かれこれ20年くらい、夕食後に1杯のドリップコーヒーを飲むのが習慣になっている。改めて考えてみると実に長い。最近は目覚めのインスタントコーヒーも日課になっている。
今年の2月、ふと思い立ち、粉末のレギュラーコーヒーではなく、初めて焙煎された豆のコーヒーを買い、コーヒーミル(某100円ショップの500円商品)で粉砕してドリップしてみた。
美味かった。めちゃめちゃ美味かった。今まで飲んでいた「粉のコーヒー」とは別物だった。長州力と長州小力くらい別物だった。長州小力は素晴らしいお笑い芸人であるが、やはり長州力とはどう見ても別人である。そのくらいに違った。
缶コーヒーやインスタントコーヒーの美味さを「1」とすると、レギュラーコーヒーのドリップは松竹梅の「松」くらいの美味さがある、と考えていた。それくらいの差がある。というより前者と後者は完全に別の飲み物だ。そう考えている人の方は多いのではないか。
初めて飲んだ、飲む直前に挽いてドリップした珈琲は「三冠王」くらいの美味さだった。なかなか味の余韻が消えず、一時間くらいそわそわしていた。
と、同時に、市販のレギュラーコーヒーの雑味や、時間が経って酸化した豆の酸味がわかるようになった。わかるようになってしまった、と言った方がいいか。
そんな経緯で、もっとコーヒーについて知りたくなった。そこで目に止まったのが本書。
おそらく『珈琲飲み』というタイトルは有名な小説『やし酒飲み』からの引用ではないか。これは信用できそうだ、と。うーん、文化的。やし酒飲み、読んだことないけど。今度読もう。
なお本書では「珈琲」「コーヒー」という表記が両立しているが、率直に言って自分には違いがわからないので基本的に「コーヒー」で統一する。
昨今書店に並んでいるコーヒー関連の書籍は、なんとなく業界のコマーシャリズムをそのまま流しているもののように自分には見受けられる。いや、自分は素人だからよくわかんないんだけどね。うん。
その点本書は、著者の知識と経験に基づき、誰かに都合のいいことも悪いことも公平に書かれており、極めて真っ当な本であると、素人の自分でも感じた。
オーディオマニアがケーブル1本に100万円出すような、もはや素人にはわかりかねる領域の話も多かったが、そういった主観的な部分と、客観的な事実がキッチリ分けて書かれているので読みやすかった。
1970年代中頃、中学生だった著者は地元愛知で喫茶店通いを始める。
80年に大学進学で大阪に出てからは、ジャズレコードをかけながら飲食を提供する「ジャズ喫茶」に足繁く通うようになる。
子供の頃からコーヒーに興味を抱いていた著者は、2003年に広島の喫茶店「モンク」でマスターの指導を受けながらコーヒーの焙煎・粉砕・抽出を学ぶ「珈琲修行」をする。勤務している大学の「国内留学」制度を利用し、社会学的研究と並行しつつ。
まず「珈琲修行」という概念が自分の中で新鮮だった。しかし考えてみればどこかに「コーヒー専門学校」みたいなものがあるわけでもなし、珈琲に関する国家資格もおそらく無いので、喫茶店のマスターに指導を請うのが正道になるのは自然の流れと言える。
そこから日本におけるコーヒーと喫茶店文化の趨勢、専ら商業的要請によって作られてきたコーヒーの流行など、コーヒーにまつわる社会学的知見を交えつつ、社会学者となり、同時にディープなコーヒーマニアになった著者の珈琲遍歴が語られていく。
明治期に開かれた、今で言うアミューズメント施設のはしりのような「可否茶館」、女給のサービスがどんどんエスカレートし、ついに規制対象になった「特殊喫茶」などの歴史は、「昔も今もやってることあんま変わらんなぁ」などと妙な感慨を抱かせる。
元々ヨーロッパで発祥したカフェは元々社交場的色合いが強く、誰でもコーヒー1杯分の料金を払えば議論に参加できる場であり、イギリス民主主義やフランス革命にもその役割を果たしたと言われている。そんなカフェ文化は日本には根付かなかったようである。
19世紀後半のアメリカでは、生豆の状態で数年以上保管した「オールドコーヒー」をヴィンテージワインと同じように高級品として珍重していた。
しかし近年はアメリカのコーヒー業界が中心となって「生豆は新鮮であればあるほどよい」という「ニュークロップ至上主義」を広めている。
帝国飲食料新聞社が1965年と2003年に出した書物をそれぞれ見比べると、オールドコーヒーに対する評価が180度反転していて、そのあまりにも露骨な手のひら返しはちょっと笑ってしまうほど。
50年も経てば物事の評価が変化するのは当たり前かもしれない。しかし著者はこの変化を政治的、あるいは商業的な理由によるものではないかと推測している。
19世紀後半には、オランダ政府が保管していたジャワ島やスマトラ島に保管していた「年代物官製ジャワ」が存在し流通していた。これに偽装するため安くて新しい豆を有毒な砒素や鉛で着色したする悪質な業者が現れ、「毒入りコーヒー」として事件になったこともあったという。
しかし現在では、大量のコーヒーを良好な状態で保存、管理するのがコスト的な問題で難しい。
筆者の視点からも、コーヒーは一概に「新しければ良い」「古ければ良い」というものでもなく、両者は別の個性を持った別のコーヒーであると述べている。
だったら手間とコストのかかるオールドコーヒーよりも新しいコーヒーを流行らせて高い値段で売ったほうが儲かるじゃん、という理屈。うーん、資本主義。
そんな現在でもコーヒー通の個人間などでは生豆を保管するエイジングが行われており、歴史のある老舗の珈琲店ではオールドコーヒーを提供している場所もあるらしい。一度は味わってみたいもの。
その他、コーヒーにまつわる大小様々な話が満載。江戸時代に伊万里焼の珈琲椀が輸出されていた、なんて全く知らなかった。
日本で始めて缶コーヒーを商品化した伝説の人物三浦義武氏が作ったとされる幻のコーヒー「ラール」のエピソードはもはやファンタジー。
ネットでざっと調べたところ現在ラールは「ヨシタケコーヒー」として復元され、氏の出身地である島根県浜田市の喫茶店で提供されているとのこと。本書の著者もその認証委員会に関わっている模様。
「珈琲修行」を経た著者は、全国のコーヒー店を行脚し、小型の業務用焙煎機を自宅に設置、キログラム単位で購入した生豆を焙煎し、少人数の会員に配布する「珈琲倶楽部」を立ち上げ、ついにはコーヒー豆の産地インドネシアのスマトラ島にあるコーヒー農園まで見学に行く。
ここまでくるともはや世間一般で言うマニアのレベルを超えている。茶人ならぬ「コーヒー人」とでも呼ぶべきか。
自分はそこまでコーヒーに人生を捧げる覚悟は今のところ無いので、特別な日に豆を買って挽く、くらいのところでコーヒーを楽しんでいこうと思っている。今のところは。
この本を読んで明日から自宅で簡単に美味しいコーヒーが入れられるようになる、というたぐいに本ではない。代わりにコーヒー文化の奥深さと歴史に思いを馳せることができる。そして今後の人生の「コーヒー観」を豊かにしてくれるだろう。それこそコピ・ルアクのように希少な良い読書体験だった。コピ・ルアク、飲んだこと無いけども。