暖かくなってきて活動的になり読書を再開。気になっていた小説を読む。今村夏子『むらさきのスカートの女』。著者の小説を読むのは『こちらあみ子』以来2作品目。ネタバレありの感想。
近所でよく見かけるむらさき色のスカートを穿いた女性と、それを観察する語り手の「わたし」。
「むらさきのスカートの女」は「むらさきのスカートの女専用シート」と名付けられた公園のベンチによく座っており、そこで週に一度近所のパン屋で買ったクリームパンを食べる。わたしはその姿を見て、離れ離れになったわたしの姉に似ていると思う。姉に似ているとすればわたしにもどこか似ているのかもしれない。さしずめわたしは「黄色いカーディガンの女」だ、などと考える。
そんな風にして「わたし」による「むらさきのスカートの女」の観察記録が続く。しかし読者である自分にとって、「女」は言ってしまえば、どの街でもときどき見かけるようなちょっとした変わり者でしかない。その観察記録が延々と続くのではないか、と予想しちょっと不安になった。
しかし読み進めるほど徐々に浮かび上がってきたのは、「女」ではなく語り手である「わたし」の異常性。良い意味で期待を裏切られた。
人混みをすり抜けるのが異様に上手い女に、わたしは興味本位でわざとぶつかりに行く。結果避けられた挙げ句、勢い余って肉屋のショーケースに激突、破壊してしまい修理代金を請求されるハメになる。勢い、強すぎ。
その後もわたしは女のことを「元フィギュアスケート選手のタレント」や「画家になった元同級生」など、様々な人に似ている、と考える。さながら恋愛対象を見るような視線で。
わたしは女が住むアパートを調べ、仕事場と労働日をチェックし、女の元気さによってその日女が働いた日どうかを判別しようとしている。
ここに及んで読者は「わたし」が完全がストーカー行為を働いていることに気づく。しかも語り手のわたしはそのことを省みたりはしない。当たり前のこととしてそれをやっている。唐突に「むらさきのスカートの女と友だちになりたい。」と語り出すわたし。その唐突さがまた怖い。
わたしは「女は街の有名人になっているに違いない」と考えている。しかしそれもわたしの誇大妄想なのではないか? と疑わしくなってくる。
読んでいるうちに、もしかすると女よりもわたしのほうが近所では不審者として有名なのか? とも思ったが、むしろわたしはどこに言っても目立たない、社会的に透明な存在として描かれているのでおそらくそれはないだろう。
小説には「信頼できない語り手」という手法がある。主にミステリー小説でよく用いられる手法で、小説の語り手自体が何らかの嘘やごまかしをしている、というもの。ゲームに例えると「実は主人公が魔王だった!」みたいな展開。本作もそれに分類できるだろう。
あるいはちょっと物語作品に触れることに慣れている人であれば、ここまで読んで、もしかして語り手のわたしとむらさきのスカートの女は同一人物なのではないか? と考えた人も多いのではないか。
ストーキングにしては女に密着している時間が長すぎる。むしろわたしが女の別人格、あるいは女がわたしの生み出した妄想だとすれば、序盤の描写は色々つじつまが合う部分がある。
そういった、良くも悪くも謎解きパズルみたいな小説なのではないか、と危惧しながら読み進めた。しかし結論から言えばそのような展開にはならない。
わたしは「専用シート」に印をつけた求人雑誌を置くことで、ある仕事の面接を受けるよう仕向ける。いつも髪がパサパサに汚れている女の心証を良くするため、こっそりアパートの前にシャンプーの試供品を置くという根回しまでして。ここは少しだけわたしが健気に見えてくる。
しかしその間にも、わたしが家賃を滞納し、夜逃げの準備までしている、という状況が明かされる。どう見ても他人に気を使っている場合ではない。
女は面接に受かりホテル清掃の仕事を始める。この初出勤のロッカールームの描写で、特に上記の「わたし=女」感が強まる。わたしの主観が女の主観に限りなく接近するのである。
実際のところ、わたしは元々ホテル清掃の職場で働いており、女を自分と同じ職場で働かせようとしてたことがわかる。視点が接近するのは、同じロッカールームですぐそばから女を観察していただけに過ぎない。
