- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
- 発売日: 2010/11/19
- メディア: 単行本
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僕は内田樹の書く本が好きだ。氏が書いた本のおおよそ半分くらいは、買うなり図書館で借りるなりして読んでいる。
しかしだからと言って「内田樹こそ現代日本で最も信頼できる書き手だ」とか「時代を的確に論ずることが出来る、稀有な批評家・思想家・哲学者だ」みたいなことを思って読んでいるわけではない。むしろどちらかと言うと異端、平たく言うと「イロモノ」だと思っている。
僕自身、別に読書に正統を求めているわけではないから全然ウェルカムなんだけど、久しぶりに内田樹の本を手に取ってみて、「どのへんがイロモノなのかな?」という疑問と、その答えのようなものを見つけた。
内田樹はどのへんが異端・イロモノなのか。
それは「わりかし思いつきで喋っている(書いている)」ということではないかと思う。思いつき、というとネガティブに聞こえるが、決して批判しているわけではない。
内田氏は武道家であり、身体の大切さを繰り返し説いている。本書にあるインタビューの中でも、自分自身を「頭で考える」というより「体で考えるほう」だと答えている。
また、「自分の言っていることは、多くの部分で先人達の助けを借りている」というようなことも随所で発言している。そして「自分の書いたものを無断引用してもいいし、自分名義として勝手に発表しても構わない」という態度をとっている(とっていたハズ)。
あまつさえ、同じ著書の中で同じ論旨を、言葉を変えて掲載していることも多い。
これらの事実を鑑みれば、「わりかし思いつき」という表現もそれほど的外れではないと思う。もっと言えば、自分の書いていることが「わりかし思いつき」であるというメタメッセージを発していると解釈しても差し支えないと思う。
氏はあえて、適度に適当に書いているに違いない。おそらく、そのほうが自分の知的パフォーマンスが向上するということをわかってやっているのだろう。違ったらごめんなさい。
もう一つ、この説を裏付けると思われるのは、「本を書くときのボクはウチダというキャラ」である、という発言。こちらのレビューに書いてあった。(多分この本に書いてあるんだと思うけど僕は読んでない。つまり伝聞の伝聞。本当に適当で申し訳ない。)
Amazon.co.jp: レヴィナスと愛の現象学のdaepodongさんのレビュー
知的パフォーマンス向上のために、あえて適当なウチダというキャラを演じている。そしてそれが読者に何となく伝わるように書いている。だからこそ内田樹本は「信頼出来る」のではないだろうか。読者が随意に適当分を差し引いて読めばいいのだから。
何より書かれたものが刺激的で面白い。適当に、つまり感覚的に書いていることがその所以の一つだろう。それが、僕が内田樹本を愛好する最大の理由である。
というような僕の内田樹論は置いといて、この本は内田樹による村上春樹論である。
この本で氏が繰り返し述べていることを要約すると、
- 村上春樹はあらゆる社会に共通して「欠けているもの」を描くことが出来る。それが村上春樹が世界的に受容されている理由である
- 村上春樹作品に共通しているのは「父の不在」である。
- 村上春樹は「雪かき仕事」の重要性を何度も描いている。
といったところだろうか。
詳しい話は本書を読んでいただくとして、内田氏の華麗な論理展開は健在で、読んでいると「なるほどなー!」が脳内を渦巻くこと必至。
しかしあまりに華麗すぎて、論理の階梯を詳細に追うのを忘れてしまいがちになる。結論があまりに説得力を持ち過ぎていて、過程をすっ飛ばしてしまいたくなる。
現実を最もよく説明することが出来る理論が真実である、というのなら、オカルトや都市伝説と何ら変わりない。なるべくなら、正しいと思われることだけを積み重ねてものごとを考えていきたいと、少なくとも僕は思う。氏の理論に関しては、それが難しそうに思える。少なくとも僕にとっては。
それでも僕は内田樹の本を読み続けるだろう。この知的なスリルはちょっと他では味わえないものなので。