rhの読書録

読んだ本の感想など

映画『時をかける少女(1983年)』

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 先日『ライムスター宇多丸の映画カウンセリング』を(意図せず)再読して、そこで紹介された中で一番観たいと思った映画が本作だった。Amazonビデオでちょうどよく100円セールだったので観ることにした。

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 原作は相当昔に読んだのだけれど、正直言って全然印象に残らなかった。筒井康隆が子供向けの話を書いたんだな、と思っただけで内容もすぐに忘れてしまった。

 映画版も大人になってから観ると「ああ、少女ジュブナイルものね」と思ってしまうし、様々なメタファーも解釈できてしまう、というかすでに様々な解釈をいろいろな本などで読んでしまっているわけだけれど、「ループもの」をジュブナイル小説と接続した原作小説、それをアイドル映画にした本作、どちらも非常に画期的だったのだろう。

 すっかり失われた昭和の学校風景に心をうたれる。焼却炉でゴミを燃やすシーンでダイオキシンのことが気になってしまったが、最近はダイオキシンという言葉もすっかり聞かなくなったなぁ。

 原田知世の「少年っぽさ」が大人の階段を登る少女役に実にマッチしている。ラストに出てくる成長した妹役の岡寛恵の「女子っぽさ」が対比的だ。

 と、思って調べたのだが、岡寛恵は当時13歳だったらしくてさらにビックリ。年長に見えるのは小柄な原田知世と並んでいるからだろうか。並んだ時に違和感が出ないように年下をキャスティングしたのかもしれない。

 タイムリープのシーンは「あぁ、80年代だなぁ」という映像技術ではあるのだが、演出の確かさによって見ごたえがあり、エモーショナル。コマ送りで時間移動を表すシーンがなんかすごくいい。純和風の世界がSFになる不思議。冒頭の色使いがただのフンイキ演出じゃなくてちゃんと伏線だったことに唸らされた。

 そしてエンディングの圧倒的おしゃれさ。思わず心のなかで叫んだ。オシャレエエエエ!!!と。

 自分が映像作家だったら絶対真似したいと思う演出。でもあまりしてる人がいないのは真似したらすぐバレるからだろう。このエンディングのためだけでも本作は見る価値がある。


 時間SF作品における時間移動現象には様々なパターンがある。単純に別の時空間に移動するものもあれば、「本人の意識を保ったまま全世界の時間が戻る」というタイプもある

 本作のタイムリープは物語冒頭では後者の「時間戻し」パターンに見えるが、実は前者の「時空間移動」パターンであることが後半でわかる。

 さらに「過去に戻ると、過去にいる本人が消えてしまう」というルールがある。他の作品だと、本人同士が出会うとタイムパラドックスが起きて大変なことになる、みたいなパターンはよくあるが、時間移動するだけで元々いた自分の存在が消えてしまうという設定は珍しい。

 つまり芳山和子はタイムループするたびに過去の自分と入れ替わっていることになる。そしてその入れ替わりは、深町一夫が周囲の人間の記憶を改竄することで堀川吾朗と立場を入れ替えたことと対応しているように見える。(参考:『時をかける少女』細田版が答えた「残されていた問い」とは? | 文春オンライン

 人は生きているだけで居場所を占有しているし、時に誰かの居場所を奪わなければ生きていけない。ということを歌っていたのがBUMP OF CHICKENの『カルマ』だったと思うのだけれど、本作もそのようなテーマを扱った作品なのかもしれない。

 たとえば恋愛は居場所の奪い合いだし、グランプリに優勝したアイドルなどはまさに他の数多のアイドル候補という生贄の上に立っているとさえ言える。

 そう考えると本作の結末は結構怖い話なのかもしれない。結末の和子の顔もなんだか楽しそうではないし。

 しかしその結末があのエンディングによってガラッと別のものに意味を変える。ということを書くと宇多丸氏の受け売りになってしまうので、詳しくは文藝別冊『総特集 筒井康隆 日本文学の大スタア』の氏による評論を読んでいただきたい。

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 生きることは時に残酷かもしれないが、命の輝きはここにあり、それは誰にでも訪れうるものである。そんなことを感じるエンディングだった。


 人はただ本当に欲しいものの「代替」を探しているだけなのかもしれない。

 という考え方は危険だろうか?

 全てが代替に過ぎないとしたら。決して本質には辿り着けないとしたら。残酷なことだ。

 でも誰だってみんなそうなんじゃないか。本質の周りをぐるぐる回っているんじゃないか。

 本当に本質に辿り着いてしまったらとんでもないことになる気がする。もしかしたら辿り着いてしまった人も歴史上には存在するのかもしれないけれど。

 頭の中にだけ存在する「本質」を追いかける。だから「現実」を見ることができない。人はみな多かれ少なかれそうやって生きている。

 それ自体は悪でも善でもない。ただ人は、いつも自分を取り囲む現実の一部が失われてから、初めてそこに現実があったことに気づき、後悔する。

 そしてその失った現実を本質として頭の中に描き、またそれを追いかけ始める。

 同じことの繰り返し。だからタイムループものが流行るのかもしれない。

 でも別にそれは虚無ではない。なぜなら生きるって多分そういうことだから。


 どうでもいい話だが、途中から深町一夫役の高柳良一がマヂカルラブリーの野田クリスタルにそっくりに見えてきて、そういえばマヂカルラブリーはキングオブコントでループもののネタをやっていたな、と謎の偶然性を感じるなどした。そのせいでラストの顔に黒い物体を塗るシーンが新手のギャグに見えてしまった。