前回、佐々木敦『成熟の喪失』を読み、江藤淳の「成熟論」と村上春樹作品との関係を知りたくなった。
ググって出てきた本書がそれに役立ちそうだったので読んでみた。
したところ、まさに自分が知りたかったことが書かれていた。俺の本選び、スゴイ。いや、スゴイのは本を書いてくれている人です。
村上春樹『風の歌を聴け』は擬態(フェイク)としてのアメリカを描くことで、「アメリカに依存し模倣する日本と日本人」を再現した。
審査員は、その作品がアメリカ的なもので充満していることには気づいた。しかしそこに日本と日本人が描かれていることには気づかなかった。あるいは無意識的に忌避した。だから芥川賞を受賞できなかった。
自分の知りたかったこと(それは本書のタイトルへの解答でもある)を無理矢理2行に圧縮するならこういうことになる。
日本を代表する文学者が集まって、そのことに気づかなかったのか、と現代の読者目線で指弾するのはもちろん間違っている。大いに間違っている。
人はそれが自分たちにとって重大なことであるほど、逆にそのことに気付けない。それを認めることが自分の立場を大きく揺らがせるものであればあるほどに。
そのような事態はどんな場所でも、いつの時代でも起こり得る。
ある人のコンプレックスが、周りの人には丸わかりであるにもかかわらず、本人は全くバレていることに気づかない。なぜなら気づかれていることを認めるのがイヤだから。そんな事態に出会ったことがある人も多いだろう。
かつて日本人にとって「アメリカ」とはそのようなものだったらしい。今はどうだかわからないが。
昨今の大統領選挙の様子などなどを経て、すっかりアメリカもまた「恥ずかしい」ものになってしまっているようにも見える。でもアメリカの支配が消えたわけじゃない。
そこから本書は「芥川賞」「近代化」「成熟」、そして「村上春樹作品」といった要素を軸に、日本の小説の歴史を辿っていく。
「なぜ走れメロスを読むと感動するのか?」や「坊っちゃんのヒロインは誰か?」といった問いを考えていく。
そこで明かされるのは、日本の小説が、日本の歴史と密接な関係を持ってきた経緯だ。
どうも「エンタメはエンタメとして楽しめばそれでいい、それで完結したい」みたいに考えている人が世の中には多いと感じているが、それはそれとして、ある作品の内側と外側を詳しく知ることでさらに深い楽しみ方ができる、という事実を本書は示している。
本書が書かれた2010年頃から、芥川賞は、日本の文学はどうなっただろう。熱心にフォローしているわけじゃないけど、女性とヒップホップの時代になっている、という印象。
村上春樹はその後『猫を棄てる』というエッセイの中で初めて自身の父親についてまとまった量の文章を書いた。本書でも言及されている、『1Q84』における父についての描写が、彼の態度の変化になんらかの影響を与えたことは間違いないだろう。