文庫版の巻末に収録されたエッセイによると、どうも著者は「わたし=女」を狙って書いたわけではないらしい。しかし「わたし」の無意識な同一化願望が著者の無意識を通して出てきたとすると、それはそれでとても面白い。
冒頭からわたしの目にはまるで街の変人のように映っていたむらさきのスカートの女だが、意外にもスムーズに職場に馴染んでいく。所長にも気に入られ、彼女の本名が「日野まゆ子」であることも明かされる。
同時に読者にとっての「わたし」の信頼できなさがさらに加速していく。このあたりで気づけば自分も物語に引き込まれていた。
果物やお菓子といった職場の余り物を持ち帰る女。公園でリンゴを食べ、子供と遊ぶ女。どこにでもあるような女性の姿だ。今では見知らぬ大人が子どもに声をかけることはありえないだろうが、作中の時代設定であればそれほどおかしなことでは無かったと思う。
異例の早さでトレーニング期間を終え、職場の飲み会にも参加する女。順調である。一方わたしは女に話しかけるタイミングを伺っているがなかなか切り出せない。
ある日混雑する出勤バスが揺れた際に、不意に女の鼻をつまんでしまうわたし。ちょうどその時女は痴漢をされており、犯人の男を警察に突き出す。
このシーンに、ここまであらわになってきたわたしの「不条理さ」が凝縮されているように思う。
痴漢の被害を受けていた女は、当然のように鼻をつままれた程度のことはまったく覚えていない。
しかしわたしはそのことを覚えていてほしかった。だから、もう一度鼻をつまもうと決意する。
細かいことにこだわりすぎるおかしさは、まるでコントのよう。しかしおかしさの裏に、偏執狂的な怖さがある。と、同時に、好きな人にちょっかいを出して気を引きたいという加虐心には普遍性もある。鼻をつまむほど肉薄しているにも関わらず女に認識されていないわたしの哀しさも感じさせる。その全てがブラックホールのように一点に集約されている。
その日以降、女は出勤のバスに姿を見せなくなった。のちに所長に車で送迎されていることがわかる。
公園で子どもたちにホテルのチョコを配る女。ここで、何者かがバザーでホテルの物品を横流ししていることがほのめかされる。
この間、わたしは二回ほど女に話しかけようとする。しかし別の人との会話にかき消され声は届かない。
やがて「女」は妻子のある所長と不倫関係になり、職場でも堂々と振る舞うようになる。服装や化粧も華美になり同僚に嫌われ始める。これ以降の女にまつわるレディースコミックじみた描写はいかにもな俗っぽさなのだが、そこに「わたし」の視線が加わることで異様さがいやおうなく増している。
この早すぎる「女」の変わりようも、見ようによっては少々不自然ではあるが、特に理由が明かされることはない。
休日、女と所長のデートをストーキングするわたし。
待ち合わせの喫茶店で落ち合い、映画の時間に間に合わせるため、ミルクティーを急いで一口だけ飲む女。何気ない描写だが、店員への気遣いが出来る女の健常さが示唆されている。
一方わたしは、二人を追って入った映画館で「ダーティーハリー」を観るのが楽しみすぎて、うっかり二人を見失いかける。読者が思わず、アカンやろ!とツッコミたくなる突っ込みたくなるポイントである。
「わたし」はとにかく異様に計画的だったり、かと思えば衝動的だったりするのである。そのことが時におかしく、時に怖い。
居酒屋に入った女と所長。それを追うわたしはビール3杯につまみ2品という、明らかにストーキングに必要ない量の注文をした挙げ句、おそらく金欠のために食い逃げをする。いよいよ堂々と犯罪行為に手を染め始める。
さらにわたしは居酒屋で所長が忘れたサングラスを置き引きしていた。女を奪った所長に対する意趣返しだろうか。
二人の会話から女に実家と兄、姪と甥がいることを知る。一家が離散したわたしとは対照的に。
やがて女と所長は、わたしと女の近所の商店街に近づく。着飾って男と歩く女の変わりように皆が気づくのではないか、と妄想を膨らませるわたし。しかしもちろんそんなことは起こらない。そんな風にむらさきのスカートの女に執着しているのは、わたしの他に誰もいないから。
そして所長が女の家に泊まってデートは終わる。
