図書館で文學界六月号を読む。千葉一幹【「私」の生まれる場所――『ヘヴン』あるいは社会学の臨界点としての文学】に感動したので、覚えてる内容を反芻。
・「信仰」には二種類存在する。現世利益を求めるものとそうでないもの。正月に賽銭を投げるのは前者。新約聖書に登場したアブラハムやヨブは後者。
・現代の学校における「いじめ」はドラえもんのジャイアンとのび太のように、力関係のような明確な原因が存在し無くなっている。重松清が作品で描いたように、その場のノリや空気、換言すれば社会構造論的な認識がなされる。いじめの原因はほんの些細なものであっても、ノリや空気のような構造がいじめを継続させるし、原因を取り除いてもいじめは無くならない。それはつまり、因果論的認識を否定することでもある。
・しかし、社会構造論的な認識は、いじめられっ子の「なぜ私がいじめられるのか」という問いに答えない。
・アウシュビッツを生き延びたユダヤ人は羞恥を抱えることになったという。それは恥という感覚が、自分で自分を統治できないことを認識することによってもたらされるものだからだ。
・上のようなテーゼが川上未映子「ヘヴン」に即して論じられる。最終的に主人公の「僕」が至った境地は、「自分の斜視は自分を自分たらしめる要素ではない」という認識であった。
・「ヘヴン」で川上未映子は、ニーチェの思想をカントの道徳論で乗り越えようという試みであった。
んーうろ覚え。原文が手元に無いとムリだネ。