろん筒井康隆はスゴイからである。

 どの小説を読んでも面白い。『虚人たち』のような実験的な作品。『文学部唯野教授』のように文学理論を解説する作品。はたまた『時をかける少女』のような青春ジュブナイル作品。どんなジャンルも縦横無尽に書きこなす。近年、というか今現在も『残像に口紅を』がバズり、文庫売上の上位に位置し続けている。小説家に限らず様々な人々からリスペクトを集めている。

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 しかしそんな素晴らしい筒井康隆作品をバリバリ読んでいるかというと、そこまでではない自分がいた。

 作品ごとにジャンルが違いすぎるので、タイトルと概要だけではどんな作品かわからず、なんとなく手を伸ばしづらい。あまりに選択肢が多すぎて、どこから手をつけていいのかわからない。どれが自分にとって読むべきかわからない。いや、全部読めばいいじゃないか、という考えもあるが、いかんせん作品数が膨大すぎてちょっと辛い。

 なにかに似ているな、と思ったが、アレだ。動画サブスクリプションサービスに登録した時。古今の名作が並んでいるが、どれから観ていいのか分からず、定額だからいつか観ればいい、と後回しにし、結局全然観ない、という事態。

 いわば小説界の「一人ネットフリックス」。そんな作家は世界的・歴史的にも他に見当たらない。しかしそれがゆえに未読者にとってはハードルが高くなってしまっている面もあると思う。誰が悪いわけでもなく。

 自発的に本を選んで読むようになって以来、そんなことを感じていた自分が、『筒井康隆入門』というタイトル、筒井康隆自身による帯文、そして著者欄にあの『ニッポンの文学』『ニッポンの思想』の佐々木敦の名が記されているのを見て、ほとんど本能的に手に取りレジに持っていった。

 そして結論から言えば、もっと早く読んでおきたい本だった。


 筒井康隆が発表した小説を、おおよそ発表順に取り上げ、解説していく。さすがに膨大すぎて全作品とはいかないが、長編はほぼ全作を網羅しているとのこと。そこから筒井康隆作品の全容がうっすらと浮かび上がってくる。

 本当は読後感としては「かなりクリアになる」と言いたい気持ちはあるのだが、いかんせん作家としての全貌が宇宙的に遠大すぎて、そう言うのがはばかられる。「筒井康隆がわかった」などと言える人はおそらくどこにもいないわけで。


 虚構(フィクション)というテーマが本書の一つの軸になっている。様々な作品で、虚構のあり様を実験してきた筒井康隆。演劇という独特な虚構性を持った表現ジャンルをバックボーンに持つことが、作風に影響しているのではないか、と著者は推察している。

 2014年に著者の佐々木敦が提唱した「パラフィクション」という概念に興味を示した筒井康隆は、パラフィクションを全面的に取り入れた短編『メタ・パラの七・五人』、そして長編『モナドの領域』を著す。その顛末には、文学の未来への希望を垣間見える。


 今後は本書を片手に筒井康隆作品を当たっていきたいと思っている。その意味で本書は自分の読書人生を変えた一冊になる予感がしている。

ガラスの街 / ポール・オースター

 ポール・オースターの小説は結構前に『ティンブクトゥ』を読んだことがある。今回が2作目。

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 柴田元幸といえばポール・オースター。そしてポール・オースターと言えばまずはニューヨーク三部作。というイメージが漠然と自分の中にあった。どこから調達したイメージなのかは覚えていないが。

 その1作目である本作にようやくとりかかることができた。


 まず1章で心を掴まれた。孤独な人間の孤独なさまを、俯瞰してただ見つめるようなその筆致にやられた。

 で、そこからちょっと忙しくなってなかなか続きを読めなかった。辛かった。なので休日にまとめて読み切った。


 主人公のクインは小説家。妻と息子を失ってから、ペンネームで探偵小説を書く以外は、ニューヨークの街を孤独にさまよう日々。

 彼のもとに「ポール・オースター」にむけた事件の依頼が来る。

 2歳の頃から9年間、父親に監禁されていた男ピーター。精神異常と診断され入院していた彼の父親がもうすぐ退院する。ピーターに危害が及ばないよう守って欲しい、という依頼。

 他人に向けたその依頼を、クインは請け負ってしまう。


 ミステリ小説として読もうとすると、終始不可解なことが起こり、最終的に謎は解消されない。

 特に主人公の行動が不可解である。それをただの狂気によるものとして読んでしまうと「よくわからない人がよくわからないことをした話」と捉えかねない。

 この小説はミステリ小説ではないし、あえてミステリの定石を外した「反ミステリ小説」でもない。「お約束」ではないし、「あえてお約束の裏をかく」でもない。

 むしろそのどちらにもなれないようなものを書こうとしている。


 クインは自らの小説の主人公「マックス・ワーク」のようになろうとして、なれなかった。

 主人公になれ、と誘う。その誘いをもたらすものは、ニューヨークという街が保つ磁場であり、ピーターの依頼、人妻の誘惑、謎の老人、宗教的陰謀といった探偵小説的仕掛けであり、本という媒体そのものの持つ力でもある。