本文中には全く書かれないが、「わたし」は「女」のことを勝手に自分と同じ天涯孤独だと見なしており、ゆえに執着していたのではないか。しかし実際は女には家族づきあいがあり、男と交わる社会性、女性性を持ち合わせていた。
それによってわたしの幻想は破れた。それを否認するために、この後わたしの行動はエスカレートしていったのではないか。静かにダムが決壊するように。
その後のわたしの具体的な行動と根本的な行動原理は明確には描かれないが、おそらくわたしが横流しをしていたバザーの罪を擦りつけることで女の職場での地位をおとしめ、女と共に駆け落ち同然の逃避行を計画する。
さらに偶然の事故をも利用し、ついに女と対話する。このシーンの一方通行さもまた恐ろしく哀しい。
ここでわたしの正体が明かされる。ここに関しては、ちょっと謎解き小説っぽい安直さを感じなくもない。すでに伏線は張られているし*1、正体を明かさず読者が推測する形にした方が「バズった」かもしれない。
とはいえ現行の「わかりやすさ」も今の読書環境においては必要なことなのかもしれない、とも思う。
結局わたしの思惑は最後の場面で外れ、女は姿を消してしまう。
女、そして読者の視点から見れば、よく知らない職場の同僚と共に逃げる必然性は全く無いわけで、姿を消すのは当然のこと。作中では一貫して合目的的に行動する女であればなおさらで、それこそ地元にでも帰ったのではないだろうか。
だが己の願望と現実の区別がつかないわたしにはそのことがわからない。それが読者に何とも言えない哀しみを催す。
女を追いかけるために乗り込んだバスの支払いを、わたしはなけなしの「つくば万博記念硬貨」でしようとする。当然、硬貨投入口に入らない。そこでバスの運転手が100円玉硬貨5枚と記念硬貨を交換してくれる。
このエピソードは極めて重要だと考える。なぜならそれまで社会的に透明だったわたしが、作中で初めて他者と交渉することに成功したシーンだからだ。これまで閉じていた、わたしと現実との回路が開かれるのである。
わたしの「計画」で落ち合う予定だった街で女を探そうとするわたし。しかしわたしは、昨夜女が履いていたものの色も形も思い出せない。
ここでわたしがずっと女を「むらさきのスカートの女」と呼び続けていたことの異常さが浮き彫りになる。わたしは「日野まゆ子」という女性ではなく「むらさきのスカートの女」という虚像を追いかけていたのではないか。
女が消えたあと、わたしは所長を脅迫し、お金を借りることに成功する。読者の目にはもはや完全なサイコパスである。当代風に言えば完全に「ヤベー奴」。
しかし同時にその行動は、これまで徹底的に非社会的だったわたしが、完全に現実世界に参加するようになったともとれる。透明だったわたしが透明でなくなった。そこにはある種の希望も見い出しうる。女に声をかけることをためらい続けていたわたしの面影はもうどこにもない。たくましさすら感じる。やってることはヤベーけど。
わたしは専用ベンチでむらさきのスカートの女を待ち続ける。と、同時にむらさきのスカートの女に成り変わる。恐ろしい。でもどこかに明るさがあるのは、わたしに成長のきざしがあったからだろうか。
「わたし」が読む人の心を捉えるのは、単に異常であるのではなく、そこに不条理さがあるからだろう。本人は良かれと思ってなにかをする。でも世界がそれを弾き返す。そういう不条理。
そしてそれは愛情の持つ「一方通行さ」というある種の普遍性に根ざしているように思われる。だからどこかで「わたし」のことを他人事とは思えないのだ。
徹底的に女を観察し、手助けをするわたしは、しかし女に直接関わることはできない。目的の為に必要な行動ができない。追いかけることが目的化してしまっている。
対して女は極めて合目的的に生きることができる。職場で地位を得て、所長と不倫するような社会性を持っている。
その二人がぶつかる、というかわたしのほうが「ぶつかりに行く」ことで、ある事件が起こる。その顛末を描いた、恐ろしくて哀しくておかしい不思議な小説だ。
*1:2度ほど意味ありげに名前が出ている他、単行本55ページ、所長が挙げる「全員が個性派」のチーフの中に「わたし」が入っていない