 最初期の小説でありながら最初期のメタフィクション小説でもある『ドン・キホーテ』への言及によって、それらのことはほとんど明示される。

 探偵小説を書いて探偵になろうとするダニエル・クイン。騎士小説を読んで騎士になろうとするドン・キホーテ。どちらもイニシャルは「D.Q.」である。


 妄想が現実になることはなく、クインは赤いノートを残して消えてしまう。

 でも、この本を読んでいる読者も、あるいはこの本を書いた作者も、いや、現代に生きる者はみな、赤いノートを心に抱えているのではないか。

 そう後ろから囁かれているような、ほんのり薄ら寒くなるような読後感だった。


 最近小説を読んでいると「この作者は大丈夫なんだろうか」と思うことがあり(今村夏子作品とか)、それは明らかに一読者の立場からはお節介が過ぎる心配なのだろうけれど、本書に関しては「この作者は、こんなに孤独を見つめて、大丈夫なんだろうか」という気持ちになった。



 以下、雑多な感想。

 人探し要素の部分では村上春樹『羊をめぐる冒険』を思い起こした。終盤は安部公房『箱男』のようなスゴみがある。

 作中に様々なニューヨークの地名が登場する。自分はゲーム『Marvel's Spider-Man』で見た景色を思い出しながら読んだ。国連ビルとかフラットアイアンビルとか。この本をそういう読み方する人は世界で自分が初めてかもしれないが、さすがにそれは無いか。

 「ピーター・スティルマン」という名前は『メタルギアソリッド2』に登場する爆弾解体専門家と同じ。オマージュだろうか。舞台がニューヨークなのは共通しているが、それ以外の共通点はあまり無い。

マンガ『ベルセルク』を再読 最終回予想など

 マンガ『ベルセルク』が無料公開されていたので再読。途中からは手持ちの本や電子書籍で。

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 昔読んだ時は、ガッツのヒーロー的な活躍にばかり目を奪われていたが、今読むと、人間関係を中心とした物語の方に注目が行く。

 ガッツとグリフィス、そしてキャスカの関係性は少女漫画的ですらある。

 過酷な運命に翻弄され続けながら、踠き戦い続けるガッツの姿が心に迫ってくる。
読むほどに、読んだ人の人生に反射してくる。それだけの深みを持った作品であることを再認識させられる。

 昨今の世界情勢からすると、様々な戦争にまつわる描写も人ごとには感じられなくなっている。


 それにしても絵の迫力が凄まじい。

 ストーリーの山場には、画面の隅々にまで描きこまれた圧倒的なシーンが何度もあるわけだが、むしろそうでない場面でも同じくらいの描き込み量が続いていることに驚嘆を覚える。どうしてモブの貴族のオッサンまでそんなに丁寧に描けるのか、と。

 しかしそれもマンガとしてのトーンを保ち没入感を生むためには必要だったのだろう。

 それだけの描き込みをしたからこその名作。しかしそれだけの描き込みをしたために結末まで描き切れなかったのかもしれないと思うと複雑だ。現在は親友で漫画家の森恒二氏と、元々のアシスタント陣が引き継いでいる。


 以下、雑多な気づいたこと。

 ファルネーゼがこんなに性癖が歪んだキャラだということを忘れていた。最近の話では「キャスカの世話をしながら魔術を学んでいる人」というイメージが強かったので。このあたりの心の闇が改めて描かれる予定はあったのだろうか。

 前半でガッツが戦う使徒は、触で鷹の団のメンバーを殺した使徒である、ということに気づく。文章で説明しないが、きちんと復讐を果たしていたんだな、と。

 ファルネーゼがいた聖鉄鎖騎士団の副長のアザンが再登場していることも一気読みしたおかげで気づけた。

 モズグス様はてっきり最初から人間じゃなかったのかと思っていたけど、出てきた時は本当にただの人間だった。それであの顔って、一体何なんだ。顔を打ち付けても輪郭は四角くならないだろう。

 序盤にやたらと変な名前の騎士団が出てくるのが面白い。紫犀騎士団。青鯨騎士団。実際の歴史でも色プラス名前の騎士団があったのだろうか。


 後年の作品への影響が語られることが多いベルセルク。

 最近『ダークソウル3』をプレイしたが、ゲーム製作者が公言している通り、ベルセルクへのオマージュがそこはかとなく感じられた。

 単にダークファンタジーであるという共通点だけでなく、人間が異形に変わる様や、現実と非現実が交錯する世界観などに強い影響が見られる。

 使徒を倒すたびに、転生に至る過去が描かれる様は『鬼滅の刃』にも影響しているのかもしれない。あるいは間接的な形で。


 最終回予想。

 グリフィスが旧鷹の団を贄に捧げた行いは紛れもない悪行である。

 しかしファルコニアで行われていることまでが全て悪であるようには思えない。間違いなく人を救っている。今後のさらなる悪行への前フリという可能性もあるが。

 なので、グリフィスとガッツが、人と使徒を従えてゴッドハンドと戦い、人の世を「神」が操る運命から解放するのではないか。それは「上昇し続ける」というグリフィスの望みとも合致している。

 そして運命から解き放たれたグリフィスとガッツが最後の決着をつける、という展開へ。

 そもそもなぜグリフィスは、満月の夜ごとに子供になってキャスカの元に訪れていたのか?

 もしかするとグリフィスにも人間らしい心が少しは残っているのではないか。あるいはゴッドハンドになったときに「フェムト」と「グリフィス」という2つの人格に別れた、という展開もありうる。

 実は触でのグリフィスの「…げる」というセリフは実は「捧げる」では無かった、という可能性もちょっと考えたが、さすがにそれは無いだろうか。

 そんな野次馬的楽しみはそこそこにしつつ、無事完結することを祈りたい。